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HAPPY END  作者: 多奈部ラヴィル
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冒険へ

今日はお客さんを連れてきてくれて、ありがとうね。でもあなたって、とっても話術がうまいのね。村上さんたち、あなたのことすごく気に入ったみたいよ。今度の金曜日、村上さんがあなたとアフターするって張り切ってたわ。もちろん、それはあなたに任せるけれど。あなたはきっとこの業界でやっていけるでしょうね。バイト感覚でいつまでも続けられるのならね。

 ただ、わたしは正直に言ってしまうと、あなたが嫌いよ。近くを見ているのか、それともはるか遠くを見ているのかよく分からないその目。こういう世界にはね、モデルになりたいとか、女優を目指してるとか、そういう目標や憧れを持って働く人が多いの。多分あなたにはそれがないのでしょう? そしていつかリビングの広いマンションに住みたいとか、いい車が欲しいとか、ちょっと今は手に入らない、アクセサリーが欲しいとかね、時計だってそうね。そういう女性が働いて輝く場所なの。あなたはいつかなにかになれると思っているの?

 

 私は黙ってしまうしかなかった。なにかになれる。そんなことは皆目見当もつかない。今なりたいなにかはというと、はっきり言えるのは「そんなものなにもない」ということだ。

「小説家です」

わたしは小説を読むのは多分好きだと思うが、小説を書いたことなど、多分ない。

 「そうなの。では働いたお金で生活しながら、小説を書いていくっていうわけなの?」

正直に言ってしまえば、「そのお金でセブンスターを買うつもりです」だ。今の小説家とか生活費とかそんなものウソだ。多分ウソだ。

「明日は来れるの?」

「いえ、明日はちょっと」

ママはとても勘がいい。わたしの即興のウソも見抜いているし、「明日はちょっと」と言う言葉に、もうこの子は来ないとわかってしまったようだった。そしてママは付け加えた。


さくらちゃんカスミモちゃんも、懸命にダイエットしているのよ。でもね、枯渇するの。枯渇して食べてしまうの。お酒を飲んで家についても、ポテトチップスを一袋食べてしまうの。なにかに枯渇している人、わたしはそういう人じゃなきゃ好きになれないし、そういう人と働きたいの。どうしてかっていうと、そういう人には情熱があるからなの。あなたは本当に情熱がないように私には見える。二十七歳だっけ? その二十七年間に、欲しいものや憧れに向けて、情熱を使い果たすほど頑張った経験はあるの?


わたしはなにを言ってもウソになるし、ウソになればママにはわかってしまうから、悩んだ挙句、黙ってしまった。


 普通よ。今の世の中を生きていたら、なにかに情熱をもつっていうのは、珍しいことよ。普通の家庭に生まれて普通に育ったら、大抵のものが手に入るし、普通から逸脱するほどのものを欲しがらないわ。そして目指す目標も幼い頃にAKBに入ってみたいと思っても、成長すれば普通から逸脱した存在に憧れることもフェードアウトしてしまう。そして銀行員になるのよ。普通っていう思想。私は大嫌いなの。「ぼちぼち」とか「適当に」っていう言葉も嫌い。好きな人がもしそれを言ったら、わたしは心がすーっと冷めてしまう。

正直言うとね、わたしあなたがわからない。それはあなたがあなたをわかっていないからじゃないかしら。

 

店を出るとママが、私たちこっちで飲みなおすからと言って駅とは反対の方向に歩き出した。ママはバツイチらしい。子供もいない。ママは家族を守る父親のようにさくらさんとカスミさんをかばうように歩き、さくらさんと、カスミさんは私の方を困ったような顔をしてチラチラふりかえっていた。


 そうはいってもわたしは疎外感を感じざるを得なかった。さっきまで同じテーブルで、お酒を飲み、ともに笑った人たち。一緒にタバコを吸い、男性の接客をともにした人たち。さくらさんとカスミさんもきっと何かがわからないって思いながら、ママの隣を歩いているのだろう。ママは私をお酒に誘わなかった理由をさくらさんやカスミさんに話すだろうか。いや、多分話さない。それはきっとそれほどめずらしい話ではないせいかもしれないし、さくらさんやカスミさんもその理由をママに聞くことは多分ない。あのアーチのように連なる、優しい照明。それが照らすのはそれほど優しくはなかったけれど、わたしが傷ついたかといえばそうではないし、ただ「そのもの」を照らしていただけだ。その「そのもの」っていうのは、そこに限定された物事ではなく、生活するっていうことに付随する「そのもの」、それだけに過ぎない。これだけが心に少し残る。お金を得るのは難しい。そういったフィリピーナを懐かしいと思ってしまう

 懐かしい? そう懐かしい。わたしは今日以外の思い出を持っていない。だから今日あった出来事、人、風景を懐かしいと心にしまって温めておこうとする。もし私に何も懐かしいと思えなければ、今何をしていただろうか? 多分マンションのゴミ置き場にライターで火をつけていただろう。そして思い出があるのに懐かしいと思えるのがほんのちょっとで、だいたいの思い出が唾棄するべきものであるならば、人を無差別に殺したりするんじゃないだろうか。

 多くを懐かしむことができなくてもいいのだ。ただはじめと、それからポツポツと懐かしいと大事にしまっておくことができれば、たいてい人は生きられる。きっと草いきれの香りの記憶や、トンボ、カブトムシを捕まえたことがなくてもだ。

 懐かしい記憶を得て、悲しいことも知った。懐かしいものは今はここにない。終わってしまった事々だ。


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