102回目 2019/6/25
久しぶりに電車やバスを利用したのですが、乗客の半分以上が携帯に夢中でした。
今回もラノベの話をしていこう……そう、ネタがないのだ(断言)。
さて、『なろう』では好みの小説を見つけるため、『ジャンル』や『タグ』で検索する方々は多くいるだろう。
『なろう』自体が長いコンテンツであるため、『ハイファンタジー』といえば『異世界シチュエーションの鉄板』で、『ローファンタジー』といえば『現代異能やダンジョン系』と、ある程度の固定イメージが浸透していることは否定すべくもない。
他のジャンルもまた、より多くの読者を集めようといろんな作者が売れ筋を書き、テンプレが乱立することで『ジャンルイメージの固定化現象』が大なり小なり発生しているものと推測できる。
で。
結局、私が何をいいたいのか? といえば、そう複雑なことではない。
『ジャンル』って、意外と曖昧な先入観のまま語られるのかも――ということだ。
先入観が気に入らなければ、偏見でもかまわない。
何にせよ、『大枠としての要素』に該当していれば『ジャンル』は定まるが、『なろう』などの特殊な場においては『小分類の要素』がほぼセットでついてくる、ぼんやりとした区分といえる。
その『大枠』を作るのは運営・出版社などだろうが、売れ筋となる『小分類』を確定させるのは読者・購買者側の声だ。
なので、時に『あるジャンル』における読者側のイメージにズレがあった場合、小さくも無視できない違和感が発生し、読了後に不思議な感覚を覚えることがある。
何を隠そう、最近私がラノベを読んで体感したことである。
その本のあらすじには『笑って泣けるハイテンションコメディ』という記述があった。
まずこの文面を見て、私は『なるほど、笑い:シリアス=8:2か、ギリ7:3くらいの話かな?』と思った。
もちろんあらすじには他にもいろいろ書いていたが、端的にその作品を説明したのが上記の一文だったので、これこそがその作品の雰囲気なのだろう、と。
個人的には、誤解の余地などない文面である。『笑って』『ハイテンション』『コメディ』という『笑い』寄りのワードが多く、『泣ける』という『シリアス』ワードが動詞一つなのだから、私でなくとも『コメディ色が強い作品』と思うだろう。
しかし、ふたを開けてみればその印象は覆された。割とショックを受ける差で。
正直な感想を述べると、その作品は私にとって『笑い:シリアス=3:7、または2:8』と評価せざるを得ない内容だった。
ぶっちゃけ、その作品は『ただのハートフル家族ドラマ』にしか思えなかった。
ここで断っておくが、その作品が『つまらなかった』わけではない。むしろ『面白かった』し、何回か読み返して勉強しようかな、と思ったくらいだ……ギャグではなく、感動系の話運びや展開の一例として、だが。
ではなぜ私がそのように思ったのかというと、あくまで私の見立てではあるが、その作品における『コメディ』部分が『外見一点集中』で勝負していたからだ。
簡単にそのラノベを説明すると、ある日主人公たる『中年男性(職業:成人漫画家)』が死んだ『飼い猫』の夢を見て、次の朝に起きたら『猫耳&しっぽ』が生えていた、という場面から始まる。
確かに設定としては突飛で、想像すればクスリとはくるだろうが、ぶっちゃけ出オチでしかない。その後は家族や編集と相談して反応をうかがうシーンはあれど、読者からしたらもう主人公の寝起きが終われば特に心が揺れることはない。
というか、もっと気になる部分があったから、気にする余裕がなかった。
猫オプション装備の原因である『飼い猫』は、主人公(とその家族)と実に『十四年』の月日をともにしていた、というのだ。
加えて主人公が涙もろい性格であり、ことあるごとに『飼い猫』の生前を思い出して涙ぐむ、というシーンが挟まれる。
さらに、主人公の家族である『娘(中学生・反抗期)』も『家族』として『飼い猫』の死を悼み、飼い始めたきっかけも『娘』の小学校入学式の日に事故にあった『主人公の妻(故人)』だったというのだ。
唐突に『家族』を失った経験と『飼い猫の死』という現実が重なり、主人公も娘も悲しさはより強まる……という描写が序盤に入ってきていた。
もうね、『家族の死』関係の泣き要素に弱い私としたら、もう『コメディ』なんかどうでもよくなってしまった。
そもそもが『おっさんの猫耳・しっぽ装備』や『それを受けた家族の反応』という、『薄味のコメディ要素』しかなかったので、よけいに『コメディ』とは思えなくなったのだ。
その後のオチに当たる部分など、『コメディどこ行った?』なシリアス展開が放り込まれ、もう『笑って楽しむ』どころではない。
中盤あたりからだろうか、その時点ですでに作品へ臨む私のスタンスは『ハートフル家族ドラマ』へシフトしていた。
とんだ『ジャンル崩壊』である。
これで『つまらなかった』のならもっと文句も言えようが、『面白かった』のだからそこはかとない悔しさを覚える始末。(自分のさじ加減)
そうして、読み終わった私は『混乱した満足感』に浸るという謎のカタルシスを得たのだった。
とはいえ、それは私の年齢が問題だったことも否めない。
ラノベ(しかもその作品の初版は約十年前)の主要ターゲット層は『中高生』であるからして、『中高生』相手だったら『猫耳・しっぽのおっさん』というだけで爆笑物の内容だったのかもしれない。
同級生が何もない場所でころぶ(くらいの些細な内容)だけで笑い話にできうるほど多感な時期だし、中年になった私の見方が間違えている可能性は大いにある。
ともあれ、編集者か作者か、どちらがその作品のあらすじ=あおりを書いたにせよ、人の捉え方によってはジャンルの境界線は不確かなんだなと実感した。
この体験を活かして、新しく小説を書くときは『あらすじ』や『タグ』での『ジャンル』表明には少し気をつけて書こう、と思ったのだった。まる。
この中の何人がなろうの潜在的な読者なんだろう? と考えるのが健全なのでしょうね。
おいおい、携帯を使ってるのか、携帯に使われてるのか、まるでわかんねぇな気持ち悪い……なんて考えてはいけないのです。




