真心は必ずしも正しくはない その2
祈祷の予約の日、琴子は拝殿の掃除をしていた。参拝客が上がるからと座布団を並べているところで、「すみません」と声をかけられ、琴子は振り返る。
上品な女性であった。ブラウスにスカート、肩にかけ鞄の女性だが、ひとつにまとめた髪がどうにも伸びすぎている気がするし、かろうじて化粧はしているものの、顔には疲れが浮かんでしまっていた。
なによりも気になったのは。琴子は何げなく女性の頭を見て、顔を曇らせる。
彼女の頭から伸びている縁が一本、明らかに枯れかけているのである。腐れ縁の黒くて腐ったヒヤシンスの根みたいなものではなくて、水をやらずに放置していた、カサカサに乾いた根が、必死にしがみついているのが見える。
「すみません、予約しました小早川です」
「あ、はい。お待ちしておりました。まだ宮司の準備がありますので、先に社務所のほうで用紙にご記入よろしいでしょうか?」
「はい……すみません」
琴子は慌てて小早川と名乗った女性を社務所まで連れていく。敷島はというと、今日は氏子と話し合いもなく、パソコンで事務仕事をしていただけだったが、急いでやってきた琴子を見て、保存するとパソコンを休止させる。
「敷島さん! 小早川さんがいらっしゃいました」
「はい、用紙に記入をお願いします」
「わかってます。あのう……」
社務所の入り口で琴子の渡した用紙に記入している彼女をちらちらと見る。
「あのう……小早川さんから伸びてる縁ですけど……私には枯れかけているように見えるんですが……」
「恐らくですが、病との縁切りでしょうね」
「ええ? 縁切り祈祷って、病の回復とかも、やっていたんですか?」
「よくあることですよ。ダイエットに成功したいと、脂肪との縁切りにいらっしゃる方もおられますし、怪我された方が早く治したいと怪我との縁切りにいらっしゃることもあります」
「なるほど……私、縁切りって対人関係のことばかり想定していました」
「切りたい縁って、なにも人間関係だけではないでしょう。ですけど渡辺さんも、ずいぶんと深刻な顔をなさっていますね」
「あ、はい……」
琴子はもう一度社務所の入り口を見ると、小早川が「記入終わりました」と女性が声をかけてくれたので、琴子は慌てて回収に行く。
彼女の年齢を見てみると、四十代。子供がひとりいてもおかしくない年齢だが。琴子は小早川にお茶を淹れつつ、敷島に聞いてみる。
「病切りの祈祷だとは理解できましたけど。私には彼女が健康そうに見えますけど……いや、お疲れだとは思いましたが」
「前にも離婚の縁切りにいらっしゃった方がおられたでしょう。なにも本人が縁切りにやってくるとは限りませんよ」
「あ……」
それで気が付く。彼女の繋がっている縁がひとつ枯れかけている理由に。それは、寿命がつきかけているからではないだろうか。
そう思い至ったところで、小早川にお茶を持っていく。
「どうぞ」
「わざわざありがとうございます。あのう、祈祷の前でなんなんですが、お守りをいただきたいんですがよろしいですか?」
「いいですよ。どれになさいますか?」
「……健康祈願のものをお願いします」
琴子はすぐに社務所の中に戻って、お守りをひとつ差し出すと、小早川はそれを大事に受け取った。
「今度、うちの子が手術なんです……もうやれることがなくって、あとは先生にお任せするか、神頼みするしかなくなったんですよ」
「そうなんですね。お子さん、手術が成功するといいですね」
「はい……」
彼女が目を細めて、大事そうにお守りを持っているのに、琴子はほっとする。
一方敷島はというと、ようやく拝殿のほうへと出ようとするので、琴子も慌てて小早川を案内する。
階段を昇って拝殿に彼女を上げると、敷島に小早川が書いた用紙を渡す。敷島はそれを大事に読みながら、琴子にだけ聞こえる声でぽつんと言った。
「渡辺さん。彼女に感情移入するのはやめておきなさい」
「なんででしょうか?」
「自分たちができることは、祈祷だけです。それ以上のことはできません。黄泉の国から人を連れ帰ることは、神すら失敗に終わっています」
その言葉に、琴子は一瞬目を丸くさせて、敷島を見る。敷島は相変わらずメガネの向こうの感情を読み解くことは困難だった。
彼は小早川には穏やかな顔を向け、「それでははじめます」と頭を下げ、朗々と祝詞を唱えはじめる。
琴子は思わず眉を寄せて、彼を眺めていた。
今までも、彼はたびたび琴子に言っていた。「今回限りにしてくれ」と。参拝客に同情したり、共感したりすることをよしとしていない。
でも縁を切るということは、そう簡単にしていいことなんだろうかと琴子は思っているために、どうしても彼に反発をしていた。
今回の病切りに関しては、むしろ早く切ってあげてほしいと思っているのに、何故わざわざここで釘を刺したのだろう。
彼女はわからないと思いながら、彼を見ていた。
琴子は小早川の頭の縁を見る。枯れかけている縁は、必死になって彼女にしがみついているように見える。水分が戻ることはなく、それでも枯れ落ちることなく、必死に。
敷島の縁切りは力が強すぎて、関係の近い縁すら巻き込んで切ってしまうが、今回は問答無用で子供の縁が切られてしまっていないことに、琴子は心底ほっとした。
ただ彼に脅かされただけなんだろう。そう琴子は納得することにした。
祝詞は終わり、小早川に敷島は丁寧に頭を下げている。
「終わりましたよ」
「本当に、お世話になりました」
何度も何度も腰低く謝る彼女を見送りながら、琴子も頭を下げる。やがて小早川の背中が見えなくなってから、ようやく敷島はぽつんと口を開く。
「どうか長いこと泣くことがありませんように」
「……あの、敷島さん」
たまりかねて、琴子は敷島に声をかけると、いつもの穏やかな表情で彼は振り返った。
「どうかなさいましたか?」
「あの……先程から敷島さん、なにをそんなに警告しているんですか? 私が見ている限り、小早川さんとお子さんの縁は切れていませんでした。病を、切ったんですよね?」
「ええ、縁切り祈祷は行いました。ただ、先程も言いましたが。自分ができるのは祈祷だけです。黄泉の国から連れ帰ることは、できないんです」
「それだとまるで……祈祷に意味がないみたいじゃないですか」
「人を助けるのは医者の領分であり、自分たちにできることは限られていますよ」
それはひどくまっとうなことである。なんでも祈祷で都合よくことが運べば苦労はしない。でも、それだったら。
琴子はなおも納得できない顔をすると、敷島は淡々と言う。
「何度も言いましたよ、自分は。渡辺さんは参拝客の方々に共感し過ぎます。あなたが見なければいけないのは、縁ではありません。人だとも」
「はい、何度もそう聞きましたけれど。でも、それは詐欺ではないんですか……?」
「縁を切ると触れ込んだ上で縁を切らないのであれば、たしかに詐欺になるかもしれません。が、立証はできますか? 祈祷のからくりを」
「それは……」
敷島みたいに、本当に縁を切る祈祷が行える神社なんてほとんどない。祈祷は気休めであり、願いを必ず叶えるものではない。
そんな当たり前なことはわかっているが、琴子は縁が見えてしまっているせいで、ついついと忘れがちなことだ。
でも。なんで。どうして。
それでも腑に落ちないので、琴子は思わず敷島に対して声を上げてしまった。
「敷島さんは、人の気持ちがわからないんですか?」
発してしまった言葉に、琴子はようやく「しまった」と思う。それはいくらなんでも、言ってはいけない言葉だ。誰だってそんなことを言われたら怒ってしまうし、傷付いてしまう。
だが。敷島は琴子の言葉にも顔色ひとつ変えず、ただいつもの穏やかな表情を向けるだけだった。
「そうですね」
彼の返事は、否定でもなければお茶を濁す言葉でもなく。肯定だった。
それに琴子がひるんでいる間に、敷島はさっさと拝殿を降りていく。
「こちらの片付けよろしくお願いします。事務仕事がまだ残っていますので」
「あ、はい……」
そのままなにもなかったかのように言ってしまった敷島に、琴子はかける言葉がなかった。
敷島はときおり、ぞっとするほど冷たいことを言うけれど、それでも優しい人だと思っていた。思い込もうとしていた。でも、今の返事はなんなんだろう。
今まで見て見ぬふりをしてきたもの、稲穂の忠告が、ぐるぐると胸を渦巻く。
この人は、いったいなんなんだ。
その疑問が、ようやく彼女の中で浮上したのだ。




