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169回目 2019/8/31

 私がなるべく意識しようとしている『中庸(ちゅうよう)』的な立ち位置ですが、実際どうすることが『中道』なのでしょうか?


 日本と韓国の関係から浮かび上がってくる、右翼だとか左翼だとかいう主義主張もそうだが、はたして『公平性』ってどういうことなのだろう?


 日本のメディアはだいたいが『中立』を(うた)いながら、実際は『左翼』的な主義主張に偏っていると思う。日本が悪い、韓国と和解を、どっちもどっち……聞き飽きた論調だ。


 一方、『ネトウヨ』というネットスラングがあるように、日本において『右翼』的なイメージは侮蔑的というか、レッテルのような印象が強い。おそらく、第二次世界大戦時の『軍国主義』の影響だろうか?


 まあ、最近の『ネトウヨ』は『左翼』側の人が、『ネット上で自分の意見に反発した人』というだけで、相手にレッテル張りをしたがった結果な気がする。自分の側だけが正しく、それ以外は全部敵=『右翼』だ、と。


 すべての人が『左翼的(利己排他的)』な考えの持ち主ではない。それはわかっているが、どうも表に出やすいのは『左翼的』な意見ばかりで、『右翼的』な意見はカウンターでしか聞くことがない気はする。


 一番の原因が、前述したメディアのせいだろう。大衆に情報を伝達する手段を持つ組織が、どちらか一方の主義・思想に染まってしまえば、喧伝(けんでん)されるのは偏った意見ばかりになってしまう。


 人は、というよりも『大衆』は、力強い意見には流されやすい。ときおりネットでは現在の韓国を指して『(国民感情で国際情勢を無視し、政治が二転三転する様から)衆愚(しゅうぐ)政治』と呼ぶ人もいるが、それは本当に事実だろうか?


 先に断っておくが、日本を差別しおとしめ続ける『韓国という国』を擁護する気は毛頭ない。私も最近の反日報道が盛んになる少し前から、嫌韓感情は高まっているのだから。相手が嫌うのに、こっちが好きでいてやる必要などない。


 ただ、甘いと言われることを承知で、信じたいのだ。『集団と個人は別だ』と。


 ネットやニュースでも見たが、韓国では『反日種族主義』という本が売れているそうだ。これは韓国の人が調べて書いた、韓国政府の歴史修正に対する警告を発する本である。


 現在ホットな話題である『慰安婦』や『徴用工(応募工)』などについての間違いを指摘し、正しい歴史認識を持つ必要があると韓国社会に訴えており、購読者の中には『学校(反日)教育との違いに驚いた』という意見もあるそうだ。


 とはいえ彼らもまた、決して『日本に好意的である』とはいえないだろう。おそらく根幹にあるのは『正しい韓国』であり、あくまで愛国者であることには変わりない。そういう意味では、反日を叫ぶ人たちとも変わりはないと思われる。


 しかし、自由主義や民主主義はそれでいいはずだ。いろんな人が、いろんな意見を主張できる状況こそが、健全な人間活動なのだから。


 少なくとも、言論統制の果てに政府批判をした議員が不審な自殺を遂げるよりはずっとマシだろう。どこの国とは言わないが。


 それに、日本もまた自由民主主義を掲げた国であるため、一つの話題に反対意見が一つも出ないことはありえない。『ホワイト国(現・グループA)から韓国除外』のパブリックコメントでも、賛成は九割以上だったが反対もまた一割未満ながらいたのだ。


 まあ、日本で現在声高に『韓国必要論』を叫ぶ人たちは、たいてい賄賂(カネ)売春(オンナ)でもつかまされているとか、主体(チュチェ)思想にでも染められたんだろうとか言われている。


 個人的な弱みはともかく、教育的な思想洗脳はあまり軽く見てはいけないとは思う。一つの思想を肯定することだけにしか思考が動かないのは、とても楽ではあるのだろうが思考停止とそう変わらない。


『左翼』的な人は『人権』とか『差別』とかを矢面に立たせ、大義名分として掲げるのが大好きだが、それを道具にして他者を批判したり自分の考えを礼賛(らいさん)するのは、それこそ『人権侵害』で『差別主義』だろう。


 そもそも、個人の考えを『自分と同じに染めよう』という考え方に『他者への尊重や敬意』が感じられない。反対意見を持つことは時に不満や怒りも覚えるだろうが、『違う』からこそ面白いのではないか。


 自分の主張と相手の主張が違うから、お互いの立場を聞いて理解し譲り合って『妥協(だきょう)』が生まれるのだ。それはお互いが納得できる最低ラインを維持しつつ、利益も不利益もこうむるからこそ『相互理解』への一歩に繋がる。


 そうでなくとも、ある一方の主張しかない状態では、決してたどり着けなかった結論が『妥協(だきょう)』には存在する。見方を変えれば、『反対意見』があったからこそ『新しい価値観』を生み出すことができたといっても過言ではない。


 人はそうやって歴史を積み重ね、間違いを繰り返しながらよりよい世界を目指してきたはずだ。『自分の意見』の『反対意見』は『敵』ではなく、『新しい価値観(だきょう)』を生み出すために必要な材料・要因にすぎない。


 しかし現代の社会を見てみれば、一かゼロか、白か黒か……そうした『二元論』的考え方が主流にあるような気がしてならない。私の悪い部分として認識しているためあまり好ましくないが、人はどうしても物事をはっきり決めたがる傾向にあるのだろうか?


 世の中には『勝ち負け』しかないわけではない。どんなに完璧に見える意見でも、不完全な人間が打ち出すものである限り必ず『欠点(ほころび)』は存在するのだ。


 だから、より多くの人たちにとっての『最善(ベター)』を目指すために、私たちは主義・主張をぶつけ合って『妥協(だきょう)』を作り出そうとするのだ。


 決して、相手を打ち負かすための『武器』として『思想』を扱ってはならない。


妥協(だきょう)』を生むための『言論闘争』において、『思想』は『達成すべき目的』ではなく『目的達成のための手段』だ。もちろん、『達成目的』は『妥協(だきょう)の創出』である。


 疑似的な戦争に近い『討論裁判(ディベート)』でもない限り、私たちの『思想対立』はすべからく『生産的活動』であるべきだと、私は思っている。


討論裁判(ディベート)』は競争であると同時に『娯楽』であり、勝利して得られるものは『自己肯定感』くらいで『社会的利益』にはあまり繋がらない印象がある。


 一方、『思想対立』によって生み出された『妥協(だきょう)』は、相反する思想を持つ人々双方に『権利と責任』を負わせることで『秩序』を守る流れを作り、直接的な『社会的利益』に繋がると思っている。


妥協(だきょう)』によって結ばれるのが、双方で守るべきと定められた『約束』である。


 たとえば『どっちもどっち論』を用いるのならば、相手だけでなく自分も『責任の重みと痛み』を背負う態度を示すべきである。ただ口でギャーギャーわめくだけなら、子供の駄々(だだ)と何が違うというのか?


 理性的・理知的な判断とは、まず『対立相手の尊重』なくして成立しない――私の考える『公平性』の一側面だ。


 どちらか一方に偏ることも排除することもしない……それが『中道』としての立ち位置なのでしょう。


 しかし、私たちは国・人種・文化・宗教など、あらゆる場所に自分の立ち位置を定め、必然的に『何かの陣営』に偏った考えを抱かざるを得ません。


 絶対的な『中立』を掲げるのであれば、それこそ『賢者』や『仙人』のような『世捨て人』にしか無理なことかもしれません。


 すべてにおいて『公平』でいる代わりに、すべてのものを『捨てる』覚悟を持って行動に移せる人……それが『中道』という困難な立場なのかもしれませんね。


 ……考えれば考えるほど、『中道』って『人間性の欠如』とイコールで結べる気がしてなりませんけど、私って『人間を辞めたい』のでしょうか?


 …………よし、考えるの辞めます!!


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