1 プロローグ1
捌いたばかりの豚の血と臓物を詰めた大壺を抱え、僕は館を出て隣にそびえ立つ石塔へと向かう。
石塔の各階には、叡智の詰まった書物庫や、神秘の術である魔術の研究室、更には古代の魔術具や、危険な呪物等も収められた宝物庫なんかがあるのだけれど、でも今の僕に用事があるのはそれ等じゃない。
この塔には一見、出入り口になる扉がない様に見える。
けれども一ヵ所だけ、石壁に手形の刻まれた場所があるのだ。
僕は地面に大壺を置くと刻まれた手形に右の掌を合わせて、
「我が手に月の鍵あり、務めを果たして開かれよ」
定められた文言を唱えながら、魔術を発動させる源の力である魔力を、掌から手形に流す。
すると石壁は、内に開くでも外に開くでもなく、真ん中から割れて左右にスライドし、大きな入り口を開いた。
僕は力を込めて大壺を抱え直すと、石塔の中へと足を踏み入れる。
すると背後でゴーッと音がし、出入り口が閉まって行く。
だがそれと同時に部屋の天井が柔らかな白い光を発して、暗闇に閉ざされる事を防いでくれた。
勿論こんな現象が当たり前に起きる筈は無い。
出入り口の開閉も、天井の光も付与された魔術の働きによる物だ。
当然その魔術の働きは防犯にも使用されていて、例えばさっきの出入り口の開閉は、文言を間違っても駄目で、更に流す魔力はこの塔に立ち入りの許可を得てる者、つまり登録済みの魔力じゃなければ、防犯機能が作動する様になっている。
幸い僕はその防犯機能が作動した所を見た事はないが、仮にうっかり作動させてしまうと、まぁ人の形を保てれば運が良いと言う位の目に合うらしい。
何とも恐ろしい防犯機能だが、それでもこの塔に収められた様々な品の価値を考えると、その程度の備えはあって当然なのだと言う。
そして塔の中に入った僕は、上の階段を登るのではなく、下に、地下室へと向かう階段を下りて行く。
階段の先には大きな扉があり、その横の壁には一枚の外套が吊るされていた。
僕は再び壺を床に置くと、先ずは外套を身に纏い、扉に刻まれた眼の印に、自分の瞳を近付ける。
チカチカと印が輝くと、次は入り口と同じに手形に手を当て、と言っても今回は二つの手形に左右の掌を押し当てて、
「我が右手に月の鍵、左手に太陽の鍵あり、虹への拝謁を求む」
そう、唱えて魔力を流し込む。
だがこの時、左右の手から流す魔力は、全くの等量でなければならない。
魔力をただ流すなら、魔術を発動させたばかりの見習いでも可能だが、正確な魔力量をコントロールするにはある程度の熟練が必要だった。
つまりこの扉を開くのは、塔の出入り口を開くよりも遥かに難易度が高い行為なのだ。
何故なら、この先の地下室に在るモノは、上の階の知識や宝物よりもある意味で貴重であり、遥かに危険度の高い存在だから。
地下室に踏み込めばやはり扉は自動で閉まり、けれども今回は光は灯らない。
この部屋の主が、無駄な光を嫌うからだ。
故に僕は自前でブツブツと小さく詠唱し、自らの瞳に暗闇を見通す力を付与する。
部屋の主は既にこちらに気付いていて、僕の行動を待っていた。
だから僕は部屋の主を待たせぬ様に急いで、三歩進んでから大壺を床に置くと、壺の口を閉ざしていた蓋を開く。
豚の血と臓物の臭気が、ヌッと立ち上って僕の鼻を刺す。
しかし僕には不快なその匂いが、部屋の主には大層かぐわしく感じるのだろう。
ズルズルと床を這って、大壺に彼が近付いて来る。
近付いて来たのは、ヌメヌメとしていて、テラテラとしていて、柔らかそうに見えて、でも硬そうで、重いのか軽いのかも良くわからない、不定形な存在。
色も黒の様で、白の様で、水銀を思わせて、暗闇なのに虹色に輝く。
全く以って理解の及ばない、こことは別の異界からやって来た存在だった。
僕は彼の食餌を邪魔しない様、大壺から離れてから、地下室の奥へと進む。
この地下室の出入りがあんなにも厳重なのは、万一にも部屋の主を外に逃がしてしまわない為だ。
もしも逃がしてしまったならば、……或いは国の二つや三つが滅びるような事態にまで発展してしまうかも知れないのが、この部屋の主である。
勿論本当にそこまで危険なのかどうか、試した訳じゃないから僕は知らないのだけれども、でもだからって試そうって気には到底ならない。
部屋の主が食餌に夢中な間に僕が行わなければならないのは、収穫だった。
ほら、雌鶏を育てていたら、餌をやってる間に卵を回収すると思うが、今から僕が行うのはそれと似た様な事だ。
部屋を良く探したならば、拳大のサイズの、部屋の主と同じ様な虹色をした石の様な物が幾つか転がっている。
僕はその虹色の石を直接手では触らずに、魔術で強化した布ごしに拾い上げ、同じく強化済みの袋へと回収して行く。
この虹色の石は魔力の容量を増やす貴重な秘薬の材料として、魔術師にとっては同じ重さの金よりもずっと価値のある物なのだとか。
でもこれが部屋の主の卵なのか、排泄物なのか、それももっと別の何かなのか、僕は知ろうとは思わない。
だって我が家ではこの虹色の石を、塩や胡椒のかわりに削って肉の上に振りかけて食べているのだから、知ったら食べ難くなるかも知れないし。
それに金よりもって言われても、この辺りで暮らしているとお金を使う機会はめったにないから、金銭や貴金属に然程の意味を感じないのだ。
さて僕が石の回収を行っていると、背中でバチリと音がした。
振り向けば部屋の主が長く伸ばした身体の一部が、僕の背中に触ろうとしたらしい。
僕と遊びたかったのか、それともデザートとして僕を食べたかったのかはわからないけれど、それを身に纏った外套の防御魔術が弾いたのだろう。
「ちょっと、邪魔しないでよ。それよりも早く食べちゃって。壺の回収だってしなくちゃいけないんだから」
そんな風に僕が少し強めの口調で言えば、しょんぼりした様に部屋の主が伸ばした身体の一部は項垂れる。
ちょっとだけ可哀想かなって気はしないでもないが、得体の知れない相手の意図を勝手に自分の物差しで判断する程、危険な事はそうはない。
まあでも、部屋に閉じ込められたままだとつまらないだろうとも思うので、近いうちに師匠である爺ちゃんに、部屋の主を運動させる許可を取ろう。
「近いうちに爺ちゃんに、運動の許可取るから、それまでもう少し我慢してね」
そう声を掛けたなら触手の様に伸びた身体の一部は、喜んだのか怒ったのかは不明だが、興奮したかの様にべちべちと床を叩き、それからズルズルと縮んで戻って行く。
その後は彼が僕の邪魔をする事はなく、床の石を拾い終えた僕は、空になって軽くなった大壺も回収し、部屋の主に手を振ってから地下室の外へと出た。