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209回目 2019/10/10

 勉強の一環、と思いながらアニメを視聴し始めてそこそこたち、思ったことがあります。


 とりあえず『媒体の適性』はあるのかもしれない、ということだ。


 先に断っておくが、今回も個人的な意見で述べているため、何か明確なデータや根拠があるわけではない。あくまで私の感じたことをそのまま記述するだけの感想文なので、深くつっこまれても困るためあしからず。


 さて、では話を戻そう。


『媒体の適性』とは、私がそこそこ知っている『ラノベ』が原作になっている場合においては特に、『原作表現の方が面白いだろう』と思った作品が散見されたために考えるようになったことだ。


 割と一般的な認識として、ラノベやマンガ作品のファンは熱心であるほど『アニメ化』を望む声が高まる。それは『文字情報』や『静止画』でしか読みとれないストーリーやキャラクターを、『動画』という『より情報量の多い媒体』で視聴者が抱くイメージをより強く固定させるからだと推測される。


 ラノベだとそれはより顕著(けんちょ)になる。すべての情報を『文字』でしか表現できず、世界観の構築を読者の想像力に依存しているためだ。ラノベはまだ視覚的情報を表紙絵や挿し絵で多少は補えるが、大きいくくりでの『小説』だとイラストすらない。


 いってしまえば、『小説』は『娯楽』の中では比較的安価かつ持ち運びも容易なため『手軽』ではあるが、一ページにおける情報量の少なさや平均的な読了時間を考えると『不便』な『媒体』なのだ。


 もちろん、『小説』などの活字媒体が好きで慣れている人なら気にしないだろうが、『読書離れ』や『出版不況』が叫ばれて久しい世間からすると、すでに『娯楽』としては『マイナー』な立場にあるといっても過言ではないだろう。


 それに、『小説』のほぼ上位互換な『媒体』としてすでに『マンガ』が存在している。生産速度や創作者の技量など、制作側のデメリットは増えるものの、消費者にとっては『小説』と似た利点を持ちながら断然『読みやすい』ため、『マンガ』の方を好んで求めるのは当たり前だ。


 さらに、その上で『マンガ』のキャラクターが動いてしゃべったら……という需要に応えたのが『アニメ』という表現方法だ。集中線や書き込みを多くすることで『動き』を表現せざるを得ない『静止画(マンガ)』と違い、実際に動いている(ように見える)のだから『わかりやすさ』はさらに上昇しているだろう。


 このように、『導入のハードルが低い』という面で持ち上げれば『アニメ』はとても優秀な『媒体』だが、その裏でちゃんとデメリットも存在する。


 たとえば、『台詞以外での細かい表現・描写』だろうか。基本的に『アニメ』は『キャラが動いている』からこそ『常に動いていないといけない』みたいな制約があるように感じる。


 つまり、『動きがない状態が続くと退屈になりやすい』という一面だ。現代の『アニメ』だと、その印象がより強いイメージがある。


 たとえばキャラがただ『直立してしゃべっている』だけでは『マンガ』とそう変わらないし、『アニメ』である必要性が薄まる。また『作画量の少なさ』から『キャラの動きが不自然』だった場合も、強烈な違和感として視聴者に受け取られかねない。


『キャラが動いている』ことによって『動き続けなければ長所が殺される』、という『諸刃(もろは)の剣』的な『媒体』と考えられそうだ。


(ただし、逆に『動きが多い』とか『動作がなめらか』になると『アニメ』の評価は高く上がりやすい。京○ニとか○fotableとかが、評価の高い製作会社としてすぐに思いつく名前だろうか?)


 それに関連して、『動きがない表現』を多用することが難しい『アニメ』は、『心理描写を削る』傾向が強い。特に『一人称ラノベ』が原作だと多い気がするが、『主人公(キャラ)の思考や心の声』を省略した結果、『主人公(キャラ)が突拍子もない言動をする』ように『見えてしまう』ケースが散見される。


 原作の小説ではたいてい、『○○と思ったから、△△しよう!』みたいに(例がだいぶ適当だが)地の文で描かれているため、『アニメ』では『なんだこいつ?』と思われかねない言動も不自然ではなくなることが多い。


 その点、『アニメ』は作業量の多さや作業時間の短さ(ブラック)など、制作側が一方的にこうむるデメリットも相まって『よけいな描写』に力を入れる『余力』も『余裕』もない。必然、『必要で目立つ描写』にのみ注力せざるを得なくなる、と考えられるのだ。


(例外として、動画作業量を減らすためにわざと『静止シーン』を増やして心理描写(こころのこえ)をマシマシにする、といった苦肉の策はありそうだ。アニメーターのやりがい搾取で寿命を削るような勤務形態が当たり前と言われる業界なので、あまり声高に批判するのもかわいそうだが)


 その上で『不必要と判断された部分』の選択を間違えると『なんだこれ?』状態が強まり、『作品の良さを殺す』ことにつながってしまう。下手をすれば、『原作ファン』という有力購買層を一瞬で失うことにもなるだろう。


(反対に、『不必要と視聴者が思ってしまう描写』をアニメオリジナルとして入れてしまうことも、同じように反感を買いやすくなる。視聴者と価値観が真逆のことをやってしまえば、評価は本当に悲惨なことに……)


 話が異様に長くなってしまったが、そうした『アニメ』の性質を考えれば『小説(ラノベ)』を原作として使うのは、『マンガ』などと違って『ややリスクが高い』のではないか? と思うのだ。それを『媒体適性』という観点から長々語ったわけである。


 特に『なろう系』と『アニメ化』は個人的に相性がかなり悪いと思ってしまう。


『なろう系』は『ネットのアングラ領域』で受け入れられたから人気だった、という印象が強い。それがひとたび一般に出たら、『タブー視』されるような手法・表現が目立ってしまって異物感が強まるのだ。


 たとえば、『なろうテンプレ』というある種の『共通設定(シェアワールド)』は完全に『内輪ノリ』といえる。『学校の先生』のモノマネがいくら同級生にウケても、テレビのバラエティで披露しても伝わらないような感じだろうか。


 他にも、『ネット用語やメタネタの多用』は人を選びやすい。この日、私は原作を知らない『平均値』のアニメで『メタネタ』の頻発(ひんぱつ)を確認し、よけいにそう思った。主人公の台詞に結構な頻度(ひんど)で『他作品を想起させる表現』が見られたため、『権利関係大丈夫か?』と心配になってしまったほどだ。


 こうした部分は、『ネットという環境』と『文字情報のみという媒体』だからこそ、『受け入れられやすい表現』なのではないだろうか?


 何というか、『なろう』利用者の一人として『表舞台に立たせてはいけない』みたいな思いを抱いてしまった。作品の内容を知らなかったからだろうか? それとも、前身が『二次創作文化』だからだろうか?


 ともかく、『アニメ』は原作のありなしやジャンルの如何に関係なく、『|当たればデカいが外れれば地獄ハイリスクハイリターン』な『ギャンブル的』性質を持っている『媒体』のため、原作や脚本の『適性』も大事なんじゃないかな? と思った次第だ。


『アニメ』に限らず、多くの商品には複合的な『成功・失敗の要因』がありますから、『これだけが正解!』などともいえませんけどね。


 ただ個人的にですが、『小説の目線』で『アニメ』を見ていると、『もう少し説明や補足がほしい』とか『テンポ早すぎてわかりにくい』とか、置いてけぼりになった感覚をそこそこ覚えるんですよ。


 視聴中にも変な引っかかりになってしまうので、もしかしたら私自身が『アニメという媒体』の適性を持っていないのかもしれません。難しいです、『娯楽』って。


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