冒険へ
少し迷ったが、やっぱりここは否定しようと、わたしがここに来た意味は単に、バッグを買うお金を稼ぐためだった、だから、バッグを買った今は、もうここではないし、ここに来るために乗った、東武線ではなく、武蔵野線に乗ろう、そう思って、バッグの中のバッグからパスケースを取り出し、JRの武蔵野線の改札口を通る。さっき、バッグの中のバッグからパスケースを取り出そうとしたとき、改札口の前で思わず立ち止まり、人にぶつかってしまったから、ホームのベンチでバッグの中のバッグから中身を取り出そうと思っていた。それなのにそれほど蒸さない、日当りのいいベンチに座ってみても、なかなかバッグの中のバッグを取り出そうという気分になれなかった。隣には小さな、小学生低学年程度の女の子が座り、その隣に、ブルーのパイル地の半袖の服を着た小さな男の子を抱えている年配の女性がいる。多分、その子らのお母さんなのだろうが、四〇代後半に見える。高齢出産に関する知識はわたしにはあまりない。
「お姉ちゃん、これあげる」
女の子が私に声をかけ、下を向いて目を閉じていたわたしは、とっさに笑顔を作って、その飴を受けっとった。バタースコッチの飴だった。わたしはそのとき、キオスクで買った、レモンウォーターを飲んでいて、今バタースコッチの飴を舐めようっていう気にはなれなかった。
ありがとう。でもごめんね、わたし今、これ、そう、レモンウォーターを飲んでいて。そう、スーッていうやつ。スーってビタミンCが体内に入っていくらしい、このレモン味の水、そう水よね、これを飲んでいて。だからこの飴は大事にバッグにしまっておいて、電車の中で舐めようかな。本当にありがとう。このレモンウォーターっていうやつだけど、どうやらビタミンCがレモン五〇個分らしいのよ。ほら、ここにそう書いてある。きっと健康や、美容なんかにも有益なのかもしれないわね。でもね、わたしはこれを健康や美容に、有益であるという点から飲んでるわけじゃない。たとえ無益でも飲んでると思うし、買ったと思う。どうしてかっていうとこれって、なんていうか少しレモン風味の、少し甘い、そしてさっぱりとした、そんな水、水じゃないんだけれどね、そういう風な水みたいなものが、そう、スーッとね、入っていく気がする、身体にしみこんでいく気がするそんな所が気に入っているの。味って限定もできないかもしれない。そんな味でそんな風にスーッとね、身体にしみこんでいく、そんな感じがね、好きでね、飲んでるの。バタースコッチ。わたしの好物だわ。前世から好物だったって言ってもいいかもしれない。それくらい好物なのよ。本当にありがとう。
こんな素敵なプレゼントをくれた、あなたには言うわ。わたしね、主人がね、ううん、そうじゃないの。わたしが結婚していると仮定して。そう仮定して言うとね、その夫が結婚当初から大事に飼っているセキセイインコより、毎日のように訪れてハムなんかを食べて喜んでいるそんな野良猫のメロをね、少しひいきしてかわいがっているように見えたら、わたし多分その瞬間、メロとその夫両方に、激しく嫉妬すると思う。そしてね、ほら、居酒屋なんかで遅くまで飲むこともあるじゃない、時折。そう、終電も逃してしまって。けれど、そこまで遅くない、けれどそこまで遠くないわたしのマンションの部屋に、かなり酔ってタクシーでやっと帰った時、夫は当然もう寝ているっていう時間、そんなときに帰ったら、服を脱ぎ捨てて、パジャマになるのがやっとってときがあるのよ。大人にはね、そしてあくる朝、きっと土曜とか日曜の朝なんだけど、メイクを落とさずに寝ていたわたしを見て、夫がもし、「化粧くらい落としたら?」って言ったら、わたしはきっと、激しく夫を憎むと思うの。きっと。わかってるの。夫には何の気もないってこと。悪気なんてないし、わたしを責めるつもりもこれっぽっちもない。だけどね、憎むと思う。そしてね、わたしが何かそうね、整腸剤のようなもの、ビオフェルミンとかね、そういうものを常用していたとして、飲んでいないお昼。例えば焼きそばなんかで簡単に済ませたお昼の後ね、その夫はこう言うかもしれない。「薬、飲んだか?」ってね。けれどまた、わたしは夫を、それを言った夫を憎むのよ。さらに憎むのよ。それが例えば、食後のコーヒーをぼんやり、ぼんやり飲んでいた時だったとする。すごく憎むと思うの。それはあなたがね、宿題を、このカルピスを飲み終わったらやろうと思っていた、っていうのとも本質的に違う。全く違う話なの。わたしの説明でわかってもらえるかしらね? そしてね、ここで問題を出すわ。わたしの足の裏は真っ黒に汚れています。さて、どうしてでしょう?
隣には女の子もいなかったし、男の子を抱えた女性もいなかったし、ホームにも誰もいいなかったし、目の前には電車もなかった。いたと言えば片足の悪いハトだけだった。ハトは片足だけでピョンピョンと跳んでいて、なにかを拾っていた。悪いわね、わたしなにも持ってない。サンドイッチでもあればよかったのね、とハトに心の中で呟いてみる。そして、バッグの中を見る。バッグの中にバッグが入っていて、おにぎりやその他雑多なものと、底にコロンとバタースコッチの飴が入っている。
ああ、わたしまだ、夢と現実の隙間にいるみたい。わたしはそう思って、バッグの中からバッグを取り出して、何もかも出してみようと思った。財布やタバコ、ライター、パスケースなんかはもうバッグから出されていて、ピンクのplumpynutsのバッグの中に入っている。バッグの中に入っているバッグには、小さくKateSpadeと印字されていて、その中から、高級そうでもなければとても汚れている裏返しになったハンカチ、丸まったポケットティッシュ、ディオールのピンクの口紅、それくらいしか入っていなかった。けれどもしかしたら、このバッグを捨ててしまおうかと少し考えて、そのバッグについている小さなポケットまですべて開けてみた。内側に付いた小さなジッパーのあるポケットを開け指を突っ込んでみる。なにかが入っている。まるでポケットの裏の生地に手を触れているような気もするが、なにか触り心地が違い、粗い。やっと引きずり出して手に取ってみると、お守りだった。「家内安全」と書かれている赤い、小さなお守りだった。泣き叫びたかった。けれどホームには誰もいない。誰もいなくては泣き叫べない。そう思うわたしは甘えているのだろうか。でも泣き叫びたいという思いと、それはなんでかわからないけれどできないのだという思いが、心の中で交差する。とても泣き叫びたいのに、なにものかによってそれを封じられている。わたしの世界すべてがそれを封じている。
わたしは今、暑くもなく寒くもないそんな場所で日当りのいい武蔵野線のホームを見ている。ここは本当に快適で、身体だってないみたいに軽い。頭痛もしないし、歯痛もない。そんな本当に快適な軽い場所だ。
日差しを浴びながら、片手にピンクのバッグ、片手に五〇〇mlのペットボトルを握り締めた、ずいぶん若いおばあさんがいる。背を丸めて膝に赤いお守りを置き、目を閉じている。おばあさんは悲しそうだ。ここは何もない、悲しみもない、重い荷物も身にまとう思いコートもいらない世界だ。わたしが客が帰った「マヤ」の灯り程度のまぶしさで、行く道を案内してあげるから、こっちへおいで。少し笑ってしまいたくなる。ふふふ、来ればいいのに。ここにはなにもない。そう。身体だってないくらいに。
わたしはバッグの中に入っていたバッグとお守りを駅のゴミ箱に投げ入れて、歩いた。ホームから階段を降りる。改札を抜けようとしたときに、嫌な音がして改札の扉がバタンと閉まった。駅員が顔を出す。
わたしは駅員に、東武線に乗るつもりが間違えて武蔵野線のホームまで行ってしまったと説明した。
「そういう方、結構多いんですよ」
そうにこやかに言って、扉を開けてくれた。その「そういう方、結構多いんですよ」という言葉や口調、そのにこやかな笑顔は、びっくりするほど生々しかった。わたしは少しドキドキしながらその開いた扉を抜け、東武線の駅へと向かい、軽い足取りで階段を今上っている。起きていたくないのに眠れない。そんな気分で。不安や恐怖などいつわたしは感じたんだろう。家内安全のお守りも捨てた今、わたしは別に迷っているわけじゃない。そう思いながら。




