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HAPPY END  作者: 多奈部ラヴィル
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冒険へ

私はママとさくらさんやカスミさんが道を曲がって見えなくなるまでそこに立ち尽くし、それからセブンイレブンに戻り、さっきもいたベージュで足が白い野良猫を隣にしながらしゃがんでそんなことを考えていた。その猫はお腹は太っているのに背中がごつごつとしている、典型的な野良猫だった。特に目やにはついていないようだ。わたしはさみしかった。多分今日、様々な懐かしさを知ってしまったせいだと思う。だから隣に座る猫に去られたくなかった。手を伸ばし、その背中に触れたらさっと逃げてしまうんじゃないかと怖かった。わたしは少し寒かった。そしてバッグからママからいただいた封筒の中を見た。一万円。少年に欲しいと言った金額とピッタリ同じだ。そしてその一万円を封筒から取り出し、しゃがんだまま猫に見せた。猫の前で一万円札をつまんでひらひら振ってみたのだ。猫は最初の一瞬その一万円札を目で追って、次の瞬間、興味もなさそうに目を閉じた。そして、わたしは猫に言った。


あのね、お前にはわからないんだろうけどね、これはね、千円札が十枚っていう意味でね、そして五百円玉が二十枚っていう意味でね、そして百円玉が百枚。そういう意味なの。百円玉が何個かほしいっていうのなら、少し分けてあげてもいいわよ。

 あのね、人間ってお金がないと生きていけないの。ないとね、すごく寂しくなるものなの。人間はね、一見無駄に思えるものでも、買うべき時ってあるの。例えばね、このワンピース、どうしてわたしが今日これを着ているのかはよくわからないんだけど、変だけどね、そうなの。わからない。もしかしたらわたしはこのワンピースを買う必要がなかったっていう可能性だってあるの。っていうか、その可能性はとっても高い。けれどわたしの想像だけど、このつるつるした生地と、ヘンリーネック、グレー、7分袖で丈がミドル。それを気に入って買ったんだって思う。確かにね、このワンピースは生きていくうえでどうしても必要なものっていうわけじゃない。でもね、それが人間の意味なの。

 お前にはわからないかもしれないけど、人間には精神世界っていうものがあってね、時に面白かったり、つまらなかったり、時に幸福だったり、不幸だったり、時に悲しかったり、さみしかったり、そういうね、考える葦なのよ。座っていても立っていても、歩いていても、お風呂に入っていても、人間は考えるの。精神世界がないなら生きていけないの。ご飯を食べても、睡眠を十分にとってもね。この一万円はね、生きるためにあるの。人間が生きるため。ご飯も食べるしコーヒーも飲む。そしてその他を精神世界のために使うのよ。精神世界を勘定に入れない家計簿なんて、無茶な相談なのよ。人間っていうのはね、とても豊かなものなのよ。わかった?


 猫は目を閉じじっとしている。きちんと聞いたのだろうか? そうはいっても猫は日本語に堪能ではないだろう。この猫に名前はあるのだろうか?もしないとすれば、メロと名付けようか、そんなことを思ってみる。そしてバッグから財布を取り出してその中に一万円札を入れた。私たちの背後には、セブンイレブンの雑誌のコーナーがある。角を曲がってその先にセブンイレブンの入口がある。わたしは少しお腹が空いてきたような気もした。はっきりとは言えないが、記憶の中では何も食べていないし、食べたいとも思わなかったし、食事にたいして「食べるべきだ」というような気持ちを抱かなかった。そして眠いとも思わない。

 そしてしつこく歩いて回ってやっと得た一万円の収入だが、よく考えるとそれはサンクスのガムシロとミルクの入ったアイスコーヒーで代用できていたような気もする。そうだ、セブンのアイスコーヒー。氷は溶けるだろうか? それとも溶けないだろうか?私は立ち上がり足のしびれを我慢して、店内に入った。とても明るかったが、それは終わりに向かう明るさでもないし、最後の力を振り絞って照らしているような明るさでもなかった。ただ明るかった。店員になぜこんなに明るいのかと聞いてみても、おそらく「よく分かりません。本部に問い合わせてみます」と言うだけだろう。消費という健康。セブンは健康だった。それだけの話だろう。コンビニで消費しないで生きていたら、現代の人間はきっと病気になってしまう。わたしはアイスコーヒーを買い、一万円札を出した。そしてお釣りを財布に入れて、コーヒーのマシンに向かう。アイスコーヒーM、ガムシロとミルクも入れた。そして蓋をし、振って、ストローを刺しセブンの入口のわきにある灰皿のそばでコーヒーをゆっくり飲んだ。やっぱり最初に飲んだサンクスのアイスコーヒーを飲んだ時のような、ドキッとするような驚きと覚醒はなかった。それはもうすでに少しの思いでや、様々なつながりで、脳のどこかが覚醒してるのだろうと思った。そしてタバコを一本吸った。そしてふと思い出した。「マヤ」のママが言った。この世界で働こうと思うのなら、セブンスターではだめよ。

 様々なつながり。それを人はつながっているっていう風に言わないのかもしれない。けどわたしは思う。一瞬つながった。そして一見切れた。でも軽くてしなやかで、なかなか切れない糸で切れたと思った後もつながっている。今日経験した様々から得た考えだ。もし永遠に再会がないとしてもだ。

 そして今鍵がないからと言ってどうだっていうんだ、っていう気持ちにもなっているし、戻るとか帰るとか思い出すとか、そんなことすらどうでもいいような気がしている。それでも心の奥を探れば、基本的な不安や恐怖は、しぶとくはがれていかない。それはさっき考えていたこととは少し違う。なにか根源的な孤独がそこには存在しているように思えるのだ。けれどそれを心の中に大きく占めようとも思わない。大きく占めてしまえば、とても苦しいし、不安や恐怖はそのスペースに応じて正比例するかもしれないからだ。ついさっき起きた出来事を心の中に大事に閉まって、大切にする。それだけで生きていけるような気がするのだ。わたしは宇宙に向かうあの電車から降りたけれど、また乗るっていう選択肢もある。そしてそれに乗る以上、いろんなものを放棄しなければならない。働いたせいなのだろうか。わたしは放棄したくなかった。いくら心地よく、干渉しあったり傷つけあったりということが、まったくない電車であってもだ。少年の話を思い出す。革命家の話だ。何度捕まって、かゆくなるモンゴルのバターを全身に塗られても、また安物のスウェットを着て、一000円の時計をはめる。真の革命家であって、そして革命のリーダーだ。彼ら彼女らは、諦めないのだろう。そして繰り返し、繰り返し、いくら悶絶してもまた繰り返し、放棄しないのだ。それはそこに必ず確信があるからだ。他の誰かが見て、滑稽な確信であっても、それはそれでいいし、説明している暇などないのだ。

 彼らの思想の神髄は「金持ちのマーク」を否定するということなんだと思う。豪邸やカウンタックを所有し、金持ちであるというマークを「ださい」とか「古い」などと思うのだろう。どこに金持ちのマークもなく、服装であったら、自分なりのオシャレをし、持っているバッグがシャネルでなくてもいいはずだということだ。けれどわたしの勘が言う。なにかを言う。

 猫の隣にしゃがんだまま考える。革命は成功するだろうか。革命とはいつの時代も新旧の対立だ。保守派とリベラルな人たち。成功するのだから、「革命が起きた」と呼べるのだ。

 大きな声。大きな声っていうのは、それだけで意味がある。誰かが最初に大声を出さなければならない。この駅に降りてまだ一日も経っていない。けれどこの駅のロータリーにあるベンチに腰掛けていると、何か人々がじりじりと汗をかきながら、待っているように見える。きっと何を待っているのかというと、その瞬間なんだろう。誰かが大声で叫ぶ瞬間。

 そしてその革命の意味が、わたしには今一歩理解できない。新しい、とは思う。けれどそれが間違っているとか正しいとか、そんな判断はわたしにはできない。ただ、豪邸やカウンタックの金持ちマークを外せとリベラル派が言っても、それでも豪邸やカウンタックがとても好きな人だっているだろう。リベラル派は豪邸やカウンタックを否定しているわけではないのだろうけど、そうは言ってもカウンタックに乗っていれば、「ださい」とか「古い」とか言われてしまうのだろう。その矛盾はどう解決するのだろう。それはわたしにはとても難しいことのように思えるのだが。

 お金がないとさみしいと猫に言ったが、わたしは今、財産っていうもののありがたさを知ったような気がする。千五百円ではなく一万円入っている財布の方が、はるかに心を健康にするし、疲れにくくするのだ。お金がある人はもしかしたら、明日着る服を寝室のどこかに畳んで置いておくかもしれない。お金がない人はそんなことをしようと考え付きもせず、翌日タンスやクローゼットを覗く。どうしてかというとお金のある人は「豊か」とは言えないかもしれないが、「豊富」だから、余裕があるのだ。だから生活をとても丁寧に扱うことができる。けれどお金のない人は、もやしの入った味噌汁を食べた後に、そんな風に丁寧に生活することができない。だいたいもやしの味噌汁だって、丁寧に作れないのだ。そんな風に人間の営みは案外お金に左右される。余裕っていうことなのだろうか? それとは違う気がする。お金がない人と表現したが、それは少し言い過ぎで、中間の層の人たちのことだ。つまり「マヤ」のママが言う「普通」だ。普通であれば欲しがらない。そうなのだろう。でも豊富にお金を持っている人と普通にお金を持っている人、それ以外の貧困な人。彼らは欲しがるだろう。どうしてかというと、手に入れられないからだ。ネットオークションを開き、ウォッチリストに入れ、何回も何回も回っていくそのコートが、値下げされるのを待っている。そしてお金を持っている人よりも、普通な人よりも、欲しがるけれど、手に入れることのできるタイミングをうかがって、毎日メールをチェックする。コンビニに行く回数が多い。そしてホットスナックを食べる。日本の貧困とはそういうものだ。貧困な人たちは豪邸やカウンタックをどう思うのだろうか? 羨望の余り憎むのだろうか。いや、そうじゃない。貧困な人たちこそ豪邸やカウンタックに敏感なのだ。それは先に言ったように、手に入らない。多分一生。「俺の育ちじゃなあ」。そうやって豪邸を見上げ窓の飾りに憧れ、玄関のポーチにおかれた花々を見て、カウンタックが通れば目で追い、そしてカウンタックのたてるエンジンの音にいつまでも耳を澄ませる。

 本当に革命は成功するのだろうか?

 猫のメロに聞いてみる。

「わたしはこう分析するのだけど、本当に革命は成功するのかしらね?」

メロは一回私の方を向いたけれど、足を折って目を閉じた。

 確かに少しお腹が空いた。多分お酒を飲んだせいもあると思う。けれどこのあたりには、この時間に、女性が一人で食事をできる場所などありそうにない。しかもこの野良猫のメロと別れがたい気もした。サンドイッチかなにか食べておこうと思って、セブンの店内に入った。サンドイッチのコーナーで迷っていると、それは二四時間営業だからではないかと思えた。朝も昼も夜もあるようでない、そうしてただ過ぎていく時間。店員は時間が来たら、そこを離れるのだろうし、確かに時間は流れている。けれど客としてふらりと、なんとなくふらりとコンビニを訪れたとき、その時間の流れは止まってしまう。もちろん仕事前の朝ごはんを急いで買わなければならない労働者には当てはまらないが。とても明るい店内と、流れていかない時間。それがコンビニの本質じゃないかと思う。わたしはぼんやりとサンドイッチを見ていたが、卵サンドが二つ入っているサンドイッチに決めた。そしてレジに向かうとホットスナックがある。唐揚げを注文した。なに、メロと一緒に食事をしたかっただけだ。食事は一人よりも誰かと一緒の方がおいしい。なぜかそんなことを覚えている。まるで前世の記憶がよみがえったように、そう思える。以前の私にとって、それはとても重要なことだったんだろう。今もとても大切に思えるのだから。

 唐揚げとサンドイッチをもって猫の元へ行った。相変わらずな野良猫だ。にゃあとも言わない。「お帰り」という意味を込めて、「にゃあ」くらい言えばいいのにと思う。私たちは道は暗く、けれど背後からとても明るいセブンイレブンの明かりのもとにいる。それはなんだか、夕方の八百屋みたいだ。その八百屋は少し高級で、駅のそばにある。八百屋の赤いテントの屋根には等間隔で白熱灯があって、それが箱に入ったメロンとか、様々な色の果物や野菜を照らしている。それはむしろ芸術的と言いたいほどだ。そんな八百屋の前を通り過ぎるとき、ある人はグレープフルーツを買い、ある人はスイカを買う。そして大根と白菜を買う人もいるだろう。そして何も買うつもりがない人もしばし、その店の前で足を止め、その温かい懐かしい灯りに照らされた、美しく並べられたフルーツや野菜に見入るだろう。だってそれは「郷愁」という名の芸術作品だからだ。

 そして私と野良猫メロは美しく芸術的に人の目に映っているだろうかと考える。道路が暗いせいで正規品ではないような、そんな灯りに照らされたわたしのワンピースのつるつるした生地はどう映るのだろう。パールのチョーカーは? そしてメロ。赤い郵便ポストの上に置いたらなんだかおもしろい絵になりそうな、そんな動かないし鳴かない猫のメロ。あっちから見えればなと思う。今日ずっと思っていた。あっちから見てみたい。それができればなあって思う。今の私にクリアに見えることが無理だとしても、あっちから見ることができればいろんなことが解決したり、くすっと笑ったり、微笑んだりできるような気がするのだ。

 牛乳を飲みながらサンドイッチを食べた。メロは一回私の方を見たが、それだけだった。唐揚げを後回しにしたのは、わたしとメロがネコゆえ猫舌のためで、サンドイッチのゴミを捨てに行ってからおもむろに唐揚げの封を開けた。まずわたしが先に一つを口に放り込む。さほどおいしいわけでもないけれど、特別にまずいっていうわけでもない。少年に「二番目になにか好きか」と問われたとき、付け足すように「唐揚げも好き」と言ったが、今、それはウソだったんじゃないかと思える。別にそれほどおいしいとも思わない。そしてやっぱり最初に言った、クリームソーダの半分アイスが溶けて少し白濁したやつと、アイスアーモンドオーレが二番手で好きだっていうのは本当だって気がする。タピオカ入りのアイスラテもクリームソーダもアイスアーモンドオーレもきっと何かの記憶や経験につながっている。けれど今はそれを思い出せないし、それを思い出せないことが今の現実に支障をきたすわけでもない。でも本当は思い出したかった。そこには私を連れ戻してくれそうな固い郷愁があるような気がしたからだ。その郷愁さえ思いだせれば戻ることも出来る。けれど、そう言っても今の現実には郷愁なんて関係のないことだ。切れたような気がしてもつながっている思い出も今日一日で増えたし、これからも増えていくんだって思う。宇宙に向かうあの電車に乗るのは一番最後の選択肢だ。それしか残っていなかったらそうするだろう。あの場所ではつながらない。そしてその中にいたとき、わたしはなぜかさみしくなかった。ロータリーの喧騒をどうも思わなかったけれど、あの電車の静けさも心地よかった。そしてつながりえないっていうことがむしろ心地よかった。

 それは今日、電車から降りた方が豊かにはなった。忘れてしまっている昔学んだ何かと、今日学んださまざまを、合わせて行動できた。わたしはそれをゆっくりと丁寧にやったし、その結果財布には一万円以上のわたしの財産が入っている。そしてわたしは今日から始まった。そしてママの言う通り、今のわたしには枯渇はないし、それによる情熱もない。情熱をもって手に入れたいなにかも特にない。それは現在のわたしなのだろうか? それともそういう存在だったのだろうか。ママは普通と言っていた。普通。わたしはもともと普通だったのかもしれない。

 そして財布には一万円以上のわたしの財産が入っていると思ったとき突然眠気がさした。


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