175回目 2019/9/6
異性の主人公かつ一人称って、やってみたいけど絶対に難しいですよね?
何にも話題が思いつかなかったので、そういう記事を読んだので考えていく。
元ネタは『なろう系のストーリーでは、男性主人公より女性主人公の方が不快感は少ない?』みたいな内容だった。私がやるとしたら、『悪役令嬢もの』とかへの挑戦になるだろう。
さて、そもそも根本的な話、作家は異性の心理をどこまで描くことができるだろうか? 実際、どこまで再現できる物なのだろうか?
それっぽいテレビ番組や書籍などでもよく言われているが、男性と女性では脳の使い方や感情の表出過程などに大きな違いがでる。性格などで個人差はあるが、傾向はある程度固まっていると考えていいだろう。
例として有名なのが、男女でかみ合わない会話がある。私が覚えているものでは『女性が車で走行中にパンクをし、男性の友人に電話をかける』というシチュエーションだ。
細かいやりとりまではさすがに覚えていないので書き出すことはできないが、やりとりの食い違いはとてもわかりやすく進む。
車がパンクして困っている女性は、とにかく『自分がどれだけ困っているか』を伝えようとする意図があった。おそらく無意識的に、会話の目的として『困った状況への同情』を求めているからだ。
一方、相談を受けた男性はスペアタイヤはあるか、ジャッキなどの道具は積んでいるかなど、『問題解決のため』に会話を試みていた。なので、女性側の意図や求めていた答えには一向に気づかない。
断言はできないが、その例では結構デフォルメ強めで大げさに男性と女性の考え方の違いを描いたものだとは思うが、おおむね上記の傾向での食い違いはままありそうだ。
もっとも代表的な『男性脳』と『女性脳』の違いによる例だったが、これは『会話の目的』を普段からどこに重点を置いているかを示している。
私が知る理屈としては、人間の社会的活動から見た性差が表れているのだそう。
進化論的な考え方からして、男性は協力して狩りを行い大きな獲物を襲って食糧を確保するのが主な仕事で、女性は拠点に残って子供を産み育てるのが主な役割だった。
その中で、男性は流動的に発生するいろんな問題について話し合うことが多く、どうすれば『食糧確保』を安全かつ効率的に行えるかを議論してきた。
そうしなければ、自分も仲間も死んでしまうからだ。人間が素手で対処できる最大の動物は『大型犬』だという話を聞いたことがあり、それより大きな動物に無策で突っ込んでも危険は大きい。
だから、男性は武器を作ったり罠を張ったり大人数で進行方向を誘導したりと、『問題解決のため』に話し合うことが当たり前になっていったのだという。
一方、女性は生活拠点という閉じたコミュニティーでの活動が中心になる。家事や育児など、仲間と協力して取り組む仕事もあるが、それより重要だったのが『仲間同士の円滑なコミュニケーション』だった。
島国の人間の性質としても有名な『村八分』という言葉があるように、相互協力が必要になる人間社会において仲間はずれにされると不利益がとてつもなく大きい。(余談だが、『村八分』の由来は共同体で行う生活に必要な仕事の内、火事と葬儀以外の参加を認められないことから指すそう。ソースは不明)
よって、女性は自分が仲間外れにされないよう会話を通して『仲間を作る』ことを重視し、『共感と同調』を優先させるようになったのだと聞いた。
このように、細かい部分にも注目すれば男女の違いは数多く、しかも致命的と言っていいほどの差が生じている。
これを知った上で、異性のキャラクターを中心に心理を描くことなどできるのだろうか? 私たちが知れる異性の傾向なんて、それこそ本や実際のコミュニケーションでしか実感できない。
なぜなら、男性と女性はもはや『別の生き物』だからだ。少なくとも、私はまだその考えを捨てきれないし、今後もこの考えのまま生きていくと思う。
本当、女性って謎。
今やってるアニメの『荒ぶる季節の乙女どもよ』とかも、思春期の女性視点から見た男性の生態? に疑問をもって切り込んでいる作品ですね。
作者が女性であるからか、やっぱり女性キャラクターは男性が描くものとは違ってとても生々しく、リアリティがえげつないなと思いながら視聴しております。
一方、同作における男性キャラクターは、やっぱりどこか違和感がありますね。良く描かれているキャラは『綺麗すぎる』し、悪く描かれているキャラも『変態っぽくて毒気が足りない』気はします。あくまで主観ですが。
やっぱり、主に軸足をおいて生きている社会が違うと、人間の見え方ってがらっと変わるもんなんですね。や、創作を見ただけでわかったような気になるのも危険ですけど。




