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HAPPY END  作者: 多奈部ラヴィル
15/18

冒険へ

・失踪

 

「すまない、ここで降りてくれ。これ以上進めそうにないんだ。多分政治団体がなにかやってるみたいなんだ」

その声でわたしは目を開け、窓の外を見た。少し明るくなりかけている空。ものすごい大群衆がコンコースを中心に集まっている。わたしは助手席から降り、男性に向かって、また、小さな声で、

「ありがとうございました」

と言ったが、大群衆の上げる挙げる声でかき消され、

「何?」

といった表情をする男性に、ううんという意味を示すように、首を左右に振った。

 群衆をかき分けて駅へと向かう。群衆はコンコースの駅の反対側のコンコースの突き当りに向かってみなが動き、進もうとし、それはまるで何かが今起きて、そしてなにかに変わろうとする生き物のようにも見え、胎動やエネルギーを感じる。みな何かを口々に叫んでいる。なにに向かって叫んでいいるのだろうと思う。叫びたいから叫んでいるのだ。そういう風にも見える。わたしじゃない人たちにこのようなエネルギーが充満していることに気が付かないで今まで生きてきてしまったような気もする。いつも何かを忘れ、どこかに忘れ物をしたまま生きてきたような気もする。群衆は今、エネルギーを使いはたし、何かの胎動を促し、何かを孵化させようとしているみたいだ。もうすぐ何かが産まれる。それはまた、革命のようにも思える。

 駅のそばまで来た。3列に並んだベンチにはカートを持ったおばあさんしかいなかった。そのおばあさんはベンチの三列目に座り、口をもぐもぐと動かしていた。みな、熱に浮されるように立っていて、群衆の中に、その前方に向かおうと必死な中、わたしとおばあさんだけが座っていて、わたしはふと、社会を立て直そうと本気で思う場合、わたしたちはきっと一番最初にリストラされるだろうと思った。おばあさんは口をもぐもぐさせていることしかできないし、わたしはこうだからだ。そして誰もが立っているのにわたしたちは座っている。それがリストラ決定者のマークに思える。イワツキの郊外の古着屋の駐車場で、パンツを脱ぎ、おしっこをした。ふと思い出す。パンツを渡す時に触れてしまった、男性の肉厚な手の感触と、生温かいおしっこが、わたしの足を浸していく感触だ。

 覚えていたくもない記憶だ。けれどそれらは今のわたしの数少ない現実であるのも確かだった。わたしの記憶はBMWの中で男性のセンスが良く、上質なシャツを見たところから始まっている。どうしてわたしはBMWの中にいたのかわからない。ただホラ話を長い間話した。そうしないといけないという動物の持つ勘のようなものが働いたからだった。けれど最悪な状況は避けられなかった。私が都内に住んで、結婚していて、子供がいなくて、旦那は大いに売れているファッション誌の副編集長で、二台目の車をワゴン車にしようかと思っていたら、軽の方がいいと友人に勧められ、料理の腕はプロ級。そんな話はなんの役にも立たなかったどころか、男性はその話を聞きながらわたしを見て、侮蔑した。長く、即興ではあったが、綿密に練られた話ができたと、自分では思ったし、財布の中に入っていた一万円を見たときふと浮かんだ「シンコシガヤ」という駅名、そこに何のわだかまりもなく、躓きもなく、着けるものだと思っていた。けれどその話の後に、お金が欲しいかと二度聞かれ、一回目はホステスのようにとその塊を華麗にジャンプしようと思ったが、二度目には諦めるしかなかった。男性はわたしをわたしが言ったホラ話の主人公ではないと見抜いていた。どうしてかはわからないがわたしはそう、見抜かれた。そしてパンツを脱ぎ、おしっこをするしかなかった。確かに男性の目の前でおしっこをしたのだが、現実は足を濡らす生暖かい液体と、太陽に近づきすぎたように、まぶしい光で何も見えない、それだけだった。

 もう朝日が昇っている。今何時なんだろうと思う。時間よって区切り、朝食、昼食、死夕食、そういう風に食べる習慣がわたしにあったのか、それともなかったのか、よく分からない。お腹は空いていないが、なにか飲みたいとは思った。コンコースをぐるりと見渡す。パチンコ屋と居酒屋、キャバクラとコンビニ、吉野屋、焼肉屋、カラオケボックスなどがある。

 カラスがやけに多い。わたしの朝の記憶と言うのは、朝起きるとき、スズメの鳴き声がいつもついてきたような、そんな気もする。けれどここにはやけにカラスが多く、このあたりに住む人たちにとっては朝はスズメではなくカラスなのだろうと思う。たくさんのカラスが電柱にも電線にもびっしりと埋めるように止まり、時々低空飛行をする果敢なカラスもいる。そして大量の糞が落ちている。

 さっきよりカラスが増えているような気がする。そして今もどんどん増え続けているような気がする。人がなにかを叫ぶ時、カラスも便乗して一緒に叫びたいと思うのだろうか。わたしはサンクスでアイスコーヒーを買い、ミルクもガムシロも入れて、蓋をし、ゆすりながらベンチに戻る。そしてストローを刺し、ぼんやりする。そしてベンチに座ってぼんやりしていたら、サンクスで時計を見るのを忘れてしまったな、と思う。朝から蒸し暑かった。アイスコーヒーを脇に置き、けれど、アイスコーヒーを飲もうとしない。まだまだカラスは増え続け、そして灼熱の太陽が肌を焦がすような夏でもなく、息が凍ってしまいそうな冬でもない、こんな何かが始まりそうな季節や気温や湿度が、何かが変わるときにはピッタリだと思える。そして今、大群衆の叫び声に負けないくらい、大声で鳴きつづけるカラスの声だってそうだ。

 そしてカラスの大群や、生き物の胎動に見えるそんな大群衆をぼんやり見ていて、革命だと思ったが、本当は何をしているのだろうとやっと気になってくる。けれどその大群衆は人々が口々に一気に叫んでいるためか、意味も汲み取れないし、ピアノを一気にたくさんの鍵盤を強く叩いたような、そんな雑音のような不愉快で不穏な音のようにしか聞こえない。

 一瞬、パチンコ屋のあたりの風景が、懐かしいような気がした。涙を促すように。けれどすぐに懐かしさはその風景に入り込んでしまう、群衆にかき消され、その泣きたいような思いもかき消される。

 そしてそんな風になにかを思ったり、なにかを考えたるするヒントのようなものが浮かんでも、灰色の増え続ける大群衆や、空を暗くさせるような多すぎる、明からに多すぎるカラスの群れにかき消されてしまう。

 わたしはやっとアイスコーヒーを飲もうという気になり、プラスチックの容器を手に取る。冷たい。氷は少し溶けてしまったようだ。昔溶けない氷が入ったアイスコーヒーの話を聞いたことがあるような気がする。でもそれはただの作り話、フィクションの物語だろう。氷は溶ける。必ず溶けるのだ。溶けない氷なんてあるはずがないのだ。氷っていうのは溶けることを運命づけられている。

 そしてアイスコーヒーを飲み始める。甘いコーヒーの味。わたしは口からストローを離すことができなかった。アル中の患者みたいだ。こんな甘いコーヒーを浴びたいとさえ思う。わたしは今アイスコーヒーを飲んでいる。だってガムシロとミルクを入れられたコーヒーの味を確かにわたしの舌は味わっている。わたしの舌は味わっている。

 そして灰色にしか見えなかった大群衆がさまざまな色の服を着ているこを知る。白いシャツを着た人もいるし、ネイビーのスーツを着た人もいる。黄色いTシャツを着ている人もいるし、ピンクのブラウスを着た女性もいる。赤いポロシャツを着た高校生らしき男子もいる。きっとそれはトミーフィルガ―だろう。わたしのすぐ前にいる若い女性は、デニムのオールインワンに、ヴィンテージのTシャツを着て、群衆の最後尾に立っていることにいら立つように、背伸びをしている。そしてそのファッションを、わたしはかわいいなと思う。それほどお金をかけたファッションでもないのだろうし、バッグは簡素な帆布のトートだ。パンダの顔の絵が描かれている。生まれ変わったら、あんな格好をしようかななどと考える。生まれ変われるかどうかなんてまだ遠い先の話なのかもしれないのに。そしてわからない。


 「まだいたんだ」

目の前に一九歳くらいの少年が立っている。デニムにTシャツ。ストライプのぼやけた線が描かれた白いTシャツだ。わたしはいつの間にか飲み終わっていたサンクスのアイスコーヒーをやっと口から離し、ベンチのわたしの横に置いた。そしてぼんやりする。その少年がわたしに話しかけているということはわかっている。けれど、わたしはその少年を知らない。

「もしかしてわからないの?」

そう少年が聞くので、

「恥ずかしい話だけど、よくわからないの」

と答えた。少年は

「俺は二四歳だよ」

とことわってから、ポケットから二つ折りのこげ茶色の川の財布を取り出して、そこから一万円札を取り出し、ほら、と言って、わたしの前でひらひらと振ってみせる。お金。つい数時間、いや、数十分前かもしれない、わたしは一気に二万円を得た。

「どう?」

少年が訪ねる。

「わたし夕べっていうか、仕事をしたの」

と答えた。ちぐはぐな回答をしてしまったらしい。少年はわからないっていう顔をして、それなら、と言って、肩にかけたいたショルダーのバッグから、鏡を取り出した。そして私に渡す。FrancFrancと書かれてある。ところどころのコーティングがすり切れている。角のコーティングなどぼろぼろだ。そんな鏡。

「ああ、」

わたしはそう言った。


わたしは昨夜、この街で働いた。スナックだ。ママがいてさくらさんがいて、カスミさんがいた。そのスナックは路地の奥にあって、その路地はアーチのように曲がる穏やかな照明に包まれていた。そしてそこで働かせてもらって、お酒を飲み、ママたちは飲み行くと私と反対の方向へ向かっていった。わたしはその時疎外感を感じた。一日だけのバイトだった。それなのに疎外感はなぜか感じた。

 そしてこの群衆が真の革命を起こそうとしているということもわかった。新旧をかけた、戦いだった。豪邸やカウンタックを否定し、スウェットに千円の時計をする人たちと、それらを今まではそういう人たちを取り締まり、罰則として、身体中にモンゴル産の身体がかゆくなるバターを隅々まで塗った。それは性器も別としなかった。それらが今このロータリーで衝突しているのだ。

 そしてアイスコーヒーを飲んでいた時、ただのうねった風の音のようにしか聞こえなかった人々の叫びが、少しの意味を持った。

「豪邸退散」

「カウンタックなんて古い」

そういう言葉だ。

「スウェットこそ未来の服だ」

「一〇〇〇円の時計でもそう壊れたりしないぞ」

そういう言葉だ。わたしは革命の意味は理解できても、そういったシュプレヒコールにばかばかしさを覚えた。

「今いくら持ってるの? そして靴を履いていないのは何故なのかな?」

少年がそう尋ねる。


 あのね、昨夜わたし職を探していたでしょう? そして町の中を軽く散歩していたの。職が見つかればいいし、もし見つからなくても、それでもいいやっていう風にね。あなたはさっきまで月夜に照らされながら、朝刊を配っていたのでしょう? 月が妙に大きかったわよね。


「月の大きさまで気づかなかったよ。朝刊を配るっていのは案外大変なんだ。配るポストに気を配らなくちゃならないし、ロビーのないマンションであれば三階まで駆け上がることもある。そんな風だから、風が強いとか、雨が降っているだとか、雪になりそうだとか、妙に蒸し暑い朝だなとか、そんなことくらいしか意識できないんだ」


 そう、大変なお仕事なのね。それでね、あなたが教えてくれたショッピングモールのわきの道を進んでみたんだけど、残念だったわ。そこには暗い道とバカでかい月しかなかったの。それで引き返してみた。そしてね、コンコースの反対側に出てみたのね、あなたにサンクスのアイスコーヒーをおごってもらったってこと覚えてる。そしてね、そこにあったセブンで、またアイスコーヒーを買ったの。氷は溶けたわ。当たり前のことよね。そう、どうでもいいこと。

 そしたらね、広告みたいなチラシが足元に落ちてたの。道は狭くて暗かったから、わたしアイスコーヒーを飲みながら、店内に戻って、そのチラシをよく読んだの。なんでそんな風に、ゴミとしか言えないみたいな道路に落ちていたチラシを読む気になったっていうのが、少し不思議よね。でもね、その白くてつるつるしたチラシを見たとき、なんていうか、なにかラッキーな予感がしたのよ。なんていうかな、なにかが、新しいなにかが、始まるんじゃないかっていう、そんな予感。誰だって、あなただってそうだと思うけど、新しいなにか、それが自分にとってラッキーな予感がすること、それを感じた時って、ワクワクしない? だからわたしは、店内で夜の一〇時から、広告を校正する仕事を募集していることを知った時、予感の的中に、なんだか暗い道でもいいから、スキップでもしてやろうかって思ったわ。そして早速電話をかけた。学歴と経験を尋ねられた。

 実はね、わたしの主人はもとはフリーのライターで、今は大きなファッション誌の副編集長をやっているの。そしてね、わたしはもともと校正の仕事をしていたの。そこで主人と出会った。初めはゆっくりと、でも途中から磁石のプラスマイナスを帯びてしまったように、付き合って結婚したの。お互いのことをわかりあえばわかりあえるほど、吸引力が強くなるっていう感じだった。

 だからね、その学歴と経験を話したら、

「すぐにでも来てもらえませんか?」

っていう話だった。そしてわたしは

「再度、十分後くらいに、またお電話します」

と言って、またセブンに入って、B5のノートとボールペンを買った。B5のノートは、必ず、表紙と背表紙が固いものではなくてはならなかった。そしてまたその会社に電話して、詳しい道順を聞いたの。そのノートとボールペンを用意したのはそれに備えてだった。けれどね、その会社の場所はメモを取ることもないくらいとても近かったの。そう、そのセブンから。セブンの近くの路地を曲がって、そこに三階建ての「昭和ビル」ってうのがあって、その二階だってことだった。

 わかるでしょう?ノートとボールペンはこのバッグに入りっこないの。少し迷った。でもセブンの買い物袋に入れて、その会社まで持って行った。そこにいたのは三〇代前半の、ブルーのストライプの仕立てのいいシャツにチノパンを履いた男性だった。男性は

「ここじゃ、ゆっくりと話しができないから」

と言ってデニーズでもよければ、と言ったの。そこを改めて眺めてみると、一〇人くらいの人たちがデスクに大量の紙を乗せて、パソコンのキーボードを無口に叩いていた。向かい合ってコーヒーを飲む場所もない、そんな感じの事務所だった。

 その、責任者、社長だったのかしらね、その人の乗っている車は、BMWだった。とても居住性がよくて、静かだった。案外BMWって悪くない、そう思ったわ。BMWのマークがついているから値段が高いだけじゃないんだってね。そして国道四号線を走ったの。暗いけど等間隔で街灯が並んでた。スピードを出していたのかもしれない。景色は意味をもつ瞬間も作れないっていう感じで流れていくだけだった。初対面同士で二人で車にのっているっていう気まずさを、わたしはなぜか感じなかった。その男性がそうさせる何かを持っていたのかもしれないし、BMWっていうのはそういう車なのかもしれないし、時間帯がそうさせていたのかもしれないし、バカでかい月や、暗さと街灯がそうさせていたのかもしれない。でもとにかくそんな風だった。

 車の中でその男性は突然こう言ったの。

「俺はなんだか、サイゼリアのコーヒーゼリーとカプチーノと、マルゲリータピザと小エビのカクテルサラダと、辛みチキンが大好きで。なんだか今すごく食べたいんです。サイゼリアでもいいですか?」

「もちろん」

BMWをサイゼリアの駐車場に停めた。他に車はそれほど止まってなかったけれど、なぜか高級車が多かった。

 そして青年は同じものでもいいですか?と聞いて、ええ、と答えると、小エビのカクテルサラダや、辛みチキン、ドリンクバー、食後に、と断ってから、コーヒーゼリー、そしてマルゲリータピザをWチーズで、とリクエストして、オーダーしたの。

 そして様々なそういったものを食べながらいろんな話をした。わたしがオーダーしたものを待っている間に思ったことは、なんていうか、さっきとてもいいカミソリでひげを剃ったばかりなんですっていうような、そんなすべすべしている肌だった。わたしたちは早稲田出身だった。それで一気に話は盛り上がったの。まず校歌を全部歌えるかっていう話。わたしたち二人ともそれはできなかったの。でも中年になった早稲田の卒業生って、高い確率で、全部歌えるだろうねって笑いあった。そして在校生は結構、校歌なんて歌えないんじゃないかとか、当時どこらへんで、ランチを食べていたかとか、学食でうどんは八十円だったけど、何をトッピングしたかとか、そういう話をしながら食事をして最後にカプチーノを飲みながら、バニラのアイスクリームの乗ったコーヒーゼリーを食べた。

 でもね、わたしたちはとても意気投合して、サイゼリアだけじゃおさまりがつかないってう感情をともに味わっていた。でもお互いに、もっと話していたいけれど、それはどうなんだろうっていう、お互いの気持ちを推し量りながら様子を見ながら、っていう感じでコーヒーゼリーを食べていた。わたしは

「サイゼリアって確かワインもありますよね?」

って言ったの。そしたらその青年は、パッと顔を明るくして、

「飲んじゃいましょうか?」

って言って笑った。

 仕事の話なんて何にもしなかったな。ただ、青年はわたしの主人のことを話すと、真っ先にこう言った。

「いい車に乗ってるんだろうなあ」

ってね。

「ヴィッツよ」

わたしがそう言うと少し驚いたみたいだった。

「でもね、わたしBMWって初めて乗ったんだけどね、運転のことはわからない。免許を持っていないから。そしてエンジンとかそういうメカニズムもわからない。けどね、助手席の居住性っていうか、乗り心地はすごく良かった。でもね、ヴィッツの助手席の乗り心地だって結構いいのよ。それは多分値段に正比例していない。助手席のみに限って言えばね。だからね、わたしが思ったBMWっていうのは助手席に限って言えばBMWのマークに値段がきっとつけられている、そう思ったわ。そう、でも私にはメカニックなことはわからないし、運転とか先に言ったように、エンジンとかについてもよく知らない。だからその意味は、『助手席に限って言えば』っていうわけ」

男性は面白い話を聞くっていう顔で、わたしの話を聞いていた。

「俺たちは早稲田を出たでしょう? そうすると仲間内でスポーツカーのいいやつなんていうのも買うやつが結構出てくる。それでね、俺は前の車はハイブリッドだったのに、なんとなくBMに乗り換えちゃったんだ。俺を見て、車を見て、周囲の人は何かの意味をみつけだそうとするかもしれない。けれど、俺は流れに逆らわなかっただけでさ、つまり流れでBMWを買った。そしたら、マークジェイコブスの服を好んで着る、俺の彼女はとても喜んだ。あなたみたいに居住性をやけに誉めなかったけれど」

「それは、理解できるな」

「うん、そうなんだ。でも君の持っているそのバッグはKateSpadeでミュールはミュウミュウだろう? それに周囲はきっと何らかの意味をつける可能性はあるんだ。けれど君だって、その流れに逆らおうとはしなかっただけだろう?」

「でもね、高度成長期時代の大人たちのように、何かを得たいから残業も厭わないっていう風に、KateSpadeもミュウミュウも手に入れたわけじゃない。ただ、ふらっと買い物に行って、そのバッグであったりミュールであったりを気に入って、そして偶然、まあ、恣意的な偶然っていう変な言葉だけどね、そういう風にお金がお財布に入っていたから買った。そういうだけのものなのね」

「うんうん」

「そしてね、それがKateSpadeでもなく、ミュウミュウでもなかったら、それがとても安いものだったら、わたしがそれを買っていたかっていうと、それは自分でもわからない」


わたしは赤ワインが好きなの。ただそれだけ。その赤と白の味の違いならわかるけど、その赤ワインの味そのものの違いは分からない。だからそのサイゼリアのハウスワインも、わたしはおいしいと感じていた。けれどその仕立てのいいシャツを着た男性がその赤ワインをどう思っていたかはわからない。


「彼女はどんな人なの?」

「知人の紹介で会った。カウンターで二人でナッツを食べながらカクテルを飲んだ。それでなんとなく、付き合っているっていう感じになった。やけにガムをかむ。お会計の時に財布から出した金を投げるように置く癖がある。髪は長い。いつも前髪はまっすぐだ。そういう二四歳、フリーターなんだ。夏はたいてい、ショーパンを履いてるよ」

「その彼女、わたしとはあまり気が合わないかもしれない」

そう言うと、

「それが俺もなんだ」

と言って笑って、

「どうしてもここはダメなんだっていう点がある。セックスはいいんだ。だけど、楽になれない。くつろげない。安らげないんだ」

「でも女性って、普通そう染まっていく。その彼女が染まらないのは、あなたにもなにか理由があるんじゃない?」

そう言うと男性は黙ってしまった。何かを考えているみたいだ。

「つまり、こういうことだと思う。道連れにしようと思うほどに、俺はあの子を好きになっていない」

 そこら辺までは覚えているの。結構意味のある会話だった気もするし。けどね、そこからはお互い飲みすぎてしまって、ただ冗談を言い合ったり、笑ったり、少しだけ猥談めいた話をしたり、時折軽くテーブルを叩いてみたり、でも覚えているのは、その男性が

「旦那さんがうらやましいな」

って言ったことだった。それをわたしは何も考えずに

「そうお?そうでもないんじゃない」

と答えただけだった。

 そして朝方まで何本もの赤ワインを空けて、酔っ払ってしまって、ただの酔っぱらいのカップルっていう感じに見えるだろうなっていうそんな感じ。彼は運転代行を呼んでくれって、ウエイトレスに言って、しばらく待った。残っているワインを飲み干そうとして、わたしは急ピッチでワインを飲んで、彼はカプチーノを飲んでいた。

「猫舌じゃないのね。羨ましいな」

ってわたしが言うと、彼は

「猫舌の人が羨ましいよ。猫舌な人を見ていると俺は少し、さみしくなるんだ」

って言った。

 運転代行者が来て、いい車に乗ってますね、これBMWの一番新しい型ですよね。なんて言いながら運転席に乗る。運転も気をつけなくちゃあ、なんて言って笑う。でも後部座席にいた私たちは、幼い子供が押し入れの中で性的な遊びを、大人に隠れてやっているような雰囲気に包まれながら、けれどそう話すこともなく、国道四号をわたしはまた、景色ではなく、通り過ぎる等間隔に並んだ街灯を数えるみたいに、見ていた。そして男性はポケットから皮細工の財布を取り出して、

「これからも来てほしい。俺の事務所で働いてほしいんだ。そしていろんな意味も含めて。たまにはこうしてサイゼリアにも付き合ってほしいんだ」

わたしがバッグから財布を出してしまっていたら、

「グレースだね」

って言ったような気がする。

そして言ってたわ。

「なにか時折これじゃあ無理だって感じる。そんなものいちいち覚えてらんないよって感じる。俺は流れに逆らおうとも逆らってるつもりもないんだ。けど、その流れは、好きなタイプじゃない方向、なにか身体にフィットしない方向へ俺を流していく気がするんだ。でもさっき、君と話した通り、流れに逆らうのって不自然だし、意味がないだろう?そんな時はこの車に乗って、サイゼリアに来たいって思う。俺の彼女はね、君みたいにBMWの居住性の良さについては何も言わないのに、BMWが大好きなんだ。そういう意味を俺は嫌いなわけでもないし、軽蔑もしない。バカにしようとも思わない。そういうのわかるだろう? でもね、彼女はサイゼリアを嫌がる。一度一緒に行ったんだ。俺は案外おいしいだろうって言った。そしたら彼女はサイゼリアは、キチガイの集団と、貧乏人の集団がドリンクバーを飲むところだって言った。それは少し許せなかったんだよ。だから、君に時々こうやって深夜、サイゼリアにつきあってもらうかもしれない。いつもと違う場所、いつもと違う時間帯、そんな風になにかをサイゼリアで食べたり飲んだりしたいんだ」

 

どうして裸足かっていう問題に戻るけど、つまりお酒って、急ピッチで飲むと、酔いがすごく早く回るっていうこと。わたしは帰りの車の中で揺られながら、身体につけている何もかもを脱ぎたくなったの。酔うとそういう人っているでしょう? 私もそうなの。でも車の中でなにもかもっていうわけにはいかなかったから、取りあえず、ミュールを脱いだ。そしてセブンの近くの事務所で車を降りたとき、自分が裸足だってことにすら気が付かないほど酔っていた。多分彼もそうだった。それで歩いてここまで来てしまったっていうわけなの。

 

 「ふうん。そうなんだ。短時間でしかも楽しく三万円を稼いだっていうわけだね」

「まあ、そういうことになるわよね」

「で、その男性は君に好意を抱いていて、尚且つBMWに乗っている。君のご主人は、大きなメジャーな雑誌の副編集長で、それなのにヴィッツに乗っている。そうだね?」


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