表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
144/1238

144回目 2019/8/6

 とあるエッセイを読んでの、反省? かもしれません。


 この日、エッセイではおなじみになっている『テンプレ批判』に関するものが日刊ランキングに()っていたので、いつものように目を通した。


 例によってタイトルなどは記載しないが、そこには『テンプレ批判』をする人の特徴というか傾向というか、そういうものを指摘していかがなものか、と疑問を呈していた。


 それに目を通していると、どうも私もその特徴に当てはまっていたのではないか? と思って少し己を(かえり)みようと思ったのだ。


 特に『なろうテンプレはダメ』という結論ありきの論調で、比較例として持ち出した作品などの長所だけを取り上げ、逆に『なろうテンプレ』は短所だけを取り上げる、という不平等な説明をするやり方が気になった。


 私もこの作品中や、独立したエッセイで『なろうテンプレ』を取り上げたこともあり、もしかしたらそのような偏向(バイアス)がかかっていたかもしれない、と考える。


 一応の弁明として、私は意識的に書いている時に『叩いてやろう』とする悪意はあまり抱いていない。


 スタンスとしては『なろうテンプレとどう向き合うか?』を重視している……と思っている。それもまた、読み手の捉え方次第で変化するものなのだろうが。


 そも、『なろうテンプレ』と揶揄(やゆ)される作品は、常にランキング上位に掲載される一部の作品に限定される。そんなごく一部の属性をあげつらう行為そのものが『小説家になろう』への偏見とも言えよう。


 該当エッセイでは他にも、『なろうテンプレを下に置くことで、自分が属する地位あるいは読書範囲こそが高尚(こうしょう)だ』、と暗に示したいいわゆる『マウント勢』にも触れていた。


 これはまあ、エンターテイメント作品が『低俗』だとおとしめられるのは世の常で、宿命と言えるだろう。


 該当エッセイでは『リビドーを満たす』などという表現が見られたが、エンタメ作品が満足させる部分は人間の即物的な領域にすぎない、ということなのだろう。


 身も(ふた)もなく言えば、『金・暴力・性(あるいは性的嗜好(しこう))』を体現する要素である。しばしば、『なろうテンプレ』に欠かせない要素としても見かけるだろうか。


 それらが高尚(こうしょう)でないことなど、誰もがわかっていることだろう。が、逆に高尚(こうしょう)な文学こそが至高かというとそうでもない。


 高尚(こうしょう)な作品は総じて、受け取り手に一定以上の教養を求めるものだ。はっきり言うと、『バカにはわからない』からこそ高尚(こうしょう)なのだ。


 言い方を変えれば、『高尚(こうしょう)な作品』とは『客をえり好みしている商品』である。知識階級=上流階級ととれば、『富裕層向け』にターゲットを限定した作品である。


 もっと突っ込んで考えると、『こんな複雑な単語で流麗な表現を(たしな)む自分は格好いい』という、『ナルシシズム的オタク』の需要に合致したのが『高尚(マウント)文学』なのだろう。


 乱暴な表現にはなってしまうが、その道の深い部分を好むのは総じて『オタク』だ。どれだけ世間から認知され、存在を承認されていようと厳密には『オタク』でしかない。


 たとえるなら、野球の広島ファンがファッション感覚で自称する『カープ女子』にキレるようなもの? あるいは、ゲームセンターの格闘ゲームで遊ぶ一般客を常連が『下手な奴は帰れ!』と怒鳴るようなものか?


 私の例示が適切かはわからないが、ともかく初心者やミーハーな新規参入者に対して、『これだから素人は』みたいに攻撃したい衝動に駆られるのかもしれない。


 あるいは、同じ道をたどった過去の自分を見るような同族嫌悪か? ……いや、そこまでいけばただの言いがかりか。


 そうしたつながりから、『なろうテンプレ批判』にはよく『読者・作者への人格否定』を行うものも存在する。


 これはたぶん、上記の『ただ叩きたい層』と『ナルシーオタク層』の過激派とも言うべき人たちが暴走した結果だろう。


 それが一時的なことであればいいが、たちが悪いと『自分の考えが正しくて絶対!』などの視野狭窄(きょうさく)(おちい)り、それに反する物事すべてを攻撃しなければ気が済まなくなるかもしれない。


 たとえ知識が深くとも、見識まで(せば)めてしまえばただの独善・エゴにすぎないと私は思う。新しい価値観を受け入れる柔軟さがなければ、人は成長しないし革新も起こさない。


 必要なのは、いい部分も悪い部分も認めて受け入れて、そこから新しい価値観を作り出すことではないだろうか? 哲学的な用語では、『昇華(アウフヘーベン)』だったか?


 何にせよ、叩いてかぶってジャンケンポン! ……間違えた、叩いてつぶして拒絶するのは簡単で気持ちいいかもしれないが、本当は『好きな分野・領域』に関する『進化』を(さまた)げている側面があると自覚した方がよさそうだ。


 以前、NHKの某番組で天文学の権威ある学者を紹介されていて、自説の仮説を否定されないために若手の天才数学者? が提唱した『ブラックホール』の基礎概念を否定した、という話を見たことがある。それにより、人類の『ブラックホール』研究は五十年も遅れたとされているそうだ。


 間違いを指摘するだけでなく、間違いを認めることもまた重要と言うことだろう。


 否定と排斥(はいせき)だけでは何も生まないし、むしろ自分たちの成長を止めてしまう足かせになりかねないのだから。


 相変わらず、話があっちこっちへ飛ぶものですね。衝動的に書いたものなんてこんなものでしょう。


 ともかく、今まで以上に客観的な視点で物事を語るよう意識していこう、という話でした。(少なくとも、私にとってはですが)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ