63 エピローグ
僕、ラビック・キュービスが魔の森、爺ちゃんと過ごした館を出てから、五年の月日が経過した。
その間に四つの大陸を移動して、まぁ本当に色んな事があったけれども、それをのんびりと語る暇は今はない。
何故なら今、僕の眼前には、口を大きく開けて牙を剥き出しにし、翼を大きく広げて怒気を露わにする巨大な竜が居るからだ。
老竜ヴァシュラーダ。
超越者たる古竜、エンシェントドラゴン程の格はないが、それに次ぐエルダードラゴンに分類される強力な竜である。
「では交渉は決裂と言う事で宜しいですか?」
僕はこの五年で更に大きく成長し、フォレストキングジャイアントとなったケトーの肩の上から、ヴァシュラーダにそう問いかけた。
この大陸では、近年ヴァシュラーダの暴虐による被害が酷く、彼の縄張りを侵した訳でもない国が幾つも竜の炎に焼かれて消えたそうだ。
僕はこの大陸にあるダークエルフの国の女王に乞われ、ヴァシュラーダに縄張りの中で大人しく暮らして貰える様に交渉に来たのだが、どうやら彼に話を聞いてくれる気はあまり無いらしい。
『人が! 人如きが! 我と交渉など思い上がるな!!! 己が竜と対等だとでも思うたか! 畏れ、平伏し、ただ震えながらに焼かれよ!!!』
なんて調子なのだ。
実に面倒臭い。
そもそも老竜ヴァシュラーダに関しては、その存在を聞いた時から気に食わなかった。
何せこの竜が暴れ始めたのは、自分より格上の竜である古竜、エンシェントドラゴンのカリシュラが休眠期に入ったからである。
自分より上位者が居る間は縄張りの中で目立たぬ様に過ごしていたなら、そのまま大人しくしていてくれれば良いのにだ。
因みにカリシュラが休眠期に入ったのは、魔族の活動が下火になった事で安心したからだとか。
「はぁ……」
僕の口から思わず溜息が零れる。
まだまだなんだなと、そう思った。
もしこの交渉に出向いたのが爺ちゃんなら、相手に低く見られてそもそも交渉にもならないなんて事はなかった筈だ。
相手がエンシェントドラゴンなら兎も角、エルダードラゴンに低く見られるなんて、己の足りなさには情けなくなってしまう。
まあそれでも、ケトーの肩に乗ってるせいもあって、ヴァシュラーダは見下しながらも一応は僕を敵として認識しているらしい。
空に舞い上がり、大きく息を吸い込む、ブレス、竜の吐息の予備動作を取る。
「仕方ないか」
そう呟けば、僕の心も決まった。
うん、仕方がない。
もうこうなっては交戦は避けられないだろうし、あちらから攻撃して来た以上、ヴァシュラーダだってどうされようが文句は無いだろう。
それに良く考えれば、竜の心臓は魔術儀式の触媒として極上の品だ。
ましてやエルダードラゴンの物ともなれば尚更だった。
適切な処理を施して保存すれば、僕がノーライフキングと化す魔術儀式に挑む時に大いに役立つ。
素早く詠唱を終え、トントンとケトーの肩を二度杖の先で突く。
それと同時に吐き出されたヴァシュラーダの炎のブレスから、耐火の魔術と盾の魔術を二重付与したケトーが僕を庇う。
しかしケトーに庇われても、周囲の空気が焼けて熱いので、僕は防護の魔術が施されたローブのフードを目深に被る。
フードの中で丸まって寝ていた多尾の狐型魔獣、今は六尾となった幻狐のクオンが驚いた様に飛び起き、フードからローブの胸元へジタバタと僕の首回りを移動して行く。
しかし見る度に何時も不思議に思うが、竜のブレスは明らかに吸った空気の量よりも、吐いた炎やら何やらの方が遥かに多い。
予備動作として吸気を行う以上、吐いているブレスの元は吸った空気の筈だけど、一体どんな仕組みになっているのだろう。
そんな事を考えてしまう位には、今の僕は落ち着いていた。
いや、別にヴァシュラーダが僕にとって容易い相手と言う訳では決してないけれども。
何たってエルダードラゴンなのだから、本来は触れてはならない強者の類だ。
でも僕は交渉が決裂した時の為にそれなりの準備はして来たから、いざ戦いになっても今更慌てる必要がない。
或いは今更慌てた所で仕方がないとも言う。
もし手持ちの札が通じなければ、その時になってから必死になんとか逃げれば良いだけの話である。
尤もそうならないだけの自信は、充分にあるけれど。
「クオン、落として」
ブレスの勢いが弱まって来たのを感じ、僕はクオンに指示を出す。
ローブの胸元から顔を出したクオンが魔力を奔らせた次の瞬間、飛んでいたヴァシュラーダがグルリと地面に落下を始めた。
クオンの放った幻覚に、ヴァシュラーダは目を回しているのだ。
高度な幻覚は、感覚までをも再現する。
例えば幻覚で生み出された剣士に切られたならば、血は出なかったとしても激しい痛みを感じ、時にはそのまま死に至ってしまう。
それと同じで、世界がグルグルと回る風景を見せられたヴァシュラーダは、平衡感覚を失って目を回して墜落した。
生まれつきの強者、竜であるヴァシュラーダは恐らく幻覚等に掛かった経験はない筈だ。
竜の持つ抵抗力を打ち破って幻覚を見せるのは、魔術であっても並大抵の事じゃ無い。
しかし幻覚を見せる事に特化した幻狐の、それも六尾までに成長したクオンならば、竜の抵抗を物ともせずに幻覚を見せる事が出来てしまう。
そしてヴァシュラーダは幻覚等に掛かった経験が無い強者だからこそ、掛かってしまった幻覚への対処法を知らなかった。
「ケトー、翼を狙って」
僕は再び詠唱を終え、ケトーの肩を杖で突く。
発動した魔術は、力の倍化させる物。
これで三つ目の付与となるが、今の僕には複数の付与術の維持も然程難しい事じゃ無い。
今の間に翼を引き裂き空を奪えば、ヴァシュラーダの機動力は大きく低下する。
そうなれば、後は大きめの魔術を幾つかぶつけてやれば、それで決着が付くだろう。
僕は館、魔の森にある爺ちゃんの領域を出てから、一度もあそこへ帰っていない。
流石に大陸を離れて移動しているから、そう簡単には戻れないのだ。
クローギス大陸にあるヴァンパイアの国、フォールナに立ち寄った時は爺ちゃんへの手紙を託したけれど、返事は待たずに次に向かった。
大陸を幾つも跨げば召喚魔法で消耗する魔力も大きくなる為、クオンは常に連れっ放しだし、ケトーは大陸を移る度に拠点となる森を見付けて呼びよせている為、以前の様に爺ちゃんへの手紙を召喚獣に託すって手法は使えない。
だからそう、なんだか、久しぶりに爺ちゃんの骨の顔をとても見たいと僕は思う。
普通の人は爺ちゃんの顔を見たら間違いなく怯えるだろうが、僕は爺ちゃんの優しさと暖かさを知っている。
勿論見たいと思ったからって、そう簡単にはいかないけれど。
何せもう五つも大陸を渡ってしまったので、来た道を戻るよりもこのまま進んで一周した方が遥かに早いのだ。
旅を急いだとしても、後一年以上は、あの懐かしい館に戻るまで掛かるだろう。
その時の、一年後か二年後の僕を、爺ちゃんが見たら果たして何と言うだろうか。
まだまだ未熟、なんて風に言うだろうか?
或いは、褒めてくれるだろうか?
僕を誇りに思ってくれるだろうか?
どちらにしても、その時が酷く楽しみだった。
だって僕は大人になっても、遠くの大陸まで旅をしても、それでも骨の爺ちゃんを心から慕う孫だから。




