152回目 2019/8/14
小説の売り方か、作り方における考え方です。
よく言われることだが、小説において『全く新しくて面白い作品』を作ることは絶望的なまでに難しい。
聖書や神話などよりも前、壁画や口伝などの正確に後世へ伝わらなかったものも含めれば、『物語』という創作物における歴史は人類の文化においてもっとも古いものの一つ、と考えていいだろう。(個人の意見)
当然、年月を経る度に技術は洗練されていき、また需要にあった形へと最適化されていくものだ。時代や地域などの違いこそあれ、人類が普遍的に求める快感はそう大きく外れるものではない。
要するに、『物語』の市場はすでに大勢が踏み荒らした後でありながら、それでも苛烈に自分の席を求め続けるいわゆる『レッドオーシャン(競争の激しい市場)』なのだ。
より多くの顧客から支持を集める手法として『王道』はいくつも開発され、新規参入する後発の人々もまた『勝ち筋』に乗って二匹目のドジョウをさらおうとする。
『物語』――小説においては文芸という『芸術』の特徴も含まれるため、しばしば批判や敬遠の対象とされるが、流行ものを売るためには必要な戦術であり商売の基本だろう。
なので、純粋な作品評価という面で酷評を出す人がいたとしても、商品としての生存戦略として掲げるならば決して間違いではない。
逆を言えば、砂漠から一粒の砂金を見つけるくらい『新しいジャンル・構成・演出』を確立するのは困難だ。天動説が一般的な時代で地動説を唱えたガリレオくらいの才能と覚悟が必要になる。
もはや創作において『0から1』を生み出すのは不可能に近い。だからみんな、『1から』どれだけ膨らませられるかを考えて創作の荒野を進んでいる。
ただし、その『1』を人より先んじてくれるのが『王道』という道具であり、武器なのだ。最初は『1』でしかなかった始まりが、『4』にも『5』にもなるためとても有利に始めることができる。
アマチュアが『王道』を利用したくなるのは必然だ。創作という一見おおくの自由が与えられたような場であっても、教科書としての『王道』から目を背けることはできない。
ただし、『王道』の基本を押さえた後は『自由』という権利と責任を背負わされる。安全な道を進むのも、危険な未知へ挑むのも、作家本人の『自由』にかかっているのだ。
『王道』だけを作って極めるのも、『王道』から外れて違う道を造っていくのも、それは本人の選択次第で誰にも責められるいわれはない。
が、顧客である読者はいつも新しい刺激を求めている。一定の需要が確保されているが故に乱造されやすい『王道』は、あまりに近いものばかりだと飽きられてしまう。
作家側は常に『挑戦』を求められながら、最低限の『王道』と同じくらいの面白さをも求められる。これが非常に難しい注文であることは、執筆をしたことがある人ならば共感してもらえるだろうか。
結局は、『1』からどれだけ大きくさせられるかが作家の能力であり才能だろう。本当の天才は『1から10』のものを作り上げ、凡才が『5から8』しか作れなくても関係なく追い抜いていく。
私を含む大多数の凡人は『開発者』にはなれず、実際は場末の『生産者』でしかない。できることといえば、せいぜい業界の存在を忘れられないように存在感を声高に主張する程度だろう。
たとえ価値が低くても、無価値ではない。それが凡才の誇るべき意地だと思う。研ぎ澄ますべき感覚だと思う。足下を固められる能力につながると思う。
私たちの価値は決して高くはない。
だから多くの価値を積み上げて、トータルで勝てるようにすればいい。
唯一の才能は、大量の生産量を重ねれば追いつける。
天才には天才の、凡才には凡才の努力の仕方がある。
私たちは『王道』の下駄を履き、『5』からどれだけ膨らませられるかを考えなければいけない。
今日も今日とて砂漠の砂を拾っていこう。
いつか砂金を見つけられると信じて。
まあ、見直してみればただの綺麗事かもしれませんけどね。
それでも、途中で折れて諦めるよりも潔い散り方ができると思います。
砂漠も荒野も、玉砕覚悟で進まないとやってられませんよ。




