縁結びはややこしい その2
トタン屋根に雨が転がる音が響く。
それを耳にしながら、琴子は新しい湯飲みにお茶を注いだ。柔らかい新緑の色を注いでから、琴子はおずおずと稲穂に声をかけた。
「あのう、稲穂さんもお茶を飲みますか?」
「はぁい、くださるならいただきます」
「はい、どうぞ」
「あらぁ、ありがとうございます。達彦は今日はずーっとからくりにかかりっきりでつまりませんわぁ」
「はあ……」
稲穂は奔放な言動で、事務仕事をしている敷島にもたれかかったり抱き着いたりするものの、仕事の邪魔になるほどでもないから、多分悪いひと……いや、悪い妖怪、なのか?……ではないらしい。
琴子が差し出した湯飲みもゆったりとした手付きで傾けるのを見ながら、琴子は「そういえば」と口を開く。
「うちの神社、どうして縁切りを行ってるんでしょうか?」
琴子の出した疑問に、モニターから視線を逸らすことなく敷島は返す。
「うちは別に縁切り専門ではありませんが。前々から思っていましたが、渡辺さんは縁切りは反対ですか?」
「反対って訳ではないんですが……あんまりいい響きではないかなと思います」
ときおり見る絵馬も、前に来た祈祷も、身勝手極まりないなと琴子には見えるのである。
それこそ縁結びだったら縁起がいいような気はするが、鍋底神社は縁切りの神社だとネットにも書かれている。
「ネットでも、縁切り神社だと噂されていますし……いっそのこと、縁結びの神社って評判に上書きしたほうがいいような気がしたんですが……駄目でしょうか?」
琴子はおずおずと敷島に聞いてみる。
敷島はカタカタと表計算ソフトで予算案のデータをつくりつつ、琴子が淹れたお茶を傾ける。
「そうですねえ……この辺り、黄泉と繋がっていたという伝承があるのはご存知ですか?」
「えっ?」
敷島の唐突な物言いに、琴子は目を白黒とさせる。それに稲穂はくすくすと笑う。
「いきなり脅かしますのね、達彦も。その話、今時この辺りに住んでいる子供も忘れている話ですわよ?」
「脅かす気はないんですがねえ……黄泉に神が女子供が気に入った子供を連れて行ってしまい、神が恐ろしくて一部の女子供は逃げ出したんですよ。憐れに思ったのは、黄泉とこの世の境に住まう女神で、自分の社に匿い、一定期間自分の身の回りの世話をさせて、お勤めが終わった女子供を解放してこの世に返したって伝承です」
「それが、ちょうど鍋底神社、とされていますわ。鍋底っていうのも、地獄の釜の底って意味からでしょうねえ。釜底だったら音の響きが悪いから、鍋底に変わったってところかしら?」
そうふたりに言われてしまい、思わず琴子は顎に手を当ててしまった。
「あのう……女子供を守ったことの、なにがそんなに縁切りに?」
「神っていうのは身勝手な存在ですからね。神話でも聞いたことがありませんか? 一度見染めた相手を奪い去った話とか、自分の国に問答無用で連れ帰った話とか。もしそこで「縁があるから一緒にいるべきだ」と言われてしまったらどう思いますか?」
「えっ? ……身勝手だって、そう思うんじゃないでしょうか?」
いきなり伝承の話を聞かれてしまってもと思いながら、琴子はしどろもどろに返事をする。それに敷島は「でしょうね」と答えながら、カタカタとキーボードを打つ。
「そんなものだと思いますよ。ですから、うちも一方的な縁結びというものはお勧めできません」
「で、ですが、それって極論じゃありませんか? たしかに縁結びで、いきなり全然興味のない人と縁があるって言われても困りますけれど、だからといって縁切りを肯定するのは」
「でも先程お伝えした伝承、どう思うんですか? その女子供は一生、神に面倒を見てもらえる立場にあったはずであり、逃げ出さなくってもよかったはずだったんです。なにがそんなに不満だったんですか?」
その問いかけは意地が悪い。そう琴子は思ってしまう。神が連れ去ったのは神の好意だ。でもそこには、女子供の意思がちっとも含まれていない。
琴子が言葉を詰まらせているのを見兼ねてか、稲穂はころころと笑う。
「達彦、意地悪が過ぎますのね。これってこういうことでしょう? 一方だけの話を聞いての縁結びは承服しかねると」
「あ……」
それで少しだけ腑に落ちた。神は一方的に女子供を好いていても、女子供はそうじゃない。単純な話だ。
でも。縁を切るっていうのも、その祈祷にやって来る人も、一方的とは思わないんだろうか。琴子は思わずそれを口にしてみる。
「一方の話だけを聞いて縁結びをしたくないっていう敷島さんの意向はわかりましたが……ですけれど、今まで行ってきた祈祷でも、両者揃って縁切りに来られた方っておられないじゃないですか。これは一方的にはならないんですか?」
「今日はずいぶんと粘りますねえ、渡辺さんも」
敷島はキーボードを叩いたまま、そう答える。稲穂はというと、面白そうにふたりの顔を交互に眺めるだけで、特に口を挟む気もなさそうだ。
ゆらゆらと湯飲みから立ち昇る湯気の中、そっと敷島は口を開いた。
「片方に既に不満がある場合は、どんなに強固な縁も綻びが生じます。話し合いをしろと勧めることはできても、それを修復するのは第三者のすべきことではないと思いますよ」
「そうかもしれませんが……ですけど、敷島さんは簡単に縁を切れてしまうじゃないですか……」
「自分は」
ずっと文字を叩いていた手はキーボードから離れ、その手は湯飲みを掴む。ずずりと湯飲みが音を立てたあと、敷島は言葉を続けた。
「傷んだ縁は痛みを伴わない内に、早めに切るべきだと、そう思いますよ。不要な縁が他の大事な縁を枯らしてしまわぬ内に」
そう言われてしまったら、琴子にはなにも言えなかった。
いつかやってきた間御門という女性。彼女はお礼参りとしてお神酒を奉納しに来た際に、地元に帰る旨を言っていた。そのとき、彼女の頭上を見たときには、あの黒ずんだ縁はなくなり、その縁に締め上げられて枯れかけていた縁が息を吹き返していたのが見えた。
敷島が言いたいのは、そういうことなんだろうか。そう考えるものの、琴子は未だに納得ができずにいた。
琴子の顔を見ていたのか、稲穂はくすくすと笑いながら口を開く。
「駆け込み寺の語源って、琴子はご存知?」
「今度は……お寺ですか?」
「昔は神社も寺もほとんど区別がなかったんですけどねえ……昔、離婚したい場合は奉行所や神社に駆け込んで示談に持ち込むことがありましたの。それでも示談に応じない、離婚したくないとこじれてしまった場合は、国が定めた寺まで駆け込んで、そこで一定期間修行した後に離婚が認められましたわ。その駆け込み先の寺は、別名では縁切り寺と呼ばれておりました。今でもその寺は存在しているはずですわ」
その内容は、ちょうど敷島の語った鍋底神社の伝承と似ているように思える。いや、縁切りを司っている寺社はどこでも似たような話があるのかもしれない。
琴子はおずおずと稲穂にも尋ねてみる。
「あのう……稲穂さんも、縁切りについては容認する方向なんですか?」
何故かやけに敷島の肩を持つ天狐に尋ねたところで、結果は見えているようなものだが。それでもこの神社のご意見番を名乗る彼女の意見を聞かずにはいられなかった。
それに稲穂は豊かな黒髪から覗く耳をぴょこぴょことさせながら、天井を見上げる。
「そうですわねえ、わたくし自由恋愛を愛してますもの。結ばれるのも別れるのも、後腐れがないほうがいいですわねえ」
「はあ……」
「でも、自縄自縛してる方っていうのは、不便でしょうがないでしょうから、さっさと逃げたほうがいいとは思いますわねえ」
そう言ってにっこりと敷島のほうに笑いかける稲穂を見て、琴子はポカンと口を開けることしかできなかった。
これは自分のほうがおかしいんだろうか。こうも皆が皆、縁切りをいいものと思っているわけではないと思うんだが。
でもふたりの指摘がなかったら、縁結びが一方的過ぎるとは、思い至らなかったわけで。
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しばらく降っていた雨も止み、トタン屋根を転がっていた雨粒の音も聞こえなくなってきた。稲穂は「それでは、わたくしはそろそろお暇しますわね」と言いながら、湯飲みを机に置いた。
「稲穂さん、次は縁談が上手くいきますように」
「あらあら。わたくしがいなかったら、達彦も寂しいでしょうに」
稲穂はころころ笑ったあと、ふいに琴子のほうに振り返ると、いきなり抱き着いてきた。
「お茶、ごちそう様でした」
「え? はい……」
極上の美女に抱き着かれて、思わず琴子は動揺で目を瞬かせていると、稲穂はひくひくと鼻を動かしていることに気が付いた。
「……やっぱりしますわねえ、あれの匂いが」
「はい?」
「あなた、出会ったのでしょう、あの男と? このことは達彦には口にしないほうがよろしくてよ」
それに琴子は体を強張らせる。
あの男……一瞬誰のことかわからなかったが、朝に出会ったうだつの上がらない男性のことが脳裏に閃いたのだ。突然現れたと思ったら、忽然と姿を消してしまった人。
琴子の動揺に気付いたのか、稲穂はくすくすと笑う。そして琴子の耳元で囁いた。
「お気をつけあそばせ。達彦はいらないと思ったら、簡単に切っちゃいますから」
「……切るって、なにを?」
「この社の伝承を思い出しなさいな」
稲穂は言いたいことだけ言うと、ころころと笑いながら戸を開いた。
「それでは、おふたりとも。また遊びに来ますわ」
そう言うと、花嫁行列の籠に乗って、軽やかに去って行ってしまった。
鈴の音は遠ざかったと思ったら、空は晴れ。もう天の恵みも零れ落ちてはこなかった。
「行ってしまいましたね」
「いつものことですよ」
琴子は稲穂の残り香を嗅ぎながら、いったいなんのことを伝えたかったんだろうかと考え込む。
何故か天狐に好かれる敷島に、鍋底神社の界隈に詳しい稲穂。そして、うだつのあがらない謎の男性……。
これらが全部繋がっているとは思えないんだが、もしなにも関係ないのなら、わざわざ言うことなんだろうか。
それとも、ここにはまだ琴子の知らない話が伏せられているんだろうか。
湿気がもうもうと立ち込めている境内。
今日は残念ながら、これ以上ここを訪れるものはいないだろう。




