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HAPPY END  作者: 多奈部ラヴィル
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冒険へ

頭の悪い女だと言っているような気がしのだ。そしてやかんの注ぎ口を開けっ放しにするようにし、翌日ティファールをドンキで買った。ティファールのポットはすぐにお湯が沸くのも魅力だが、それよりもママが気に入ったのは、お湯が沸いたサインを何によっても示さなかったせいだ、ただ、カチッとボタンが切り替わる音がする。それもとても小さい。ママはこんなにも先進性のあるポットがあったのかと、最初に使った時感動した。ティファールは無口だった。そして公平な機械に感じられた。ママはふと「もしかしたらわたしはティファールの先先進性に感心して思わず電車に乗ってしまったのかもしれないな」と少し思った。でもそんなはずはないだろうと否定もする。

 

わたしの毎日っていうのは、子供が風邪を引かない限り、いつも同じ毎日が続く。もちろんそれは安心につながる。今日も安心で明日も明後日も安心で、多分遠い未来も安心なんだろうと思ったときに、少しの不安定さを求めるのは間違っているのだろうか。いつも飲んでいるビールではなくって、もっと強いお酒をゆっくり飲むとか、たまにはそんなことがあってもいい。

けれど、このボーダーのカットソーが着心地がよく、そんな険しくない格好でこんな風に宇宙へ行く電車に揺られるのは、とても心地いいな。そしてずっと乗っていたいとも思う。終点はないらしいけど、いつまでもこうして揺られていたい。わたしの住むマンションにはない静けさが心を落ち着かせる。旅行だろうか。それとも家出? いつかここで死を迎えるのならば、それは失踪?


 営業マンはそんな風に、ママはそんな風に、まだ宇宙行きの電車に乗っているはずだ。二人ともきっと放棄しているのだ。あのワンカップの男性は放棄しなかった。そしてその後を追いかけるように降りた私も放棄しなかった。けれど営業マンとママは何かを捨て、なにかを諦め、そうして身体は軽くなったのだろう。重い荷物を家についておろしたときに感じるような。


 さて、職探しに出かけよう。そう思って煙草とライターをバッグに必死に詰め込んでいるとき、またさっきの少年が自転車に乗って現れた。そして自転車を立て、わたしの前に立つ。

「どう?一万円は得られそう?」

「それが、職をどう探そうかなっていうところなの」

「そうか」

そしてガムを口に入れる。どうやらタバコは吸わないみたいだ。

「君は誰?」

もう十時前だショッピングモールは食事処を除いて暗くなっている。多分十一時まで食事ができるのだろう。店の前に大きな店ごとの看板がかかっている。やはりおいしいですよというマークが広告には必要だ。どれもおいしそうに写っているが、わたしは食欲がなかった。

 もうすぐ十時。暗いが幅はそう狭くはない道を歩いている。そして歩きながら考えてみようと必死になる。わたしは少年がくれるといった一万円を、素直に受け取ればよかったのではないか。どうして断ってしまったのだろう。明日ではない、明後日でもない、遠い未来でもない、今の目標がお金を手に入れることだったはずだ。もし受け取れば、ない明日が目に見えるものになったかもしれなかった。一万を受け取れば、何らかの形でつながるはずで、少年はワンルームに住み、新聞配達をしている。その意味とつながれば明日が多少は確実なものになったのかもしれなかった。

 そしてふと泥の団子を思い出した。家の庭だろうか? 公園だろうか? 幼稚園だろうか? 小学生だろうか? 校庭だろうか? 私は確かに泥で団子を作り続けた。それはとても長い時間を必要とした。誰かに話しかけられることも、話しかけることもなかった。多分一人で泥の団子を作り続けた。なるべく湿った土がいい。なるべくだれもいないところがいい。

身をやつすということ。今からいくらか稼ぐとしたら、水商売くらいしかないと思った。そう、身をやつす。今までのわたしはそんなことを考えたことがあっただろうか? 

あるに決まっていた。そっちの方向へ流れていくということ。それを思う一瞬一瞬は、女性なら必ずあるはずだ。何か大きな環境の変化からではない。なにかとてつもなくつらい出来事があったわけでもない。それでも女性は家に帰って、一人の食事をし、部屋でベッドに横になって、手を子細に見ているときに、ああ、と思うのだ。それは全く特別なことでもないし、わが身をやつそうと思う、それは何故だかわからないけれど、そう思う、そんな瞬間は誰しも味わっている。それを言葉で表現しようとすると、

「わたしなんか、もう、いいや」

という感情だ。一生に一度もこんな風に思わない女性なんているだろうか? 

 けれど私は「身をやつそう」という気分では今はなかった。来た道を引き返す。このまま進んでも歓楽街はなさそうだ。引き返そうとして踵を返し、そして気が付いたことがある。月が気味が悪いほど大きいのだ。月の中のうさぎの餅つきもよく見える。そんな月だ。もしかしたら私は今日こんな月が出るのをはじめから知っていたのではないだろうか。その月に吸い寄せられるよう、手近にあったバッグを持って、外出した。それは月の磁場であって、わたしの意志ではない。それでも今かなり歩いたショッピングモールに沿った道を引き返すには、鼻歌を歌うべきかもしれないし、月に見とれて散歩をすべきかもしれないし、太ってきたなと、ナイロンの上下を着て、ウォーキングすべきかもしれない。どれもできそうにない。わたしは一つ決めた。背筋を伸ばすこと。それだけだ。

 そして来た道を引き返しながら思う。わたしは何故こんなところにいるのだろう。わたしはなにをしたいのだろう。そしてこうも思う。シンプルな話だ。わたしはお金が欲しくて、お金を稼ぐためにここで職を探している。けれどなぜお金が必要なんだろう。そんなもの、タバコを買うためだ、吐き捨てるようにそう思う。

 元のロータリーに出た。またさっきのベンチの、さっき座っていた辺りに座ってみる。そして煙草を取り出す。タバコを吸いながらよく見ると、ロータリーにあるのは、パチンコ屋と居酒屋、キャバクラとコンビニ、吉野屋、焼肉屋,カラオケボックスなどだった。カラオケボックスとキャバクラは、小さなビルの4Fと5Fにそれぞれ入っていて、ビルの入り口にキャバクラ「華月」という店名と、ドレスを着て髪を巻いた女性が微笑んでいる看板が立てかけてあったが、それはどこかで拾った看板を、そこに捨てたとでもいうように、ゴミのように映った。ゴミのような看板に、ダイエットをし、ドレスを着て、必死で髪を巻き、完璧なメイクをして少し斜めに微笑んでいる彼女さえも、とても古く思えたし、その彼女がどうあれ、とても安っぽく見えた。まるでゴミだ。まるで生ごみだ。わたしだってゴミのようなものだけれど、わたしは乾いている。

 タバコにまた火をつける。あの宇宙列車に乗っていた、ベビーカーのママと隣の車両に移ったポールスミスとTAKASHIMAYAの営業マンはどこかの駅で降りたのだろうか。今きっと営業マンは背もたれに寄りかかりながら、目を閉じているはずだ。


スマホはもうとっくにスーツのポケットにしまった。なぜ俺はこんなにたくさんの情報を得なければならないのだろう。なぜこんなにカードがあるのだろう。なぜ必要な情報といらない情報の種差選択を毎日、毎日やらなければならないのだろう。俺はもうとっくにそれに飽きている。うんざりなんだ。飽き飽きしているんだ。そしてこれがずっと続く、それは多分、一生にも近くって、いろんな情報に目を通す。俺は多分、情報などそれほどいらなくて、テレビブロスがあれば、生活に支障はない。働いて家に帰って温かいポトフを食べて、風呂に入ってテレビを見て、眠れればいい。それだけなんだ。そういう毎日っていうのは、なぜか俺は飽きないし、うんざりしないんだ。別に生活のルーティンはきらいじゃないし、むしろ安心していられるし、服を脱いだら、洗濯機に入れて、スーツはハンガーにかける。そういうことはとても安心だし、嫌いじゃないんだ。けれどなぜ一日、パソコンかスマホで情報を仕入れなければならないんだ。そしてやたらとラインをよこす奴がいるけれど、どうしてそんなに話しかけてくるんだ。なぜ話しかけることを文字でやるんだ。これも情報なのかと嫌気がさすんだ。それなら電話をかけてくればいい。俺は話しかけられて、答えないなんて人間じゃない。

 それにしてもこうしてスマホをポケットにしまってこの終点のない宇宙行きの電車に揺られているのは悪くないな。どこまでもずっと乗っていたい。旅行だろうか。それとも家出? いつかここで死を迎えるのならば、それは失踪?

 

ママはどうしているだろう。おそらくもう「永久脱毛を一000円で」という広告を見ていないはずだ。じゃあ、何を見ているのかというと、暗い車窓だ。ママは子供を抱えて家出をしようと電車に乗ったわけじゃない。ただそこら辺のショッピングモールに行こうかなと思っただけだ。ママの家はいつもテレビがついていたり、子供が泣いていたり、パパが時々怒鳴ったり、いつも何らかの音がしていた。ママはお湯が沸くと「ピーッ」と鳴るやかんを使っていたけれど、やかんの注ぎ口をいつしか閉めなくなった。その音が、お前はとても要領が悪く、のろまで、何も考えることができない、わたしは沈黙した。わたしは誰? 答えられそうにない。どう言えばいいのだろう。

「そういう風におおざっぱに聞かれてもね」

「じゃあ、君が一番好きなのはタピオカ入りのアイスラテなんだよね。じゃあ、2番目に好きなものは?」

「それも飲み物なんだけど、2番目は2つあるかもしれない。どっちも互角なのよ。一つはクリームソーダ。アイスがね、半分くらい溶けて、透明だった緑色が、少し白濁して、その瞬間がとってもおいしいと思ってる。もう一つはねアイスアーモンドオーレ。これもね、たまにすごく飲みたくなるの。食べ物でって考えてみたの。唐揚げかな。ケンタッキーとかじゃないのよ。ニンニクとショウガとお酒と醤油にもも肉を漬けて、もんでからほったらかしにしていたようなやつ。あとは柿かな」

「俺、朝刊の準備があるんだよ」


 こっちに来て新聞配達くらいしか職に就けないってわかった時、ちょっとだけ絶望したんだ。そのちょっとだけの絶望だったのに、それが立ち直れないほどの絶望に感じたのは、多分、その時の俺が誰とも、どことも、つながっていないっていう意識からだったと、あとから思ったんだ。何かと、誰かとつながっているっていう自覚がきちんとあれば絶望から抜け出しやすい。それはそこにつながっているぜっていうプライドがあるからなんだ。カウンセラーに相談したらなんていうかわからないけど、とにかく俺のこれからの絶望の対処方法になるって俺は思った。今はつながっている人も、それはクモの巣くらいに細い糸かもしれないけど、でもつながっているのだからっていうプライドは失ってはいけないし、大切にすべきものだとも思う。


「なんかのど乾いちゃった。そこのサンクスのアイスコーヒーおごってくれない?」

「ミルクとガムシロはどうする?」

「どっちも入れたいな」

 パチンコ屋は閉店しているというのに、カラフルな電飾はそのままついている。パチンコ屋はもちろん、ロータリーを身体の角度を変えて、ぐるりと見渡してみても、好きな光景だって思える。それは今その光景が気に入ったのか、昔からそういう光景になじみがあったり、好きだったのか、それは分からない。夜の風景っていうのはきっとこんな風だ。涙ではない。光で輪郭がぼやけるのだ。

 少年はアイスコーヒーを2つ手に持って、戻ってきて、差し出す。わたしは受け取り、

「どうもありがとう」

と言って、受けとり、ミルクとガムシロが均一に混ざるよう、しばらくプラスチックの容器を振る。氷が音をたてる。気持ちのいい音だ。そしてストローを差し、

「ねえ、このアイスコーヒーはサンクスだけど、セブンイレブンのアイスコーヒーの氷は溶けないって本当かしら?」

「でも、確かに溶けるよな」

「うん、そうなのよね、確かに溶けるのよ。都市伝説みたいなものなのかしらね」

「いや、溶けないって思っていたらきっと溶けないんだよ」

「本当に?」

「そう、本当に」

「じゃあ、セブンのアイスコーヒーを飲むときは『このアイスコーヒーの氷は溶けないのだ』って思いながら飲めばいいのよね」

「それじゃあ、ダメだよ。『セブンのアイスコーヒーの氷は溶けない』って、思おうとしたり、そういう恣意ではだめなんだ。決定的に君の場合、セブンのアイスコーヒーの氷は溶けてしまう。だいたい恣意的な意識の持ち方とか行為は、間違っていることが多いんだ」

 じゃあ、いただきます、と小さな声で言って、わたしは飲み始め、すぐに口からストローを離した。びっくりしたのだ。わたしは電車に乗っている間から、夢なのか現実なのかあいまいな、それとも夢と現実の中間なのか、それもあいまいな、そんな感覚で新越谷で降り少年と話していたが、その一口飲んだアイスコーヒーは「現実」だった。冷たく甘いコーヒーの味。なにもかもフィルターやすりガラス越しにしか見えなかったものたちが、一気に色づく。冷たく甘いコーヒーの味。その冷たくて甘いアイスコーヒーの舌に感じる味は、とてもリアルで、それによって今のわたしを生な現実へと引っ張っていくものだ。わたしは地面に置かれている駅前のベンチに座っていて、両足は確かに地面を踏んでいる。でもそれは「今」なのだろうということも感じていた。移ろえばきっと加速をつけてあいまいになっていくのだろう。

 そして何もわからないままで現実に立つということは、あまり気分のいいものではなかった。例えば鍵がない。それをさっきまでは忘れていたし、それに気づいた時だって、それほど、焦燥感はなかった。それなのに今バッグの中を確かめたらきっと、猛烈な焦燥感に襲われるはずだ。

 私はアイスコーヒーを呼吸もすることなく、一気に飲んでいたら、「これは、ガムシロとミルクの入った少年におごってもらったアイスコーヒーだ」という変えようもない、どう想像もしようにない現実に直面したのだ。

「随分のどが渇いてたんだな」

「そうね、おいしくて。ねえ、あのパチンコ屋もあっちのカラオケ屋も、なんだか絵になるっていうか、風景としていいわよね」

「そうかな、俺はそんなことを考えたこともないけど」

「よく見て、とてもきれいよ」

「あのカラオケボックスがきれいに見えるのか?」

「きれいっていうか、絵になる感じ。芸術的って言うのかな。でもこんな光景いくらでもあるのよね。少しだけくたびれた看板とかそういうもの。電飾の一部が欠けたりしている、そういうもの。今やけにクリアに見えるの。でもまた、そうじゃなくなる時が来るのかもしれないって思う」

「じゃあね、俺は仕事だから」

「アイスコーヒーありがとう。じゃあ、またね」


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