173回目 2019/9/4
小説という娯楽目的の物を執筆するに当たっての、スタンスの話? かもしれません。
日本と韓国の間にある問題について調べるようになり、数ヶ月が経過した。
最初は向かっ腹が立つような内容ばかりで、調べれば調べるほどいらいらさせられていた。今では少し笑えるだけの余裕が出てきたが、私の人生であまり経験したことがないほど怒りがたまっていた気がする。
なお、『調べない』と言う選択肢はなかった。最初は好奇心から始めたことだが、やはり私が住む日本に関係することなので、無関係ではいられないかな、と意識が変わっていったのが大きい。
そこから少しずつ、外国についての時事ニュースへも関心を向けるようになり、香港の逃亡犯条例抗議デモやウイグル人に対する弾圧行為(つい昨日、百田尚樹氏がTwitterで載せて紹介していた、ウイグル人の実状を描いたマンガは衝撃的だった。リアルに現代のナチスとユダヤ人そのものだと、個人的には思った)など、興味深く知ろうとするようになった。
情報を集め、ある意味で国のあり方についての一部分を知っていく内、浮かび上がってくる感情はだいたい怒りであったが、ここでふと思ったことがある。
仮にも娯楽目的の小説を書こうとしている私が、怒りを伴って知った情報を作品にぶつけるのはどうなのだろう? と。
私が目指すスタンスの中で、寓話というか社会風刺というか、そういう意味での皮肉を作品に入れられたらなぁ、という思いはあった。
が、情報を仕入れたままの感情で作品に向き合うと、ただの感情的なエッセイに近いものになりそうな気がしたのだ。
出すとしたら、国の名前はぼかしながらほぼ集めた情報そのままを描きそうで、名指しを避けた意味がないほどあからさまに説明しそうな懸念がある。
それによって、私のイメージする皮肉っぽさが薄れるという個人的な思いもあるが、それ以上に『娯楽』として描けるかが心配なのだ。
人を楽しませることが『娯楽作品』の目的であるのに、作者の鬱憤晴らしのような形で社会情勢に対する怒りをぶつけても、誰も楽しませることなどできないと思ってしまう。
もちろん、小説世界の描き方次第でちゃんと『娯楽』にはなるのだろうが、今まで【普通】でやってきたようにできるのかわからない。
情報は集まれば集まるだけ執筆には有利になると思っていたが、知ることで弊害もでるのだということを初めて実感した気がする。
感情が動くと言うことは、その人の思想や主義にまで影響しかねない力があることと同義だ。作品に『理不尽』を込めがちな私とて、今後は違った意味での『理不尽』を描くことになりそうだ。
ここで思い出すのが、Twitterで誰かが投稿していたある画像だ。
どこでみたかは覚えていないが、一人の人物が読んだ本を積み上げはしごか土台代わりにしているイラストだった。その人物が見ている先は、高さによって見える景色が違うことを指すようにパネル? が設置されていた。
一番読書量が少ない人が見ている景色は、とてものどかで平和な世界のパネルなのだが、ある一定の高さを超えるとそこは戦争によって崩壊した町が描かれたパネルが広がっており、絶望に近い光景が広がっている。
ただ、戦争のパネルを越えてなお書物を積み重ねていった場合、とても高い位置に到達すると雲の上にある朝日を拝める、というような数枚の画像だったと思う。
知識が少ないと世界を楽観して見ることしかできず、半端に知識を得てしまえば争いと理不尽しか世界に見いだせなくなり、それでも膨大の知識を集めれば何かしらの希望が見えてくる、ということを示唆しているものだったようだ。少なくとも、私はそう解釈した。
その画像に当てはめると、私は今、半端な知識を得た状態に近いのだろう。
そんな状態で、以前のような楽観した世界を描けるだろうか? それが今の不安である。
考えすぎかもしれませんが、作品の細かい部分に影響するだろうなとは思います。
『怒り』って、完全に落ちないシミくらい厄介なものだと思うので、これからどう向き合っていくかが課題になるでしょうか?




