180回目 2019/9/11
小説の上達法としてよく言われることについて、意見していた記事を見ました。
小説がうまくなるにはどうすればいいか? という疑問はよく聞く。特に素人小説投稿サイトだった『なろう』の知名度が上がり、書籍化やメディアミックスで有名になった後はよけいに見かけるようになった。
その答えとしてよく提示される一例が、『何でもいいから書いて完結させること』だと思う。実際に書いている人からしたら、実感もあって無難なアドバイスだと思う。
だが、中には『完結』に関して懐疑的な意見を持つ人もいるようで、『完結厨』と小馬鹿にする(?)論調もあるようだ。
理由としては、少し前に書いた『完結が難しかったら諦めて次を書く方がいい』というやり方と同じ意見らしい。物語に破綻が生まれるなどの作品を無理に完結させるよりも、『完結』まで書けそうな作品を新たに手を出した方がマシ、みたいな論調だった。
実際、どうなのだろう? 作品を『完結』させることによって、作者としてのメリットは確かに存在する。
物語を書ききることで自分の作品を見直す材料にできる(最初から最後まで書かれていないと、構成や伏線回収などの完成度が確認ができない)し、精神論としても『完結まで書けた』という成功体験は自信につながる。
まあ、反対派からするとその成功体験も作者にとって『無駄な自信』にしかならず、『上達した気になるだけ』らしいが。
個人的には、『完結させた後』の取り組み方によって実力の差が生まれるだけだとは思う。『完結させた事実』にだけ満足してしまえば成長は止まるだろうし、『完結した作品の反省』まで行えれば自分の欠点を見つけやすくなり成長の余地を見つけられることだろう。
まあ、理想論ではある。実際はじっくり自分の過去作を読み直して改善点を見つけようとする作家はまれだろうし、私も積極的にやったことはない。
なぜなら、時間がたった未熟な頃の過去作は、高い確率で作家の『黒歴史』になるからだ。少し腕が上がればわかる文章や構成のつたなさを確認する度、思わず身悶えするほどの羞恥に襲われるものだ。
『完結直後』ならまだ冷静に分析できるかもしれないが、実力差がでた時に拙作と向き合うのは精神修行に等しい。中学時代の黒歴史ノート朗読発表会と同じくらいの苦痛を味わうだろう。
それはさておき、私見としては『完結』させられるのならした方がいいとは思う。作品で広げ続けた風呂敷を閉じて『完結』させられる技術は、『完結』させることでしか身につかないと思うからだ。
『なろう』でもそうだろうが、別の作品を書き始めて放置したり、モチベーションが下がってエタったりなどして、『完結』ができない・諦める作家は数多い。『なろう』内だけでも半分以上は『未完結』の作品だ。
それだけでも、『完結』させることが作家として必要な能力であると考えられる。物語の締め方は巧拙あるだろうが、どんな形であれ『終わらせられる』のは大事なことだ。
商業作品でも、事故や病などで執筆中に鬼籍へ入り『未完の作品』となった例は時々ある。作家の訃報はもちろん残念ではあるが、残された『未完の作品』は読者にとってすごく残酷な遺物となる。
たとえ作家側にどんな事情があったとしても、『面白い作品』の『終わりがない』ことは、作品を楽しみにしていた読者にはとんでもないフラストレーションをもたらす。
言い方は悪いが、それが『なろう』のように暇つぶしで読んでいる程度の作品であれば無視できる。しかし、本当に面白いと思っている作品であればあるほど、読者が受けるショックは大きい。
だからこそ、作家は可能な限り『作品を完結させる力』を身につけて、『読者を裏切らない努力』をする方が望ましいと思うのだ。
プロでなくとも、『なろう』で活動していれば『ブクマ』や『逆お気に入りユーザー』などで、読者だと示してくれる方はいつか現れる。
ならば、作家は自分のためであると同時に、期待してくれている人に応えるために作品を『完結』させ、『結果』を残すことにも意識を向けられればいいと思われる。
作家や作品の善し悪しは、やはり『完結』させなければ始まらない。自分や世間からの評価対象となるためにも、作品は『完結』させてからがスタートなのだから。
――と、長編作品を一年以上も放置している作家が申しており。
まあ、『完結させることが悪い』という論調は正直よくわかりませんでした。起承転結の『結』、序破急の『急』が書けないと、『小説』にならないですもんね。
私も【普通】を『小説』にするため、少しずつでもがんばっていこうと思います。




