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不毛な恋の忘れ方 その3

 敷島の言葉は冷淡だが、真実ではある。

 彼女の願いである、不倫相手の離縁は成就する。そもそも人の離婚を願うような人間の、運命の赤い糸が切れたところで、本人以外は困らないのである。


「ですけど……」


 琴子はそれでも、納得ができなかった。

 もし縁が見える目を持っていなかったら、敷島の薄情な言葉を「それもそうですね」と切り捨てることができたかもしれないが。琴子には、その綺麗な縁が見えていた。この縁が、無残に切られてしまうのを、見たくはなかった。

 どう考えたって、本来切らないといけない縁は、不倫相手とのもの。決して運命の相手との縁ではないはずだ。


「敷島さんも言ったじゃないですか。これは仕事だって。そこに、甘えているだけには、なりませんか?」

「……渡辺さん。誰かの縁に介入しようというのは、それこそおこがましくはありませんか? 縁を結ぶっていうのは、両者の合意がなければ、いずれ破綻します」

「そうじゃなくって……! せめて、切る縁を選ぶ方法はないんですか?」

「……縁は、片方が不満を持った時点で、放っておいても破綻しますよ」

「え?」


 敷島は溜息をついて、ちらりと社務所にかけられた時計を見上げる。あと五分ほどで、祈祷の時間のはずだ。

 彼は机の上に置いた車のキーを取ると、それを指で遊んだ。


「氏子と打ち合わせの追加が入りましたからね。大変お手数ですけれど、お客様にもう少しだけお待ちいただけるようお願いします」

「え? でも、さっき打ち合わせは……あ」


 さらりと言った敷島の言葉で、琴子は気が付く。

 敷島が戻るまでに、間御門と話をしろと、そういうことだ。敷島は穏やかな表情で、外のベンチで待っている彼女に「申し訳ありません、急用が入りましたので、少しだけ祈祷をお待ちいただけますか?」と挨拶している。

 琴子はポットでお茶を淹れ直すと、呼吸を整えた。

 敷島の言うことももっともなのだ。誰かの縁に介入するなんて、おこがましい。それでも。見えてしまっているものを、見ないことには、琴子にはできなかった。

 間御門のほうへ行き、琴子は空になった湯飲みをお盆に乗せると「お茶のおかわりはいかがですか?」と声をかける。


「ありがとうございます……宮司さんってお忙しいんですね」

「申し訳ありません。お祭りの打ち合わせのシーズンですので。予定が入っていてもいきなり呼び出されてしまうこともあるんです」

「大変なんですね」


 そう世間話をしつつ、琴子はどうやって切り出すかを考えると、ふと間御門が湯飲みを手にしている指が目に入る。薬指には指輪が光っている。フェミニンなデザインだが、びっくりするほど高い値段だったのを通販サイトで見たことがある。


「この指輪、すごく可愛いですね」


 思わず口にしてしまうと、間御門は少し驚いたように目を見開いたあと、ゆったりと笑った。

「ええ……しかも限定品なんで、まさかこうして手に入るなんて思わなかったんです」

「すごいですね、こんな可愛い物買えるなんて」

「いえ、買ってもらったんです。私が欲しいって言ったら、ポンと」


 それに、あの絵馬に書かれていた不倫相手が頭に浮かぶ。いくらなんでも、若手であったらこんな指輪をひょいひょいと買えない。


「優しい彼氏さんですね」

「……ええ。巫女さんは、私の絵馬を見ましたか?」


 巫女さん……と言われて、それは自分のことだと琴子は思い直す。話を振られて、琴子は「申し訳ありません、見えてしまいました」と白状する。


「私、就職してきて都会に出てきましたけれど、本当に田舎から出てきたせいで、まず同僚と話が合わないんです。好きなブランドも、流行りの曲も、見てきたドラマも……。就職一年目はとにかく不安で、不安で……あの人だけだったんです。そんな私に優しくしてくれたのは」


 そうしみじみした口調で言う間御門に、思わず琴子は言葉を詰まらせる。

 自分の働いていた会社はブラック気味で、顧客を奪われたり、上司から皆の前で怒鳴り散らされたりと、いいことなんてひとつもなかった。右も左もわからない都会に、必死にしがみつく、ただそれだけで会社を辞められなかっただけだ。

 もし右も左も話が通じない、合わない人しかいなかったら。もしなにもかもわからないところにひとりで放り込まれたときに誰かに優しくされてしまったら。

 それが例え悪いことだとわかっていても、その優しい言葉に耳を傾けずにいられるだろうか。

 でも……。琴子は思う。

 間御門はたしかに綺麗な人だと琴子は思う。でも、合っていないような気がするのだ。年不相応な値段の服を身に纏って歩いていたら、ますます同年代の女子との会話はできなくなるし、ますます敵を増やしてしまう。そうなったら不倫相手に依存するしかなくなる。挙句の果てに、その人の離婚を望んでしまったら、彼女は今度こそひとりになってしまう気がするのだ。

 どうして彼女の不倫が原因で、彼女の運命の縁が切れてしまうのかはわからないが、このままだと彼女の運命までもが切れてしまうのだけは、琴子は納得がいかなかった。


「なんだかわかりますよ」


 琴子の言葉に、間御門は戸惑ったように、長い睫毛を瞬かせた。色が髪の色よりも黒いから、付けまつげじゃなくって自前なんだろうと琴子は思う。


「私もここの神社で働きはじめるまでは、田舎から出てきて、右も左もわからないところで働いていましたから」

「巫女さんも、ですか?」

「はい。私が働いてたところ、ちょっとブラック気味だったんで、誰も優しくしてくれなかったですけどね。でも慣れない場所で優しくされちゃったり、いろんなものを買ってくれたら、きっと悪いことしているかもしれないってどこかで気付いていても、見て見ぬふりをしてしまうと思います。でも……」


 琴子の場合、間御門みたいなことにはならなかった。もしあのままあの会社で働いていたら、あの会社が潰れるのが先か、琴子が壊れるのが先かのチキンレースがはじまっていただろう。

 なにがよかったのかと言ったら、琴子がおかしいことに、赤の他人のはずの敷島が気付いてくれたことに他ならない。

 多分、間御門の運命の縁も、彼女がおかしいってことに、気付くはずなんだ。

 琴子は一生懸命、言葉を続ける。


「案外、人って気付いているものですよ。見て見ぬふりしていても、いろんなことに」


 間御門にも気付いてほしい。

 彼女の運命は、不倫相手じゃない。他にいるということに。

 しばらくして、間御門は「ごちそうさまです」と、湯飲みを置いて立ち上がった。もしかして、言い過ぎて彼女を怒らせてしまっただろうか。琴子も思わず焦って立ち上がると、間御門は振り返る。


「……そうですよね。なんだか不思議です。ずっと悩んで袋小路に入っている中、意を決して縁を切ってしまおうって思いついたのに、全然違う結論が出るなんて」

「えっ」


 怒るのかと思っていた間御門は、何故かすっきりした顔をしていたのだ。


「宮司さんに伝えてください。吹っ切れましたので、祈祷はいいと」

「あ、あの! 祈祷を受けないのでしたら、初穂料は返金を……」

「かまいません。これはそのまま受け取ってください」

「困りますよ!」


 言い合いを打ち消すように、間御門はさっさと自分の車に乗り込むと、そのまま優雅に走り去ってしまった。

 それに、琴子は呆然として見送る。止める暇もなかったと。その彼女の後ろから、ひょいと言葉が投げられた。


「終わりましたか?」

「わっ……! ……敷島さん」


 琴子は、間御門が去っていった方向と敷島を交互に見比べながら、おずおずと返事をする。


「……わかりません。ただ、お客様は吹っ切れたとおっしゃって帰っていきましたが。どうしましょう」

「珍しいですね。自分から縁を切ることを決めるなんて」

「ええ?」


 琴子は敷島の言葉に、目をパチパチとさせてみせた。


「あのう、敷島さんは祈祷で縁を切れるんですよね? 縁って自力で切ることができるものだったんですか?」

「普通にあることだと思いますが。あまりに合っていない会社から転職を決めるとか、すれ違いが続いたから離婚を決めるとか」

「そりゃ、そうなんですけど」

「悪縁というのは、力を込めればちゃんと切れるものですよ。ただ、切れるときに痛みを伴いますがね。自分がやれるのは、痛みを伴うことなく縁を切ることくらいですから」


 そうしみじみとした口調で言う敷島に、琴子はなんと返せばいいのかがわからなかった。「ただ」と敷島は続ける。


「渡辺さんも、できましたら今回みたいにお節介な真似は謹んでくださいね。今回がたまたま自力で縁を切れるものでしたから、あなたの説得でもなんとかなったんです。ここに来られるお客様が、皆が皆、自分勝手な願いでいらっしゃる訳ではありませんよ?」


 それは優しい口調だが、きっぱりとしたものだった。

 今回の琴子の行いは、よろしくなかったと。琴子はそれに、「はい」とも「いいえ」とも言えなかった。

 切らなくてもいい縁を切って、人生を棒に振る手伝いを、いくらここで働いているからと言ってできなかった。間御門から生えている綺麗な縁が、本人に気付かれることなく切れてしまうのが、あまりに可哀想だたからだ。

 そんな感覚は、縁が見える琴子以外が理解できる訳もない。

 ただ琴子は「申し訳ありませんでした」とだけ言って、頭を下げるのだった。


****


 若菜は前に預けていた辞表が受理されたことを確認してから、残りの出勤日を全て有給に当てた。

 今日、神社に行ってよかったと、少しだけすっきりしている自分がいる。今は内緒話なんて滅多にできない。喫茶店で話していた愚痴をたまたま聞いていた人がSNSに書いた末にネットで拡散されることがあるくらいだ。不倫していることも、田舎から出てきて寂しいことも、愚痴れる相手も相談できる場所も、若菜にはなかったのだ。

 赤の他人である巫女に話を聞いてもらえてよかった。彼女はそう思いながら、家に電話をする。「会社辞めたから実家に帰る」と伝えたら、当然ながら騒がれてしまったから、このことはおいおい説得するしかないかなと思っていたところで、電話が入った。

 通知を見ると【木下きのした】とある。若菜の同僚の中で、数少なく若菜の不倫を辞めたほうがいいと言ってきた相手であった。他は公然の秘密ながら、関わると火の粉が飛んでくるからと一斉に遠巻きにしたというのに。

 なんだろうと思いながら、若菜は電話を取る。


「もしもし」

『間御門、会社を辞めると聞いたけど……』

「前々から考えていたことよ。木下くんありがとうね、ずっと私のこと止めてくれてたのに、こんな形になっちゃって」

『なにも会社を辞める必要はないだろ。これからどうすんだよ』

「ちょっと療養が必要かなあと思う……ここに出てきてから、気を張り過ぎちゃったからなあ……」


 自分の給料だとボーナス払いにしなかったら買えないようなワンピースも、出かけるたびに目玉が飛び出そうな程に高い食事も、たしかに夢のようだった。

 でも、若菜も周りが遠巻きにしている理由くらいはわかっていた。

 右も左もわかっていない女が、どんどん上司の色に染まっていくのがどう見えているのか。それが女性として見られているというよりも、愛玩動物のそれだということが。

 わかっていても、ひとりでコンクリートジャングルで生きていけなかったのだ。寂しいし、怖いし。例え遊びであっても、抱き締めてくれる温度だけが、不安を和らげていてくれたのだから。

 そんな中、どうして木下が必死で止めてくれていたのかだけは、若菜にはわからなかった。皆関わりたくないと遠巻きにしてしまっていたのに。

 やがて、スマホの向こうから溜息が聞こえてきた。


『実家に戻ったら、そのまま実家のほうで仕事を探すのか?』

「んー……私にはこっちの生活が合わなかっただけだから。実家で休んだら、また仕事を探すかな」

『そっか。なあ、いつ帰るんだ? すぐには帰らないだろ』

「そうだね、まだ引っ越しの荷物もまとまってないし。でもどうして?」

『せめて帰る前に、食事に行かないか? 俺だったらその……高いフレンチもバルも誘えないけど』


 そのひと言に、思わず若菜は噴き出した。

 たしかに高級フレンチはおいしいけれど、肩が凝るのだ。本当はもっと大衆的な焼き鳥屋とか、居酒屋のほうが若菜の口には合っている。


「じゃあビールが飲めるところがいい。安いビールでいいから」


 そう返したら、途端に木下は声を明るくした。


『じゃあスケジュール決まったら教えて。店取るから!』

「わかった。本当にありがとうね」


 ようやく電話を切ってから、若菜は「ふう」と息を吐く。

 きっと袋小路に陥っていた頃だったら、彼の声はちっとも聞こえなかったんだろうと。明日にはもらったもので、合わないものはネットフリマで売ってしまおうと、フリマアプリの検索をはじめた。

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