110回目 2019/7/3
今までと比べ、かなり考えが飛び火しているような内容です。
今回は『なろう系』など、評価基準における低俗の権威付けについて思うことを書いてみる。
ネットの意見を見てもわかるが、新しく一定の層に支持されるようになったコンテンツに関して、たいてい人は低俗をつけたがる。
私のイメージだが、『歴史が浅い=低俗』とか、『若者文化=低俗』とか、多くは新興のものに集中する意見のように思える。
その点、小説(文学)はとてもわかりやすい。元々は文字を読み書きできる知識階級の少数派向け文化であるため、『大衆化』の流れには敏感に反応する。
あまり歴史には詳しくないものの、『なろう系』の前は『ケータイ小説』の流行で賛否があり、その前なら『ラノベ』そのものが低俗だとバカにされてきたのは知っている。
しかし、それよりもずっと以前から、同じような低俗張りがあったとは聞いている。
大正時代の小説は明治の文豪にとっては低俗だったかもしれないし、もっとさかのぼれば俳句は和歌から派生した(?)短い歌で、かつては低俗なものだと言われていたらしい。その流れで言えば、川柳も江戸の町人文化であるため高尚とは思われなかっただろう。
まとめ記事の意見なので人間の総意ではないだろうが、『ある分野における、特定の勢力を下に置いて安心感を得たい心理』は現代でより強い傾向だと思う。
人は物事に優劣を付け、自分の立ち位置を探ろうとする。少なくとも自分が『底辺ではない』と確認し、『普通』であることで心の平穏を得られやすいからだ。
これは『村社会』の意識が強い日本だと、さらに傾向は強まる。『底辺=村八分』のイメージが強いからかもしれない。かつて存在した部落差別などは、『虐げてもいい犠牲者』として農民の不満を抑えるための必要悪だったと思われる。
どんな身分であっても既存の権威を守るため、自らの脅威となりうる勢力を若い芽のうちにつみ取ろうとする働き――まさに『出る杭は打たれる』ということと、本質は同じなのだろう。
まあ、『なろう』においてはコンテンツ自体の飽きもあって、内部からの反発もよく見られるようになったので、権威としては崩壊しつつあるのかな? と思ったりする。
これからの『なろう』を考えたところ、変化のないまま持続すると衰退の道が色濃くなるだろうとは思っている。
『なろう』の属性がある種『一点突破』のお家芸であり、いろんな人が受け入れられる『多様性』が見えてこないのが原因かもしれない。
ある意味(悪名?)で『なろう』がラノベの歴史から消えるコンテンツにはならないと思うが、すでに長続きするコンテンツとは考えられていない空気はひしひしと感じている。
『なろう』が今後どのような道をたどるかはわからないけれど、私はきっと、ここがなくなるまでここの住人ではいるだろう。
別の場所へ移動するのが面倒くs……もとい、この場所に愛着があるからだ。
私の作品で『なろう』のイメージを一新する、などと傲慢なことは言えないが、少しでも新規ユーザーに『多様性』を感じられるような努力はしていきたいと思う。
あとはアカウントを削除されないよう、細々と活動していくことにする。
イエローカードは一枚もらっているので、R18のボーダーには注意しないと。
個人的には文章を書くのがとても遅く、調子が悪いとはっきりわかった回でしたね。
あまりいい傾向ではないので、早めにどうにかしたいところです。




