冒険へ
もう十一時だ。早く働かなければ、と思う。さっき、ベンチに戻った時、私が置いた場所に、FrancFrancの鏡は置いてあった。働いた後また、ベンチに戻れば鏡を拾って、電車に乗ろうと思った。そのまま鏡は置いてある。
星が見える。たいしてたくさんの星は見えないが、かろうじて少しの星たちは見える。鏡は約束にはならないが、星たちは天気に左右されても、必ず約束を守る。ベンチに置かれた鏡はそんな性質をもっていない。けれどアイスコーヒーの味をもう忘れつつある今、確かな約束など私は全くしたくないって思う。約束があれば、それに向けて準備をし、脱いだパジャマを畳まなければならず、そしてしまわなければならない。そういうことが今のわたしにはできそうに思えない。その約束が時間をともなうものだったら、きっとバスや電車の時間を調べて、そして着替えて床に座ってうつむき、じっとしていることしかできないんじゃないかって思う。帽子までかぶったというのに。冬であればダウンまで着こんだというのに。そしてバスや電車に乗る時間が近づけば、わたしはきっと煙草に火をつけてしまうだろう。乗るべきバスや電車を、そんなことを繰り返して乗ることができず、結局約束は約束ではなくなってしまう。
コンコースをぐるっと一周し、あの隊列が進んでいった道に入ってみた。焼き鳥屋や、焼肉屋がある。時々ハングルが耳に入る。英語ではない、ほかの他国の言葉も聞こえる。その路地をやり過ごし、もう一本の路地に入ってみた。そこには喫茶店やマッサージ店もあったが、スナックが多く入っていた。路地の上にはアーチ状の暖かい光の照明が何本も伸びていて、路地に入った瞬間、別の世界に足を踏み入れたような気分になった。例えばあの世であるとか、違う星であるとか。そしてその見た目の雰囲気は、どうしてなのか私が乗っていた宇宙に向かうあの電車の中に似ていた。人はみな干渉もしなければ、傷つけもしない。何かを失ったり、諦めたりした人たちが構成する電車。そして最終的に放棄してしまった人たちは終点もない電車に揺られているだけなのだ。わたしが乗っていた車両にはいなかったが、おそらくリストカットをしてタオルを手首に巻く少女だって乗っていたはずだ。リストカットの後は、大声で泣いてしまった後の安堵感とよく似ている。少女はきっと、電車の揺れに身体を任せ、ぼんやりと座っているのだ。そしてその少女はいつまでもいつまでもそうしているはずだ。どこで降りようなんてタイミングも計らずに。
アーチ状に続く照明は、とても温かい色で、まったく電車に似ていなかったのに、なぜかそう思うのだ。
そして宇宙の果てまでこの電車に乗っていようと考える人たちと違って、何か大事なものを忘れてしまったけれど、けれどとても上昇志向が強い、そういう人たちがそこにはいた。そして路地に何件のスナックがあるか、数えようとして路地を行ったり来たりしている私に、マッサージ店の前に立つフィリピン人が、私に何かを話しかけたが、わたしはアクションでわからないっていう意味を伝えた。するとそのフィリピーナは
「おねえさん、おかね、ほしい?」
と尋ねてきたので
「もちろん欲しい」
と答えた。するとそのフィリピーナは、
「かんたんに、おかね、もらえないね」
と言うので
「ありがとう。わたしもそう思う」
と答えたら、フィリピーナはメンソールの細いタバコに火をつけた。身体にピッタリとフィットするゴム製の黒い服を着ていた。
スナックは5件あった。どれも小さなスナックで、たいていドアからカラオケの音が漏れてくる。多くは演歌だったり、デュエットだったりしたが、中にはミスチルの曲が漏れてくるスナックもあった。
けれどお金がもらえるならどこでもいいはずだが、五件のスナックのうちどういう基準でスナックを選べばいいのかわからなかった。そんなことを言っていてもどのスナックでも採用されないっていう可能性だってある。
わたしは一回その近所にあるセブンイレブンに行った。そういえば記憶の中では、今日私は一回も鏡を見ていないって言うことに気づいたのだ。だいたいわたしはメイクをしているのだろうか? それすらわからない。そしてセブンのトイレに入り、鏡を見た。黒いアイラインと、ブラウンのシャドー、マスカラ、チーク、っていうメイクはしてあった。そこには変な顔が写っていた。性的に変態な人の顔ってこんな風なのだろうか、とまで思えるような顔だ。目だ。目が垂れ下がっている。そして今にもよだれをたらしそうに、口元がだらしなく開いている。きちんと口を閉じようとしても、閉じることができない。口角に泡が付いている。この顔を少年は、飼っていたメス猫メロに似ていると言っていた。この顔のどこが猫に似ているのだろう。不思議に思った。わたしにはただの変態の二十七歳に見えるのだが。
そしてバッグから口紅を出す。ディオールのピンク。慎重に口紅を塗り、もう一回鏡を見た。すると見たことのある顔が写っている。これが私の顔だって思う。確かにネコに似ているといえば似ているような気もする。そして手を洗った。緑色の液体のソープを使いながら、懸命に洗っていたら、一生手を洗っていられたらな、などと不思議な感情が湧いてきた。私は大量に緑色のソープを使った。何度も手で押し、たっぷりと手のひらにため、そしてごしごしと手を洗う。そしてまたソープをため………それを繰り返していたら、トイレをノックする人がいた。終わったのだ。溜息のようなものしか出ない。それでも、わたしは手を丁寧に流し、ペーパー2枚を使って手を拭き、鏡に向かって
「メロちゃん」
と声をかけた。メロちゃんは何も言わない。そして心の内で、「メロちゃん頑張るね」と再度声をかけた。わたしはメロちゃんに会ったことがない。顔も知らない。わたしに顔が似ていて、とらネコ。メス。それだけの情報が私にあるだけだから、わたしは鏡に映る自分に「メロちゃん」と声をかけ、私に「メロちゃん頑張るね」と言ったに過ぎない。トイレという個室で独り言を言っただけだ。
路地に戻る。結局セブンから戻りながら考えたスナックへの飛び込みは、ドアのデザインが好きな順にしようと決めた。スナックの玄関前に立ち、ドアを眺めるのだが、どれも大差のないデザインだ。木製で取っ手が金属。四角い大きな格子のデザイン。もう十一時になる。早くしなければと、突然時間間隔が戻った。時間間隔が大幅に狂いだしたのは、この駅に着いてからで、さらにあの少年と言葉を交わしてからだ。でももしかしたら、宇宙に向かうあの電車に乗っていた時からかもしれないし、もしかしたら初めから私に時間間隔なんてなかったのかもしれない、と思ったとき、何かとても不愉快なこと、例えば何かひどい犯罪をおかしたり、友人を裏切ったり、そういうことを思い出しそうになって、気分が悪くなった。その後もそうした空中に浮かぶような不安感は消えず、さっさとホステスになり、さっさとお酒を飲みたかった。
一軒目のお店に入るとそこのママが「あら、いらっしゃいませ」とにこやかな表情で迎えてくれて、私が客ではなく、女性であるとわかった途端、その笑顔は瞬時に消えた。そういうものなのだろう。わたしは、「今夜体験入店させていただきたくて」と言うと、ママは、なんて非常識なんだろうっていう顔をして、でも案外優しく諭すのだ。
「あなたね、今日は金曜日じゃないし、祝日前でもないの。明日も休日じゃない平日の木曜日よ。そんな日にね、十一時過ぎから働いてもらっても、ちょっと困るのよ。今夜は一時には店を閉めるわ。ここら辺のスナックは多分みんなそうよ。そしてね、一本電話をくれて七時に来てもらえれば、女の子の調整もできるわ。でもね、明日が休日でもない平日の水曜の十一時に来てもらっても、どうしようもないの。ごめんなさいね」
それはそうだな、とわたしだって思う。しょうがない、けれどお金は欲しい。じゃあ、どうすればいいのだろう? そして一軒目のママの言う通り、今日は店は一時に閉めるのだろう。あと2時間しかない。それから2二件のスナックを回ったが、初めに高い声で「あら、いらっしゃいませ」と言って、わたしを見て迷惑そうな顔をして、そして、一件目のママと同じような内容のことを言って、最後に「ごめんんなさいね」と言って、ウーロン茶一つださないっていうのは、同じだった。けれどどうしても諦めきれず、自分がそういう行動をとるとか、諦めないでやるとか、そういう性格の傾向を初めて知ったような気がしたし、なぜかどうしても、どうしても、スナックで働きたかった。
四件目のスナックで玄関の前で立ち尽くしていたら、それは多分、落胆しか待っていないのだろうなという経験から、ドアを開ける勇気を出すための時間を少し必要としたからで、そうしていたら、後ろから男性の三人組がやってきた。
「君、新しい子?」
と聞かれ、
「違うんです。今日から働きたいなって思ってるだけなんです」
と答えると、その三人組は、もう少し酔ってはいたけれど、
「気に入った。かわいいしスタイルもいい。大丈夫大丈夫、俺たちが何とかしてやるよ」と言って、わたしを取り囲むように、店に入った。
その人たちはこのスナック「マヤ」の常連らしく、ママも「あらあ、いらっしゃい、待ってたわよ」と高い声で応じ、そして私の存在を客なのかそうじゃないのか判断がつきかねるっていう風に見ている。その常連客のうちの村上さんが代表してママに説明をしている。
俺はね、ママ、この店の雰囲気も好きだし、ママやさくらちゃんやカスミちゃんも好きだけど、でもね、デブ率が高いんだよ。マヤは。この子を入れろよ。礼儀も知ってるし、きちんとした子だよ。ワンピースもヒールもバッグも、ほら、センスがいいだろう?そのネックレスもね。このままの格好で働いてもいいくらいじゃない。もう何年もここに通ってるけどさ、みんなちょっとずつ太っていっていることに、常連なら気づいているぜ。そこでこの子の投入っていうわけ。いきなりデブ率が下がるだろう?俺はこの店に惰性で通っちゃってるけど、俺は自分がデブ専なのかって仕事の休憩中に考えてしまうこともあるほどなんだ。そのうちさ、常連客みんなが自問自答しだすぜ。「俺はデブ専なんだろうか?いやそんなはずはない」。そうしたら客がみんな離れてしまうだろう?俺はその秘策を今夜お土産に持ってきたってわけだよ。つまりマヤで働きたいんだって。今日から。今日の給料は俺たちが出すよ。テーブルにはこの子をつけてよね。一応同伴だってことにして、指名量も払うよ。悪くないだろう?
ママは三人の常連客には歯を見せ笑っていたが、わたしの方を見て束の間嫌そうな顔をした。わたしにはそれがどうしてなのかわからなかった。給料もその常連客が払ってくれるらしいし、しかも同伴や指名料が発生するのだ。ママにとっても悪い話じゃないはずだ。
私とママがその常連客に付いた。村上さんは「働きたいんだって、今日から」と言ったが、わたしにはそんなつもりがないのだ。だって歯ブラシだって持っていない。ただ今日働いて今日お給料がもらいたいって言う風にいつの間にか決めてしまっていただけだ。そこにはたいして理由がなかった。もしかしたら何も理由などなかったと言ってもいいのかもしれない。
ただ電車に乗っていた。なにか理由をつけて乗っていた。それを否定して乗り換えた。それを繰り返すうちに、どんな理由もすり切れてしまい、すり切れない理由として考えられたのは、「お金」だったのだ。つまりセブンスターが2個買えて八十円のおつりがくるという意味はとてもリアルで私と現実をつなぐ糸のように思えた。そして電車の中で思ったお金の得方は、「働く」ということだった。そして身をやつすなんてことも考えなかったし、それは今日一日だけっていう理由かもしれないが、そうやってここまで来た。けれどただ一点わからないことがある。少年がくれると言っていた一万円をなぜ受け取らなかったのかという点だ。今になってもよくわからない。一万円を渡されて、それを「馬鹿にしないでよ」なんて言って受け取らないほど、わたしは古風ではない気がする。それじゃあ、何故なのだろう。
村上さんがママに縷々と説明している間に、私は少年のイメージから離れられなかった。一0代に見えるのに24歳。少年と言っては申し訳ないのかもしれない。青年。けれど私の中ではどうしても「少年」と呼びたかった。
少年の手のひらが、素肌のわたしの背中に触れる。わたしは匂いを嗅ごうと少年の首筋に顔を近づけ、耳の下のあたりの匂いを嗅ぎ、そして首筋に唇をつける。少年の肌は白い。少年の不釣り合いな大きくて柔らかい手が、髪の毛を撫でる。そして私の前髪を分けておでこに唇をつけ、ほほに、首筋にと唇は下がっていく。そして前からずっとそうしたかったという感情をお互いに伝え合うようにキスをする。
我に返ると私はお酒を作っていた。ウイスキーだ。マドラーでかき回し、ハンカチでグラスを拭いて客に渡す。さっきママが言っていた通りにしただけだ。そしてタバコが一本でもたまれば灰皿を交換し、客がタバコを取り出せばすかさず火をつける。今日一日の仕事だ。そんなに神経質になることもないだろう。わたしは改めて周囲を見回した。黒いテーブルが三つ。壁にはビロード地のワイン色のバラが描かれた布地が貼ってある。一角の壁に、富士山が描かれた風景画が飾られている。そういい絵だとは思えない。それならばさっき見た夜のロータリーのパチンコ屋や、カラオケや、そういった風景画の方が、いいんじゃないかと思える。
確かにママもさくらさんカスミさんも太っていた。ママはドレス、さくらさんとカスミさんはスーツを着ている。そして何がそんなにおかしいのかよく笑っているし、身体をゆすったりもしている。みなバストが大きいが、それを強調するような服を着ていない。
私は二時間お酒を飲んでいられるのだから、と割り切ってしまうと、気が楽になるのか、いくらでも男性たちの冗談に応じられたし、私もいくらでも言えた。わたしはいつの間にか座の中心となり、いくらでも笑いいくらでも冗談を言い、そしてママが私に教えながら客のタバコに火をつけていた。村上さんは、
「なあ、俺、お手柄だろ。いい子を連れてきたろう? できないことがあるのは、最初は当たり前なんだから大目に見てやってくれよ。きちんと礼儀を守りながら冗談が言えるっていうのは結構大変だってこと、ママはよく知ってるよな。ほらキャバクラの冗談は礼儀がないだろう? そしてさ、この子はまだ素人なんだよ。プロももちろんリスペクトするんだけどさ、こういう素人っていう雰囲気、俺は好みだな」
ママはあいまいに笑っている。
「これからスパルタに教育しますからね」
とママが言うと、村上さんたちも笑い、わたしが
「お手柔らかにお願いします」
と言うと、また、村上さんたちは笑った。隣の席でも笑いが起こり、さくらさんが、わたしに向かって微笑み、
「大丈夫。ママは優しいから」
と言う。
徐々に酒に満たされ、わたしはふと
「ここは、どこだ?」
と思う。そういえばセブンの鏡に最初変態みたいな顔が写り、次に少年の言うメロと言うネス猫の顔が映った。そしてピンクの口紅を塗ったけれど、もう落ちてしまっているだろう。それを中座して直すべきなのかそのままでいいのか、ママは教えてくれなかった。そしてどんどん意識は拡散していくのに、なににもつながるものがない。さっき少年をイメージしたけれど、今現在の拡散した意識には少年はいない。ただ一つ、イメージ広がっていく。お酒が進むごとにどんどん広がっていくそのイメージは、震災後の土地のイメージだ。わたしの中ではそれは宝の山だった。けれどその宝の山は買い手がいたり、売値が付くような宝物ではなかった。固有の宝物。確かに宝の山なのに、体力を奪われた人たちはそれに無関心だった。だからそれを「ゴミの山」と表現する人が大抵だった。震災後、ボランティアで歌を歌いに行ったミュージシャンはそれを見ても宝の山にもゴミの山にも見えなかった。ただ「大変そうだな」と思っただけだった。つまりその宝の山にもゴミの山にも見えるその光景に意味などないと、ミュージシャンは思ったのだ。そして悪臭。宝なのかゴミなのか。それとともにセットで悪臭が充満している。
そして徐々に桜が咲くような明るい空の下でスリッパを選んでいるようなイメージが湧いてきた。値段は書いていない。今日お給料をもらったらスリッパを買おうかとも思ったが、やはりそれは違うと思った。それはイメージの中で値段がついていないせいだった。セブンスターが最もわかりやすくて、簡単だ。
そうしてさくらさんとカスミさんが付いていた客も村上さんたち三人も帰り、一時に店を閉めた。さくらさんやカスミさんが着替えながら、これからもよろしくねと笑顔で言ってくれた。多少申し訳ない気持ちになる。でも「明日からは来ないので」とは言えなかった。
店を閉めグラスなどを洗い、テーブルを拭くと、ママがタバコを吸いながら、わたしに封筒を渡す。お給料だ。さくらさんとカスミさんはバッグルームにいて、客席にいるのはママとわたしだけだ。ウーロン茶を飲みながら、ママは言う。客たちはみな帰った後だ。店内のすべての照明がつけられてはいるが、それほど厳しくもないし、吹きっさらしでもない。深夜にすっぴんでコンビニに行くっていう程度の後ろめたさくらいしかない。