178回目 2019/9/9
今回は真面目に『生きる』を考えていきます。
普段、私たちは何気なく日常を過ごし、それぞれの環境でできる最大限の努力をしながら生活している。
言うなれば人間活動とも言うべき行動は、当たり前にしているからこそ、改めて立ち止まらなければ意識することもない部分だ。
なので、この場を借りて一度、私たち人間の『イキる』を考えてみようと思う。
そもそも、『イキる』とは何か? 何をすることが『イキる』につながるのか? そこから注目してみる。
前述の通り、私たちは日常の中で『イキる』を感じ取ることは少ない。もしかしたらそれは、日本という世界から見れば恵まれた国に生まれ育った幸運が原因かもしれない。
ともすれば、私たちは自覚のないまま、どこか惰性のように『イキっている』。その様は、見る人が見ればどこか滑稽で愚かしくて、まさに『イキりまくっている』と言ってもいい。
さらに立ち返って、言葉の意味にも目を向けてみよう。『イキる』――それは関西地方でよく耳にする方言であり、要は『調子に乗っている』というあまり印象のよくない言葉だ。
文化の違いもあってか、関西(特に大阪)では『イキる』をよく意識している。彼らの人を観察する力と自らを省みる視点は、人類の『イキる』をより明確に浮かび上がらせる要因となっている。
ただ、一つの問題が存在する。『イキる』は絶対評価というよりも、相対評価で判断されるということだ。この評価基準による差は大きい。
なぜなら、絶対基準が適用されない『イキる』は、自らの客観視――つまり適切な他者との比較ができなければ、知覚も自覚も難しいのだ。
これが、現代人の多くが『イキる』を見落としている、最大の原因であるだろう。私たちは自分に形成された価値基準を掲げて『イキっている』ため、わざわざ他者の価値観と照らし合わせて自分の『イキる』を再評価しないからだ。
『イキる』はともかく、私たちの生活に根ざしながら足を引っ張ろうとする枷になりがちだ。自分がやりたいようにやった、ただそれだけで私たちは自らの『イキる』を否定され、バカにされる。
当然、『イキる』ことは義務ではない。しかし同時に、『イキる』ことは権利でもないのだ。私たちの『イキる』は自由でありながら、そのすべてを自分の責任で行使することになる。
誰も保証してくれない、誰も理解してくれない、各個人だけが信じて貫き通すとても孤独な生き様こそが『イキる』ということの本質なのだ。
この世は所詮、弱肉強食の世界。厳しいコンクリートジャングルに囲まれた現代社会で生存競争を勝ち抜くためには、一人一人の『イキる』が重要な武器になりうる。
腕力・収入・発言力・組織力などなど……私たちが他人に行使している物理的・精神的マウント行為は、集約すれば『自分の身を守る』という、たった一点の切実な理由により『イキる』を帰結させている。
きっと、誰もが不安なのだ。自分という存在の価値を探して、同時に弱くて脆い自分を必死で隠そうとして、心細く曖昧な日々を『イキっている』。
ほめられた行為ではないのはわかっていても、私たちはそれぞれが『イキる』のを止められない。『イキる』を諦めてしまえばそれは、自分の価値を自ら手放す行為に等しいからだ。
一度この世に生を受けてしまえば、後は死ぬまで私たちは『イキっていく』以外の道は用意されていない。
『イキる』ことは、すなわち戦争なのだ。
再度、私は読者の皆様方に提案する。
私たちは今一度、『イキる』を真剣に考えなければいけない。
国からの社会保障が絶望的とささやかれている、次の世代を『イキる』子供たちのためにも。
たまには社会派っぽいことを書いてみたいと思ったので、『イキる』をテーマにしてみました。
本当なら『なろう』社会について語ろうと思っていたのですが、気づけば悪ノリで本文を続けてしまいました。これこそが『イキる』、ということなのかもしれませんね。
みなさん、どうですか? 『なろうテンプレ』の『イキる』を、もう少しだけ考えてみようと思えましたか?
作者としては、ぶっちゃけどっちでもいいです。




