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191回目 2019/9/22

 毎日のように『なろう』批判の記事を目にしている気がしますが、それで『主人公って何だろう?』と思うことが増えました。


『なろう主人公』の要素としてほぼ確実に挙げられるのが『最強・無双』といった、作中における強さへの言及と、『ハーレム』などといった異性に対する異常な求心力(適切な表現かはさておき)だ。


 他にも目上――特にファンタジー設定だと王侯貴族に対して敬語をいっさい使わないなどに代表される、悪い意味での『傍若無人』に類する性格も嫌な要素として挙げられている。


 こうした意見を目の当たりにするたび、どうして『なろう主人公』は『悪役のラスボス』ではいけないのか? と思うようになってしまった。


 要素だけを見ればどう考えても『ラスボス』で、『倒されるべき敵』としてならとてもおいしい役回りではないだろうか?


 まず『最強』要素はいうまでもなく、最後に倒す敵が弱いと拍子抜けするものだし、主人公(とその一行)に倒されるまでは事実『世界最強』だったわけなので、作品終盤まで設定に矛盾はない。


 それに力をふるう理由が『自分ルール』である場合が多く、ともすれば独裁者の考え方に等しい。自分の中にある良心に従っている、といえば聞こえはいいが少し間違えれただけでただの破壊者にしかなり得ない。


主人公(じぶん)が好き勝手やりたいから異世界にいきたがる』という意見を否定できない部分がそこで、ときおり『法律』や『公序良俗』を無視した行動をとることもあるため、非難されやすくなっていると思われる。


 それが『傍若無人』ともつながってくるのだろう。敬語を使わない(使えない?)のを筆頭に、他人のいうことは聞かないのにいうことは聞かせたがる、なんて悪役以外の何だというのか。


 ほかにも、社会的な『悪』が敵であれば容赦しなくていい、みたいな雰囲気もよくあるか。私も【普通】で私刑とか描いているので強くはいえないが、その国・地域の司法判断を待たずに直接暴力で解決! という文明人とは思えない解決法が目立っていることは否定できない。


 確かに人の法律で裁けない『悪』もあるだろうが、さりとて『悪』だから『モブ』だからという理由で皆殺しとかやられると、最近は少しどうなんだと思うようになっている。


 読者としては一時的にすかっとはするだろうし、作中の被害者からは感謝もされるだろうが、いなくなったからすべて問題なし! とはいかないのが人間社会でもある。


 たとえば『その地域を縄張りにしていた、影響力のある大盗賊団』を壊滅させたとして、盗賊団の影響力がなくなった土地はまた別の『悪』にとっては『拠点候補』として扱われ、新たな脅威を招く呼び水となりかねない。


 討伐する前の段階ですでに『大盗賊団』が入り込むような(すき)があった国・地域において、行政への連絡なしにつぶしてしまってその後のフォローはどうするのだろうか?


 横暴な振る舞いは目に余る! という義憤から勝手にやってしまえば、前から対処に追われていた部署? は寝耳に水なわけで、最初に情報収集から始めなければならない。


 初動から遅れている上、さらに主人公一行が近くの村だけに報告して旅だってしまえば、無視された行政としては正確な経緯を知らないまま『盗賊団が壊滅した』という事実だけが残されてしまう。


 すると、今後はどのように対処すればいいかの見当がつかず、まるで災害が通り過ぎたような感覚で終わってしまうだろう。


 そりゃあ、超力業でつぶしただろう主人公側のやり方を参考にはできないだろうが、それでも面会して話を聞き報償などを出して渡り(つば)を付けておくなど、できることはまだあったはずだ。


 そして、被支配地域が一気にフリーになると管理の問題が浮上する。領地として与えられていたとして、実質それまで居座っていたのは無法者であって、その分だけ領地経営側の人員は削減されていた状態で回っていたと考えられる。


 そこへいきなり管理地域が増えたとなると、人員不足のまま仕事だけが増えることになるため、『盗賊団』を入り込ませた(すき)(すき)のまま残した状態を続けてしまうことになる。


 自然、対処できうるだけの人材を募集・選定し派遣するまでの間に、別の無法者が侵入してくるだろう。


 そうした二次的被害を防げないまま表面的な問題を解決しただけでは、本当に主人公側の自己満足に終わってしまう。


 まあ、かなり穿(うが)った見方をしている自覚はあるし、まだ社会経験の浅い子どもが主人公の場合だと詰めの甘さがでてもしょうがない。


 が、さすがに社会人経験のある年齢からの『転生』設定や、スタートから主人公が『中高年』で始まるタイプの物語だったら、それくらいの気配りはできていてほしい、と思うのは私だけだろうか?


 そういうある種の人間社会における構成員としての『幼稚さ』が、主人公や作品への批判が集まる要因の一つではないかと考える。


『幼稚さ』はすなわち『未熟さ』であり、『最強』というイメージに付属しやすい『完璧』や『成熟』とは真逆の部分を見せてしまうことになる。


 そういう面を読者が少しでも感じてしまえば、好感が一転して明確な反発になってしまうのだろう。読者側がどういう見方をするかにもよるが、やはり読書経験が長いとよりこの『違和感』に気づきやすくなる傾向にはあるだろう。


 また、『違和感』といえば『ハーレム』系に特有のご都合主義にしか思えない『モテ要素』も、よく矢面にたたされる要素だ。


 これに関しては主人公の倫理的な価値観(日本人・元日本人であれば特に)を疑う声や、ヒロイン側の『力こそ正義!』みたいな惚れ方(ピンチを助けられて即落ち)にあきれる声が真っ先に思いつく。


 前者は典型的な『俺様ルール』の印象を与えるし、後者は後者で『お前らの恋愛観は原始時代かよ』と感じてしまうほど『吊り橋効果』が幅を利かせている印象がある。(※個人の感想です)


 人間関係がそんなに単純ならば、誰もリアルの人間関係に悩んだりはしない。恩を純粋な恩としてしか受け取らない場合もあるし、むしろ(あだ)で返そうとする(やから)もいる。(どこ(コリア)とはいわないが)


 なので、あまりにも単純化された反応や結果はより『人形(キャラクター)』感が強くなってしまうことから、恋愛に関してまじめに取り組むならもっと『面倒臭く』した方がそれっぽくできると私は思う。


 ただ、『なろう』だとそういう『面倒くささ』がデメリットでしかないため、人間関係もショートカットしてしまうのは仕方がないのかもしれない。


『なろう』は手軽さとそこそこのカタルシスが売りだといっても、小説特有の『面倒くささ・回りくどさ』を楽しめるようになれば、小説においての感性は一般化していくのではと思ったりもする。


『最適化』や『便利』だけが面白かったり楽しかったりするのではなく、『非効率』や『不便』が面白かったり楽しめたりするコンテンツもあるのだ。


 それを、最近『キャンプ大好き芸人』を見て思いました。○メトーークですね。


 そこで、出演者のバカリズムさんが『人間はどこかで必ず文明の利器に頼っているのだから、キャンプの『楽しむ要素』である『不便さ』は程度の問題でしかない(意訳)』と言っていたのが印象的でした。


『なろう』がバカリズムさんと同じ『エンジョイ勢(グランピング)』としたら、ラノベ程度の軽い読み物レベルでも一般には『ガチ勢(マジキャンプ)』になってしまうのでしょうかね?


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