縁結びはややこしい その1
鍋底神社への出勤時間は、普通の会社の出勤時間よりも少しだけ遅い。そのため、電車も程よく人がはけた時間に乗れるからちょうどいい。
琴子は今日も元気に駅を降りて神社へと向かおうとしたとき。
ぽつん、と琴子の鼻の頭に、滴が落ちた。
あれ、と思い琴子は空を仰ぐと、空はちょうど青空が広がっていた。でも、ぽつんぽつんと雨が降りはじめたかと思ったら、あっという間に霧雨のような細かい雨が降りはじめた。
狐の嫁入り、だろうかと思う琴子。鍋底神社は緩やかとは言えど山の中にあるため、天気予報が当たらないというのはよくある話だ。普段であったら傘を広げるところだが、これだけ細かい霧雨では、傘を差さなくってもそこまで濡れることはないだろうと、このまま神社へ急ぐことにした。
琴子がそのまま歩いていたところで、「すみません」と声をかけられた。
振り返ると、スーツ姿の男性がそこにはいた。スーツはずっと着続けていたのか、少し萎びているように見える。
優し気な顔つきで、年は四十代だろうか。
でもこんな時間帯にどうしたんだろうかと琴子は少しだけ訝し気に思っていると、男性はおっとりとした口調で言葉を続ける。
「すみません、鍋底神社はどちらでしょうか?」
それにますます琴子は困惑して眉を下げる。
お祭りの準備の関係で、琴子も敷島と一緒に氏子とは顔を合わせている。前職が営業だったから顔覚えはいい方だが、彼みたいな人はいなかったはずだ。
神社で働いているとわかるのは、意外と営業マンみたいな人は現れないし、罰が当たると思っているのか怪しげなセールスマンも押しかけてこない。もし祈祷が目的ならば、事前に問い合わせがあるだろうが、琴子はこの数日祈祷の問い合わせの電話を受けてはいなかった。
だとしたら、この人は誰なんだろうと、思わず首を捻ったところで「ああ、すみません。怪しすぎましたよね」と男性のほうから謝られてしまった。糸のように細い目は、どうにも狐を思わせた。
「あそこの神社の敷島くんと、知り合いなんですよ。ですから会いに行きたいんですが」
「え?」
琴子はあの人のいい顔してよくわからないメガネを頭に思い浮かべる。男性は明らかに敷島よりも年上だし、先輩と後輩の関係なんだろうか、と琴子は結論づけることにした。
この男性の頭をなにげなく琴子は見てみると、彼からは黒く腐りかけている縁も、明らかに枯れかけている縁も見当たらないことからして、今のところ悪縁にまみれている訳ではないんだろう。
琴子は「それでしたら」と言って、男性と歩きはじめた。
「あの、お仕事はどうされたんですか?」
「自分は非常勤講師ですから。あちこちの学校の掛け持ちですよ。今日は枠がないんで、休みです」
「なるほど……」
琴子はそんな他愛ない話をしながら、男性と一緒に緩やかな坂を上っていく。だんだんこんもりとした石垣からこぼれる神木が見えてきた。
「ほら、あそこが鍋底神社ですよ……あれ?」
琴子は隣の男性に振り返って、思わず目を瞬かせる。
さっきしゃべっていたはずの男性は、忽然と姿を消していたのである。
幽霊? 一瞬そう思うものの、頼りなさげな男性ではあるが、存在感が希薄ということはまずなかった。気のせい? そう思ってみたがやっぱり違う。そもそも琴子の妄想だけで、あれだけ詳細な男性のプロフィールは出てこない。
「狐の嫁入りの……せい?」
未だに細やかに降り続ける雨空を見上げながら、琴子はぽつんと呟いてみる。
いなくなってしまった男性のことは、鍋底神社の敷地に足を踏み入れてもなお、はっきりとした言葉は出てこなかった。
****
空は晴れているにも関わらず、雨が止むことはない。
今日は祈祷の予約も入っていないし、この分ではときおりやってくる寺社巡りのお客や観光客も、ここまでやってくることはないだろう。
琴子はプレハブの社務所で、くわりとあくびを堪えながら、空を眺めていた。
「このぶんだと、今日は人が来ませんよねえ」
「ええ。すみません、渡辺さん。暇なのに電話番と店番を任せてしまって」
「いえ、こんな日もありますよ」
琴子はブラック企業で務めていた時間があったせいで、どうにも暇な時間がもったいないという癖が抜けきっていないだけだ。客商売になれば、忙しい日もあれば、暇な日もあるというのは当たり前な話なのだが。
敷島は今日は事務仕事で一日を費やすつもりらしく、お祭りの準備の書類やら、賽銭の計算やらを行っている。モニターから視線を逸らすことなく、琴子の相手をしてくれている。
掃除をしたくとも、雨では掃除をしても同じだし、室内である拝殿も社務所内も片付けてしまって、やることがない。せいぜい電話が来たら対応するくらいだが、今日は氏子からもセールスマンからも一本も電話はかかってこない。
「今日の狐の嫁入りって、ずいぶんと長くないですか?」
「そうですねえ……嫁入りでトラブルでもあったのかもしれませんね」
「なんですか、それ」
「うちにもときどきやってくるんですよ、狐の嫁入り行列が」
琴子は敷島がのんびりとお茶を飲みながら、パソコンを叩いているのをまじまじと見た。
敷島はこんな冗談を飛ばす人間とは思っていなかった。口調こそ柔和なものの、いちいち腹の読めない上司だ、琴子はそう思いながら、人の来ない店番を続けているとき。
しゃん
「え……?」
耳にした鈴の音に、思わず拝殿のほうを見上げた。
拝殿には今は人はいない。当然ながら鈴を鳴らす客などいないはずなのに。
琴子はおろおろしながら窓の外に視線をさまよわせているが、敷島は涼しい顔のままだ。
「やっぱり、またこじれたみたいですねえ」
「あ、あのう……この音ってなんですか?」
「なにって、嫁入り行列ですよ」
「その嫁入り行列って、冗談ですよね?」
「自分は、冗談が嫌いですが?」
言っている間に、なおも鈴の音が近付いてきた。
しゃん
しゃんしゃん
しゃん
しゃんしゃんしゃんしゃん
鈴の音と一緒に鳥居をなにかがくぐってきたのに、琴子は目を剥いた。
それは、籠を抱えたお面を被った人たちである。着ているのは黒い紋付き袴である。雨が降っているのに。雨が降っているのに。
やがて籠は降ろされたと思ったら、籠の戸が開いた。
そこから出てきたのは、白い花嫁衣裳に、角隠しを被った女性である。角隠しからは豊かな黒髪が覗いている。
出てきた女性は、ずいぶんと肌が白くて艶めかしい色香を放っているのに、琴子は呆気に取られていた。
雨の中、花嫁行列が歩いてきたと思ったら、花嫁がやって来るなんて聞いたことがないし、なによりもこんな雨の中だったら着物が傷むことを気にして、行列なんて取りやめそうなものだ。
「達彦~!!」
なによりもおかしいのは、あまりにも敷島がその対応に慣れきっていることと、その女性が泣きながらプレハブ小屋に飛び込んできたということだ。
琴子はあまりにも情報過多なのに、しばらく口を開けたまま放心する以外、することがなくなってしまった。
女性はわき目もふらずに敷島の胸に飛び込むと、しくしくと泣きはじめた。
「達彦、わたくしってば、またフラれてしましましたのよ。今度こそ幸せになれるとばかり思っていましたのにぃー!!」
「稲穂さん落ち着いてください。今度は相手は誰だったんですか」
「雷獣ですわぁー! 同じ天に連なるもの同士上手くいくと思いましたのに! あぁん、わたくしにはやっぱり達彦しかいませんわ! 達彦、わたくしの眷属になりましょう! 幸せにしてみせますわ!」
「お断りします」
マシンガンのごとく怒涛の速さでまくしたてる稲穂と呼ばれる女性の求婚に、きっぱりとした態度でフる敷島。しかも彼の下の名前呼びなのにもまた、琴子は唖然とするしかない。
このいい人なのか悪い人なのかわからない人に堂々と求婚する人がいたとは、今まで思いもしなかったことだ。
稲穂も勝手にしゃべり立てて、あっさりフラれても「あぁん、いけず!」だけで済ませてしまったので、神経は図太いらしい。そもそも彼女は誰かと結婚するところだったのが破談してしまったらしいし、この流れはよくある話らしいから、本当に図太くなかったらやっていけないのだろう。
「あ、あのう……」
ようやく会話が途切れたことで、ようやく琴子はおずおずと口を開いた。そこでようやく稲穂は琴子に気が付いたと言うように長い睫毛で縁どられた目を彼女に向けてきた。
「あらまあ、達彦が巫女を雇うなんて思ってもみませんでしたわ」
「あ、はい……渡辺琴子、です……あのう、あなたはいったい……? それにいきなり結婚行列が来ましたし……」
そもそもあの場違いな結婚行列は、なんなんだろうかと琴子は恐々と外と稲穂を見比べる。
それに稲穂はようやく敷島から離れて、腰に手を当て胸を張る。
「わたくしは稲穂。鍋底神社のご意見番、ですわ」
「え、ええ……?」
話が見えない。思わず琴子は助けを求めるように敷島を見ると、敷島は困ったように目を細める。
「彼女は天狐です。うちの神社には狛犬ではなく狐を祀っているでしょう? それが彼女です」
「え?」
一瞬意味がわからない。そう思って稲穂を眺める。彼女は茶目っ気たっぷりの笑顔で角隠しを取ると、黒い艶やかな髪が流れてきて、頭にぴくぴくと耳が動いていることに気が付いた。彼女の髪の色と同じ、黒い獣の耳である。
天狐は人の姿に化けることのできる狐の一種らしいが、詳しいことは琴子も知らない。
何故か縁を切ることができる宮司も相当おかしいが、いくらなんでも天狐が人の姿に化けてご意見番として神社に通うなんて話は、どう処理をすればいいのかさっぱりわからない。
稲穂は琴子を見るとにこにこと笑いつつ、歌うように問いかけてきた。
「それでは、雨が止むまでの間お邪魔してよろしい?」
「え? ええっと……敷島さんがよろしいのでした、ら……」
「別に構いませんよ。どうせ、今日は参拝客の方も来られないでしょうし」
いくら駅前で緩やかな坂とは言えど、雨の中、山を登って参拝する人間はそうそうおるまい。
空は晴れているにも関わらず、未だ雨が止む気配はない。




