108回目 2019/7/1
ちょっといやなことを書きます。
バトル物だと定番と言っていい『主人公だけの特別な才能・能力』だが、現実で当てはめると『社会不適合者』になりやすい。
物語(特にラノベ)のキャラクターは個性を際だたせるため、ある程度の誇張は必要とされていることに近い。現実ではウザいくらいのキャラが、物語ではようやくスポットライトが当たる最低条件になる。
それを能力方面で考えた場合、『特別な能力』を与えられた主人公は『平凡』にはなれないし、かつて層だったとしても二度と戻ることはできない。
持っている(または与えられた)能力が『特別』だから、主人公の本質が『平凡』と変わらなくとも主人公以外が『特別』に見てしまうためだ。
それは『自分から特別になる』のとは違い、『世界が特別に仕立て上げる』という本人の意思を無視した世界の流れに巻き込まれた形になる。
これがある意味で、『主人公』と『ボスキャラ』の境界線になるのではないか? とも思う。
傾向的に、『自分から特別になる(=既存の世界・価値観を壊す革命者)』のは『ボスキャラ』に多く、『世界が特別に仕立て上げる(=既存の脅威を打ち壊す犠牲者)』のは『主人公』に多い気がする。
とはいえ、『なろう』ではその傾向が逆転している気がしないでもない。同人的な立ち位置の作品が多い『なろう』が主に描きたいのは、苦難を乗り越える『主人公』よりも圧倒的な力で世界を支配しうる『ボスキャラ』なのは明らかだ。
バトルありの『なろう』作品だと、結構な確率で『野生のラスボス漫遊記』という言葉で片づけられそう――というのはさすがに暴論だろうか。
とはいえ、『人間』という社会性動物の中に所属する個体において、『特別』は決して優勢な特徴ではない。
むしろ『突出した能力』とは、社会を維持しようとする働き(平穏・協調・安全など)を妨げる『異物』となりやすいため、取り扱いがとても難しい。
現実で考えると、サヴァン症候群は有名だろうか。ある一点のみ突出した能力を持つ代わり、発達障碍(特に他者とのコミュニケーションにおける問題)を抱えているのだ。
見方を変えれば、『仲間を得る能力・才能』と引き替えに『特別』を与えられた人々、とも言えるかもしれない。
それは『ラスボス』と近しい素養であり、しかし彼らの力はファンタジーな魔法のように直接的な暴力を発生させられるものではないため、活用の場はとても限られている。
とかく、『特別』を得た人々は人間社会で生きることがとても難しい。『特別』は『応用性が低い』からこそ『特別』でもあり、自らの力を十全に活かせる環境に出会える確率も低いのだ。
前述の通り、『特別』な人は『仲間を得る能力・才能』に乏しいため、どうしても『自分の知覚できる世界』が広がりづらい。
また『特別』が余計に他者からの理解を遠ざけ、狭く小さな『自分の世界』に閉じこもってしまいやすくなる。単純にコミュニケーションがとれないだけでなく、『あの人は普通と違う』という尊敬の念であっても、その本質はどちらも『仲間からの排除』であるからだ。
『なろう』では『特別』をもっとも価値のある属性だと捉えられがちな気がしているが、『特別』とは切っても切れない『排他性』を無視してはいけないと、私は思っている。
たとえるなら、地球に宇宙船に乗って現れた超技術を持っている宇宙人が『なろう主人公』なのだ。
そんな得体の知れない『特別(=特異・特殊・異端)』を前にして、みなさんは果たして『こいつスゲー!』と純粋に賞賛できるだろうか?
少なくとも私にはできない。
人間は『嘘』を知っている。
友好的な態度の裏に『宇宙人』が何をたくらんでいるのかわからないのに、すべてを肯定的に受け入れるなんて出来はしない。
むしろ、肯定的に受け取れないような洗脳技術を有しているとも考えられる。
ますます、『宇宙人』が恐ろしいモノに見えてしまう。
『大衆』が『宇宙人』を本当の意味で受け入れられるには、『普通の人』との理解に要する時間の何十倍もの期間を用意せねばならない。
いや、それでもなお足りないと思えるだろう。
……私はそう考えるからこそ、『テンプレ異世界』は書けないのかもしれない。
『特別』に憧れるのは平凡な人々にとって当たり前かもしれませんが、盲目的な信奉に至るのは危険だと思います。
いいことだけにしか見えない裏で、『特別』にしか共有できないデメリットが必ずあります。
とある錬金術師の世界では、世の中のすべては『等価交換』で成り立っているそうなので、設定を作って人間を描くときに忘れてはいけない意識ではないか、と頭の片隅に刻んでおります。
あくまで個人的な意見ですけどね。




