不毛な恋の忘れ方 その2
約束の日。
その日はずいぶんと晴れた日で、朝から敷島は出かけている。
「どちらへお出かけですか?」
「祈祷までには戻りますが。縁日の打ち合わせです」
「縁日って、お祭りですか?」
琴子がここで働きはじめてから、まだ神社の繁忙期とかち合ったことはない。敷島は穏やかに微笑む。
「町内でいろいろやるんですよ。神輿などの準備もありますからね。留守番お願いします」
「行ってらっしゃいませ」
平日だと、敷島が出かけたときの留守番以外は用事がない。一日出かけているときもあるが、今日は祈祷があるから、それなりに早めに切り上げて帰ってくるだろう。
琴子はそうぼんやりと思いながら竹箒で鳥居の近くを掃いているところで、勢いをつけて車が走って来るのが目に留まった。
鳥居やプレハブ小屋の社務所の近くには駐車場が存在し、そこにブレーキ音を大きく立てて滑り込んできた車に、思わず琴子はポカンと口を開けて眺めていた。
車から出てきた人を見て、これまた琴子はポカンとする。
化粧は女優のようにくっきりとしたもので、目元がやけに凛々しい女性だ。服もぱっと見だが、形の上品なワンピースは有名ブランドの物のはずだ。肩にかけている鞄もびしっとして様になっている。このご時世にバリバリのキャリアウーマンだろうか。ブランド物を買える財力とそれを見に付けても違和感がないのは、それが男社会で生きていく上での武装になりうるからだ。
ブラック企業で働いていて、ジリ貧状態で暮らしていた生活から抜けきっていない田舎ものの琴子からしてみれば、違う人種に思えてならない。
それにしても、と琴子は彼女の頭の上を見る。
どうにも彼女の頭から伸びて見える縁が、やけに黒ずんでいるように見えるのだ。初めてここを訪れた際に敷島の祈祷で縁を切られた女性がいるが、それに似ている。
粘液を纏わせている黒い縁は、水栽培の水を取り替えることなく放置しておいた水栽培のヒヤシンスを思わせた。
そしてその粘ついた黒い縁の中。白い綺麗な根っこが見えるんだが、このまま黒い縁に絡みつかれて大丈夫なんだろうか。絡みつかれた白い縁は、どうにも窮屈そうだ。植物だって相性が悪いものを一緒に並べて育てたら、栄養を片方に奪われてしまうことがある。今は綺麗な縁も、この黒い縁とくっ付けておいて大丈夫なんだろうか、とついつい見つめてしまうのだ。
そう思いながら女性を眺めていたら、彼女は琴子に気付くと、スタスタとこちらのほうに歩いてきたのに、思わず琴子は肩を跳ねさせた。ジロジロ見ていたせいで文句でも言いに来たんだろうか。そう思ってあわあわとしていたところで、女性がひと言琴子に伝える。
「すみません、ここで祈祷の予約を入れていた間御門ですが。予約まで早かったですか?」
「は、はい……?」
そう言われて、はっとした。
ずいぶんと派手な人が、黒い縁をくっ付けているものだから、思わずそちらばかり凝視していた。この人がこの間予約を入れていた人だ、と思い出したのだ。
琴子は慌てて彼女に頭を下げる。
「ああ、ご予約の方ですね。まだ時間がありますのでお待ちいただけないでしょうか?」
「そうですか……なら絵馬を書いて待っていますから、絵馬をください」
「は、はい……!」
彼女の変な迫力にいちいち田舎者丸出しな反応を示しつつ、琴子は彼女を社務所に案内した。プレハブ小屋な社務所を見て、一瞬女性は表情を崩したものの、琴子が値段を提示して差し出した絵馬のお金を支払うと、それに一緒に差し出したペンでさらさらと願いを書きはじめた。
その願いをちらりと琴子は見て、思わず息をつめそうになるのをこらえる。
【早く奥さんと別れてくれますように】
派手な外見と相まって、不倫でもしているんだろうか。そう一瞬考えるものの、人を見た目で判断してはいけないと、琴子は軽く首を振る。女性はその絵馬をさっさとかけてくるので、琴子は慌てて祈祷用紙を彼女に差し出した。
「あと、祈祷までしばらくお待ちいただかなければいけませんが、こちらのほうに住所と名前を書いてください」
「……名前だけでなく、住所もなんですか?」
「はい。神様にどこの誰の願いなのかを伝えるためなんです」
祈祷の際に住所が必要とされると、大抵は変な顔をされてしまうものだが、一応祈祷のときの決まり事なのだ。住所はそのあと神社で処分されるから、悪徳企業のように物の押し売りもしない。
女性は一瞬躊躇したようだったが、さらさらと住所と名前を書きはじめた。琴子が回収した祈祷用紙には【間御門若菜】と書かれていた。
彼女は祈祷料……初穂料を支払うので、しばらく待っている間に彼女にお茶を差し出した。
それにしても、と琴子は思う。
彼女の願いが不倫相手の離婚ということは理解できたが、彼女の縁の説明ができないのだ。黒い縁は、明らかに腐っているが、間に入っている縁は綺麗なものである。でも、その縁が黒い縁に絡まれているせいなのか、少し変色している部分があるのが気にかかる。
ヒヤシンスだって、腐っている部分をさっさと切ってしまわなかったら綺麗な根っこも変質させてしまうし、ヒヤシンスにだってよくないんだが、これは放っておいてもいいもんなんだろうか。
祈祷時間までまだ時間があるものの、自分もどうしようと思っていると、氏子と祭りの打ち合わせをしていた敷島が戻ってきた。
「お疲れ様です……おや、もう祈祷のお客様がいらっしゃっていましたか」
「敷島さん。お帰りなさいませ。……あのう」
社務所に入ってきた敷島に、お茶を差し出す。祭りの打ち合わせになったら、町の活性化とか利益関係のことが絡んできてどうしても話が長くなる。くたびれていたらしい敷島がお茶を一気飲みするのを尻目に、社務所の前で祈祷時間を待っている女性のほうを眺めていたら、敷島は湯飲みを置いてちらりと琴子のほうを見てきた。
「どうかしましたか? 渡辺さん。先程からずっとお客様を気にしてらっしゃるようですが」
「ど、どこから見てたんですか?」
「先程お客様が絵馬を書かれていたところからですが」
それってほとんど最初からじゃないか、と琴子はこのよくわからない宮司に対して頭を抱える。
彼女はプレハブ小屋の前に設置されたベンチに座り、形のいい脚を組んでお茶を飲んでいる。堂々としている人に見えるし、その人が奥さんと別れろなんて身勝手な願いをかけようとしている人には思えない。
琴子は彼女の頭の上を見ながら、敷島にそっと言ってみる。
「あのう、彼女の縁なんですが。真っ黒な腐った根っこみたいな縁に、真っ白な綺麗な根みたいな縁が絡んでいるっていう、おかしなことになっているんですが」
「なるほど。ふたつの縁が彼女の主だった縁なのでしょうね」
「これって、どういうことなんでしょう?」
「あいにく自分には縁が見えませんが。恐らくは彼女は今、腐れ縁に繋がれている状態なのでしょうね。今は綺麗な縁が繋がっているものの、これが綺麗なままとは限らない……」
「……あのう、彼女。依頼内容はどうも、不倫相手の離婚祈願みたいなんですが。あの白い縁が不倫相手とのもので、黒い縁が奥さんのもの、なんでしょうか? 黒い縁が白い縁に絡んで、白い縁が壊死しそうに私には見えるんですが」
「おやおや」
シンプルに考えればそう思えるんだが、琴子は直感の部分で「違うんじゃないか」とついつい思ってしまっていた。
運命の相手と一緒にいるために、邪魔者を排除する。それがシンデレラストーリーであればお約束だが、残念ながら不倫しているのは彼女のほうであり、不倫の縁がこんなに綺麗なものとは思えなかったし、思いたくなかった。
敷島は少しだけ顎を撫で上げてから、「あくまで推測ですが」と声を上げる。
「登場人物がひとり足りないんでしょうね」
「ひとり足りないって……間御門さんと不倫相手、不倫相手の奥さんの他に、あとひとり……ですか?」
「黒い縁は恐らくですが、既に腐れ縁が過ぎて、いつ千切れてもおかしくない状態です。それは彼女と不倫相手のものでしょう。でも不倫相手以外に、彼女と仲のいい男性がいるんじゃないですか?」
「それって……彼女が二股かけているって、そういうことですか?」
でもいつ切れてもいい相手の離婚なんて、いちいち願うものなんだろうか? 琴子の言葉に、敷島は「いいえ」と答える。
「二股かけてたら、その黒い縁と同じくもっと黒ずんでいてもおかしくないでしょう。後ろめたさというものは、縁を濁らせますから。まだ綺麗なままってことは、まだなんの関係も結べていないんでしょう。多分顔見知りとかそんなレベルでしょう。ですが困りましたねえ」
「困ったって?」
琴子はそれをおずおず聞いてみると、敷島は女性のほうに視線を送っている横顔が目に入る。メガネ越しの瞳はなにを思っているのかは、いまいち琴子からは読めない。
「自分は縁を切ることはできても、縁結びはできません。おまけに縁を見ることはできませんから、その黒い縁だけ切ることはできません。彼女に願われるまま、縁を切ることはできますが、その縁は不倫相手の離婚だけではないということですよ」
なにをさらりと言い出すんだ。琴子は思わず喉をひゅんと鳴らす。
「そ、それって、綺麗な縁はもしかして、運命の人かもしれないのに、その縁も切れるってことですか!?」
「困りましたねえ……ですが、依頼ですから仕方がありませんね」
「それ、彼女の願いでもなければ、頼まれてもいませんよね!?」
「ですが、彼女の願いどおり、不倫相手の縁は切れますよ?」
そんな無茶苦茶な。琴子はそれに首を振る。
「それ、詐欺じゃないですか」
「ですがそれが彼女の依頼でしょう? 不倫相手の離婚が願いであり、彼女の恋愛成就は依頼には含まれていませんから」
「初穂料もらっていますのに、そんないい加減なことでいいんですか」
「ですから、前にも言いましたでしょう?」
敷島は琴子の言葉をのらりくらりと交わしながら、言葉を重ねる。
「人を呪わば穴二つ、と」




