冒険へ
そんな想像から無理やり抜け出て、ふと我に返った時、目の前に自転車にまたがった少年がいた。そしてわたしと目が合うと自転車を降り、わたしの前に立った。
「俺のこと、ずっと見てなかった?」
わたしはそんな覚えはなかった。でも確かに自転車がゆっくりとわたしの目の前を行き来していたような気がしないでもない。別にその少年を見ていたわけでもなかったし、その灰色の自転車を目で追っていたわけでもない。ただ、わたしはあの隊列のゴール、緑色の沼について考えていただけだ。
「そうかもしれない。わたしあなたのこと目で追っていたかもしれない」
そう答えた。
「酒でも飲みに行かないか?」
「でもあなた未成年でしょう?」
「そういう風に見えるらしいけど、俺はもう24歳なんだ」
君、猫みたいな顔をしているね。俺は以前、実家で猫を飼っていた。雑種のとらネコできれいな顔をしていたよ。もちろんメスだ。でも死んだ。その猫はメロって名前だったんだ。太宰治の「走れメロス」からとった名前だって言いたいけれど、そうじゃない。うちの父親がその捨て猫に一目惚れをして拾ってきて、もうべたべたにかわいがるもんだから、おふくろが、あなた、その雌猫にメロメロなのねって、少し古い言葉を使った。そして俺には姉がいたんだ。姉ちゃんはその「メロメロ」っていう言い方に、瞬時に反発したね。っていうのも姉ちゃんは、小説家志望だったんだ。小説家志望の割に行った大学の偏差値は低かったし、それ程本を読んでるようにも見えなかった。小説の勉強をするから、なんて言って就職はせず、近所のニッセキでバイトをしてた。俺はそれは疑問だったんだ。小説家志望とガソリンスタンドでアルバイトをするって、なんだかバランスが悪いだろう? そう思わないかい? でも姉ちゃんは疑っていなかった。もうすぐ、もうすぐデビューができると。何らかの賞をとれると。
俺はある夏、姉ちゃんがシャワーを浴びているその風呂場のすりガラス越しに、姉ちゃんの薄いブルーのブラジャーなんて眺めながら、姉ちゃんに話しかけたんだ。
「なあ、小説家志望でありながらガソリンスタンドで働くのっておかしくないか? 俺にはコンビニの方がまだ納得できる気がするんだ」
「馬鹿ね、わたしはずっと内向きになんていられないタチだし、そんな内向性を突き詰めていく作業なんて、いまどき流行らないわよ」
俺はなんだか姉ちゃんの言っていることはもっとものようでいて何かおかしいって感じたんだ。やっぱり内向するっていうことに新しさも古さもないような気がするんだ。そしてその中に、さらなる内向性っていうか、作り手の無意識がむき出しになって、それが文体を作っていくような気がしたんだ。だって姉ちゃんは朝昼晩とご飯を食べて、テレビを見て、パソコンで買い物をして、時間が来ればガソリンスタンドで大声で「いらっしゃいませ」と叫ぶ。何かを叫びながらだろう? ガソリンスタンドってやつは。窓を拭くときも、ガソリンを入れるときも、灰皿を預かるときも、レギュラーかハイオクか尋ねて、そして叫ぶだろう? 満タンなのかそうじゃないのか。
俺だってそこまで馬鹿じゃない。そうやってガソリンスタンドで大声を出して働くことが、人生にとって有益で、小説にとって無益だなんて言う風には考えないさ。もちろんね。
よく海に行って叫ぶ人がいるだろう? 春の海。その人は海で叫ぶからこそ、日常的に叫ばないでいられるっていう方法をとっているだけだと思うんだ。俺が思いうことだったんだ。いつでも内向きでいられないっていうのはもっともかもしれないけれど、ガソリンスタンドで大声を出し続けた後に、小説に向かって、何か底の方から衝動が生まれるんだろうかって。確かにその淡い水色のブラジャーは小説の中の登場人物に身につけさせたいような上品なブラジャーだった。そしてさらに俺はこう聞いたんんだ。
「姉ちゃん、今度俺にも読ませてくれよ」
姉ちゃんはシャワーを止めて、もう一回言ってと促したから、
「姉ちゃんの作品を読んでみたいなって思ってさ」
姉ちゃんはあっさり
「そんなものないわよ」
って言うんだ。
「ないっていうのは、どういう意味で?」
「つまりね、書きはじめたものは、いくつかあるけれど、最後まで書いたものって、一つもないのよ」
俺はびっくりした。姉ちゃんが作家になりたいって言いだしたのは高一だったんだ。それからだいぶ月日は流れている。大学もとっくに卒業したし、ガソリンスタンドのバイトも長くやってる。多分3年くらいだ。
「何故、最後まで書かないんだ?」
「うーん。書いている途中にね、これ本当に面白いのかしらって思ってしまうの。これが果たして傑作に、誰もが驚くような傑作に仕上がるのかしらって。わたしは傑作を書きたいのよ」
脱衣所には姉ちゃんがさっきまで着ていたレモンイエローの綿のワンピースが無造作に置かれ、どこかのブランドのものだといつか俺に説明した、半袖とショーパンのパイル地の部屋着が畳まれて洗濯機のふたの上に置かれている。
その時俺はもしかしたらって思った。姉ちゃんがめざし、姉ちゃんが憧れているのは、小説家なんかじゃなく、小説に出てくる小説家なんじゃないかって。おかしいかな、そんな風に思うなんて。でもその時はきっとそうだ、って思ったんだ。
でもね、俺は今になって、それは俺の考えすぎかもしれないって思うようになった。歳をとったこととは関係ないと思うんだ。姉ちゃんが、もう会えない人間になってしまったから、そう思うのかもしれない。
「もう会えない?」
そう、死んだんだ。俺は震災で家も両親も、メロもなくした。姉ちゃんもね。俺は友達と実家を離れてツーリングをしていたから、免れた。なにもかも流された。見事なもんだったよ。なにかを見つけようとか、そんな気持ちにもなれないほど、疲れる体験だった。なにもかも、世界が変わってしまうっていう体験はこういうことなんだなって思った。ひどい匂いだった。俺のその時の世界はただのゴミと悪臭だった。どんなミュージシャンにも興味がわかなかったな。俺はそんなものは欲しくなかった。一番欲しかったのはギターではなくて、プライバシーだった。こんな話、つまらないかな? 君はいくつなの?
「27よ。そしてその話はとても興味があるっていうか、そういう時にミュージシャンっていうのは余計なお世話なんだなって、よくわかったわ。でもお姉さんが何を目指していたのかはよくわからない。作中の作者だったのかもしれないし、小説家だったのかもしれない。ニッセキで自慰をした後に、作品に向かえば、もしかしたら冷静な判断と理性を持って、小説に向かえると考えていたのかもしれないし、隠れたかったのかもしれないし、逃げ出したかったのかもしれない。そしてもしかしたら、なにかまったく別の何かだったのかもしれない。お嫁さん。パートをしながら家事をやって、子供を産むってわけ。そしてもしかしたらマイホームの想像もしていたのかもしれない。震災は一人一人の歴史や思い、大切なもの、つながり、それらを根こそぎ奪うのね。それは震災だけに限るわけじゃいけど、退路は断って、何もかも奪う」
けれど本当のことを言うと、この年下の男の子の話を聞きながら思ったことは、何故、傍から見るような話し方をするのだろうという疑問だった。いつの記憶かわからないけれど、ずいぶん昔、わたしはどこかで震災を逃れた人が、
「わたしたちは何もかも失ったんです。なにもかもなんです」
と真剣にきっぱり言っていた中年の女性を思い出していた。その女性はとてもまじめで、何かを宣言するようにきっぱりと、言っていた。それはとても確実な響きだった。
そして俺は今新聞配達をしてるんだ。先月にオーディオを買って、今月はパソコンを買った。とても順調なんだ。このままいけば30までには起業できると思うんだ。新聞配達ってのは案外きついんだ。簡単そうだけどね。でもその分給料もいいし、ワンルームにただで住んでるから家賃もかからない。だからもうしばらくは新聞配達をやろうと思ってる。
今度はその少年は
「つまらないかな?」
とは聞かなかった。そしてなぜかその少年の部屋の様子が手に取るように見えた。シングルベッドには白いシーツがかけられているが、一部はまくれ上がっていて、ベッドのマットレスの花柄が見える。白い毛布はベッドから床に落ちていて、ベッドには夏掛けがあるだけだ。それにはベージュのチェックのカバーが書けられている。片方にテレビがある。テレビ台の上に置かれたテレビはオーディオやパソコンによって後回しにされ、まだブラウン管だ。そしてテレビ台の上には数個のフィギアが乗っているが、テレビもテレビ台もそのフィギアもホコリまみれだ。真ん中に簡易なテーブルが置かれているがその上にはカップラーメンのゴミと、途中で飲むのを止めたコーヒーが入ったマグカップが置かれている。部屋中に乱雑に置かれた雑誌は、エロティックなものももちろんあるが、そのほとんどはマガジンやサンデーだ。それに交じってパチンコ必勝法とか、クロスワードもある。部屋の中に白や赤やグレー、ネイビーと行ったTシャツが干されている。一隅の角にラックが置かれ、デニムや下着類、トレーナー、靴下などが入っている。そしてその入り口にブルーのギンガムチェックのスリッパが2つと、Wガーゼの夏用のスリッパが置いてある。そんなに人が訪れ、そんなに皆がその狭い部屋で、スリッパを履くものなのだろうか?
「ねえ、あなたのうちにはスリッパがいくつあるの?」
「俺専用が一足、客用が3足だ」
うちの流された実家の玄関にはさ、スリッパラックがあったんだ。姉ちゃんのは確か赤のドットで、おふくろが紺色のふかふかしたやつだった。それは色違いでオヤジとおそろいで、オヤジのは茶色だった。そして客用は夏バージョンと冬バージョンがあって、どっちも薄いベージュだったな。だから俺の部屋にスリッパが多いっていうわけじゃないんだ。震災の時、支給されたものなんだ。新しいし、使えるものだし、持ってきた。それだけの意味しかないんだ。君は俺が実家のスリッパのラックを懐かしがっているんだと思ったんだろう? スリッパのラックはとても古臭いもので、すごく田舎くさかった。濃い色の木製さ。たっぷりニスが塗ってある。おれは正直それを好きじゃなかった。俺のことを、お前は田舎もんだ。諦めろ、諦めろ、そう言われているような気がしたんだ。
やっぱりあの震災から逃れてきた中年の女性とは違う。助かった人こそが傍観者ではなく、当事者なはずだ。少年は一つの家庭を根こそぎ奪われた当事者だ。料理を作る人ではなく、ひたすらに食べ続ける人のように見えるし、そう聞こえる。
「これから、どこに行くの?お酒でも飲もうよ。それは君がメロに似ているからってだけなんだけど」
少年の部屋は雑多ではあるが、それは少しだけ逸脱した生活臭とでも言えるような、嫌な感じのする部屋ではないはずだ。つまりこの少年は健康なはずだ。
「懐かしいメロに似た顔をして言うのは気の毒だけど、わたし欲しいものを手に入れなくちゃならなくて。ごめんね。今日は時間がないわ」
「何が欲しいの?」
「一万円よ」
「じゃあ、俺が一万あげるよ」
もらえればそれはそれでいいのかもしれない。でもわたしは電車の中で、稼ごうと思っていた。それ以外にお金を得る方法を考えつかなかった。
「メロちゃんに似ているのに、なんだか甘え方がわからないの」
「君の好きな食べ物は?」
わたしはまた黙ってしまった。思い浮かばない。
「あの、タピオカ入りのアイスラテ。今はなんていうか、そんなものしか思い浮かばないの」
そしてさっきから気になっていたことを聞くついでに話題を変えようと思った。
「あの、白い馬に乗っていた人たちをここに座って、見てたんだけど」
少年は自転車を立て、わたしの隣に座った。わたしは突然タバコが吸いたくなり、そしてちょっと前はチェーンで吸っていたタバコを、しばらく吸っていなかったことに気が付いた。
あれはね、警備隊っていうかな、なんていうか取り締まる人たちなんだ。取り締まる対象っていうのは、別に未成年でタバコを吸っているとか、ビールを飲んでいるとか、喧嘩をしているとか、刃物を持って歩いているとか、そういうんじゃないんだ。彼らが取り締まる対象は、安物の服を着て、安物の時計をして、安物の靴を履いている、そういう人たちなんだ。毎日たくさんの人たちが、捕えられて連れていかれるんだ。もちろん刑罰ではないんだけど。彼らの処刑の仕方っていうのは、全裸にして、モンゴルから取り寄せる、塗るとそこがかゆくなるっていうバターを、身体の隅々まで塗りたくるんだ。もちろんそこはゴムの手袋をしてね。女性のあそこなんかにそのバターを塗られたら、悶絶するくらいつらいらしいんだ。
あの自警団はね、大抵が豪邸とスポーツカーを持っている人たちなんだ。つまり豪邸やスポーツカーが否定され、似たようなコンドミニアムが林のように建てられていくようになったら、それはさ、世の中の価値観の大変革だろう? だからその時は彼ら彼女らは、集団自決をするんだ。俺にもどこにあるのかわからない、もしかしたら誰にもその場所は知られていないのかもしれないんだけど、彼らのボスは確かに知っている、沼と谷があるんだ。自決はそこで行われる。沼はエメラルドグリーンで美しく、その中に馬も人たちも入って身体を清め、せーの、で谷に飛び込むらしい。
でもちろん、そうなってしまえと思っている若者も大勢いるんだ。だから彼らに屈しないでスウェットを着る。時計は一000円で買えるものか、UFOキャッチャーでとった奴だ。あのモンゴル産のバターの効き目はものすごいらしいけど、それでも何度も捕まった奴がいる。そういう奴らは明日とか明後日を見ていないんだ。その先を見てる。その先のために今かゆみに我慢しているんだ。