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185回目 2019/9/16

 価値観の違いって、すっごい見解の相違(そうい)を生み出すのだなという話です。


 最近、知り合いと創作について話し合ったとき、私と相手とで致命的な感覚のズレが発覚した。


 それを批判したいわけでも、自分のやり方が正しいと主張する気はない。ただ、創作や創作物に対する見方が異なるだけで、多様な価値観があることは知っているし、むしろ違いは歓迎すべき点だ。


 何がいいたいかというと、『めっちゃ面白いから自分なりにその話をまとめてみよう』、という愉快犯的備忘録を残したいと思ったのだ。だから書く。


 まず、改めて自分の創作に関するスタンスについて、改めて深く考える機会はなかった。明確な理解もなかったように思う。その点でも、知り合いとの話し合いはとても有意義だったと思う。


 その話し合い、討論? の中で、私の考え方として固まったのは『自分と他人はまるっきり別の生き物』だということ。


 普通に考えたら当たり前のことだが、私はそれに『自分が作った創作物』も適応されている可能性がある。私の思想や価値観で作られた作品であっても、私の外に出力されたらそれは『他人』になるのだ。


 一方、知り合いの考え方を私なりの解釈で捉えると、『創作物は共感、ひいてはその先にある感動を覚えなければ、それは失敗であり無価値』という意見だった。


 いわゆる『キャラクターに共感・没入するタイプ』で、自分の価値観に近いか、心情を理解できるキャラクターに自分を重ねないと作品を楽しめないらしい。


 その違いがどうした? というと、この考え方によって小説などあらゆる創作物に対する接し方に影響されるようだ。今回の話題で確認したのは、『読みとり方』と『作り方』の二点にある。


 私の場合、『読みとり方』も『作り方』も作品の全体像を俯瞰(ふかん)してみる『監督目線』が強いようだ。


 対して、知り合いの場合は作品の『特筆した一人』を追っていく性質から、『俳優目線』が強いように思う。ドラマや映画みたいなたとえを採用したが、そのまま続けよう。


 両者で一番感覚の違いは、『自己投影』の感覚だ。正直、私は『作品に没頭する』ことはできても、『作中キャラに没入する』ことはできない。


 前述した『自分は自分、他人は他人』という考え方からして、私はどんなキャラであっても『自分以外の何か』を見つけて『特別で独立した存在』として定義する。


 そして、作品の中で行われる言動を見ていくことで『自分もがんばれ』と鼓舞するような見方をする。感覚として近いのは、プロスポーツの観戦とか演劇鑑賞とかにあたりそうだ。


 私はあらゆる作品において『参加者(プレーヤー)』にはなれず、『観察者(オブザーバー)』にしかなれない。一歩引いた視点でしか、作品に関われないのだ。


 その点、知り合いは『参加者(プレーヤー)』として作品を楽しめる能力があった。だから、おそらく私より一つの作品で受ける共感も感動も、とても大きいのだろう。


『自己投影』できる存在がいることで物語に強く深く入り込めるため、共感したキャラのカタルシス的展開が起これば、ほぼ自分のことのように思えるらしい。


 あけすけに言えば、意味が分からない。私の中では一種の『特殊能力』として認識しており、実際にそんなやり方ができる人に会えて感動すら覚えたほどだ。


 で、これほど価値観が違うと創作に対する感覚も違いすぎて、小説の捉え方や作り方でめちゃくちゃ反発した。どちらにもメリット・デメリットは存在するが、それをさしおいても話が進まない。


 私は小説を『構造的』に作ろうとする。これは創作を始めてからずっとそうであり、ラノベでは主流なキャラ小説を苦手にする要因でもある。


 特に新しい発見だと思ったのは、私が他の作品を見たときに重視していたのが『伏線』や『展開の演出』など、『創作における技術分野』に集中していると気づいたことだ。


 知り合いは完全に『キャラクターの成果や変化』を重視しているようで、共感したキャラクターが納得のいく過程や結末を迎えないと、とたんに物語が面白くなくなるらしい。


 なので知り合いが小説を作ろうとした場合、中心となるべき『キャラクターありき』で進めるみたいだ。作り手側だとだいたいその役割は主人公に当てはめるそうだが、読み手側で他の作品を見るときだと主人公やわき役などの区別をつけず、共感できるキャラクターを見つけて没入するらしい。面白い見方だと素直に思う。


 さて、そんな知り合いに言わせれば、私の作品を読んだときに覚えた『取っつきにくさ』はその考え方にあるというのだ。いわく、『私の描く主人公は共感できるキャラクターではない=読む気がなくなる』らしい。


 私が好きな『構造的』な見方で言えば、私の作風は『一人称と相性が最悪』だとのこと。知り合いの読み方では『客観的な書き方=三人称』の方がしっくりくるため、私の作品は共感の前にちぐはぐ感を覚えるそうだ。


 改善策? みたいな形で示されたのは『主人公の個性を薄める=より多くの読者の共感を得るようにする』ことが大事、ということだ。とても『なろう』に適応した意見だが、『なろう』は陳腐(ちんぷ)すぎて読めないらしい。


 その話をされたときは正直、そんなこと言われても……という感想しか浮かばなかった。大衆が共感できる(余地のある)キャラクターって、どうやって作ればいいのかわからないからだ。


 まあ、かくいう知り合いの創作にも問題がないわけではない。『主人公にやらせたいこと』は決まりやすいそうだが、『主人公の結末』を考えるのが苦手というニュアンスのことを言っていたのだ。


 おそらく『活躍シーンのイメージ』は浮かぶのだろうが、『主人公の動機や目標』が曖昧なまま話を進めてしまうのだろう。深く突っ込んで聞いたわけではないので、私の想像にはなるが。


 そして、個人的意見で言えば、私の書き方は『長編』向けなのに対して、知り合いの書き方は『短編・中編』向けの創作スタンスだと思う。


 物語の『構造』を重視するか、物語を生きる『キャラクター』を重視するか――どちらかに(かたよ)っても面白さとしては物足りない仕上がりになるはずなので、どうにか欠点を補いたいところだ。


 ちなみに、私が知り合いの読み方を『理解できない』ように、私の読み方も知り合いに言わせれば『理解できない』みたいです。


 こっそり、二人の感性を足して二で割れたら……と思ったのはここだけの話です。


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