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HAPPY END  作者: 多奈部ラヴィル
14/18

冒険へ

わたしはまた走り出した。マツキヨがある。さっきセイムスの前を通った気がする。ドラックストアがこんなに近くにあったら、競争が激化しないのだろうか。エリクシールシュペリエルの化粧水、コットン、柔軟剤、トイレ用洗剤、タンスにゴン、2リットルのコーラ、様々なイメージが浮かんで消え、それらはどんどん過去になっていく。今いる、このアスファルトは今だ。ただそれだけだ。電気は消えているが、大きな本屋の前を通る。漫画、旅行書、パソコンの実用書、辞書、様々な本の背表紙が浮かぶ、それらはみな既視感によるイメージでしかない。そしてそれらも瞬時に過去になっていく。

 中古車屋が見える。とても大きなスペースに、車が並んでいる。初めに目に入った時は、それらはくすんんだ灰色の大きな塊に見えた。そして近づいてみると林立するたくさんの中古車だとわかったが、それでもみな灰色に見える。日本にはどうしてこうも、車が多いのだろう。日本をはみ出さんばかりだ。それなのに高いお金を払って、人々が車を買うのは、きっと実用性だけではなく、女子が高いブランドのお財布を好むのと本質的に一緒なのだろう。高いお財布も高いバッグも高い車も、こういった灰色にしか見えないような中古車もすべて百均で売ってしまえ思う。そう思ったとき、わたしは左傾していて、ブランドをバカにしているのだろうかと思ったが、わたしのバッグには確かにKateSpadeと書かれている。

 目の前はT字路で、わたしは右か左かの選択を迫られた。その道はとても広く、先が内向きに曲がった街灯が、等間隔で並んでいる。そして歩行者は全くいないのに、走っている車はやけに多い。まさか、近所に大きな中古車屋があるからっていうわけでもないのだろうが。わたしにはかなり早いスピードでわき目もふらず走っているように見える。

 そのT字路の角に大きなパチンコ屋があった。閉まっているがネオンはついている。そしてそのネオンが所々欠けていて、それを見たとき、わたしはなぜか「懐かしい」と思った。それとともにそのパチンコ屋の風景が、「芸術的」に見えた。なにか涙が出るようなよく分からない感覚が込み上げてきた。わたしがわからず、どこに行けばいいのかわからず、追われているような気もして、今どこにいるのかさえわからない、それ故の涙なのかもしれないし、それ故の涙ではないような気もした。不思議な涙だった。涙というのは不思議なもので、悲しい時に涙を流すという限定はできないものだ。なにか理由のわからない感情で涙をこぼしてしまうこともある。感動の涙っていうわけでもなく。わたしはしばらくパチンコ屋を眺めながら、涙をこぼしていた。涙はその源泉が枯れることはないらしく、ただひたすらぽろぽろと流れていくばかりだ。車の往来が多いせいかすすけた壁、欠けたネオン、それを見上げながら、しばらくの間立ち尽くし、涙をこぼし、そして涙を止めようとバッグから土で汚れたハンカチを出し、それを裏返しに畳んで、涙を押さえた。懐かしいと思ったが、それはわたしが以前、パチンコを好んでよくしていたっていう感じではなかった。パチンコ屋の店内の雰囲気は知っているような気もするが、それほどその想像に親しみも持てない。けれどその外観なのかもしれない。それはとても懐かしく、それによって次々と生み出される感情に、わたしは涙を流し続けたのだと思う。

 わたしはパチンコ屋のしまったシャッターに寄りかかり、脚を前に投げ出してタバコを吸った。なぜか当分タバコは吸えないだろうという予感があった。パチンコ屋はT字路の角にあるのだ。どちらに曲がるか決めかねた。そして迷路のような住宅街を歩いているとき、曲がる、どちらかに曲がる、それとも前へ進む、そういう判断はなんの根拠もなくって、ただ急いでいただけだと思い返す。今の方が心に余裕があるのだろうか。そんなわけでもない気がする。道路のせいだっていう気がするのだ。大きくて両側に汚れたガードレールがあって、街灯が等間隔に並ぶ大きい道路。そこは迷路みたいには見えなかった。

 リストカットや泣き止んだ後っていうのは、必ずホッとするものだ。とても甘いココアのような余韻が残る。それはしばらく続く。わたしは涙のせいなのか、その後に吸った一本煙草の性なのか、しばらくパチンコ屋のシャッターに寄りかかったままでいた。そしてそのしばらく後に、そのT字路をどちらに曲がるか考えていた。

 そして走ることを止めた。疲れからだった。さっきまでどうして疲れていなかったのだろう。パチンコ屋を見ながら泣いた後は、ココアの余韻と疲れだった。そして状況は全く変わっていないのに、不思議な安心も感じた。

 そしてガードレールの内側を歩く。街灯はあるが暗い。そして私にとっては暗くてよかった。それなのに、ひっきりなしに通る早いスピードの車たちのヘッドライトの灯りがまぶしくてうるさく感じる。わたしはとぼとぼと歩いた。「とぼとぼと」としか言いようのない歩き方だった。歩く私の姿を見る人がいたら、

「お姉さん、どうしてそんなにとぼとぼと歩いているの?」

と聞くだろう。それに対するわたしのこたえはまだ白紙だ。

 ただ歩く。わたしはもう疲労を知ってしまった。知らなければよかったとも思うが、知ってよかったとも思う。疲労は真実だったからだ。それは今のわたしが捕まえられる数少ない真実だった。

 そしてもしかしたらわたしは徐々に私固有の真実に近づいているのかもしれないと思った。疲労も真実だし、涙も真実に近づいてるサインに思える。そして左に曲がったが本当に左でよかったのだろうかと思い、そして左を信じるべきだと思う。前世からセブンイレブンのアイスコーヒーは溶けないのだと思っているかのように、動かない。そうあるべきだと思いなおす。そう。左だ。それは当たり前のことなのだ。

 しばらく歩く。そう「とぼとぼと」だ。どれくらい歩いたのかわからない。せめて腕時計でもしていたらよかったのにと思う。バッグの中にスマホが入っていなかったことにはとっくに気づいている。そしてそれはわたしを不安に引きずり込んだ。それは緑色の沼のようだ。底にある石に緑色の藻がびっしりと覆っている。その中へゆっくりと沈んでいくような感覚を感じる。

 昔からわたしは距離を時間で測っていたような気がする。パチンコ屋からここまで何メートル歩いたかなんて、わたしにはよくわからないのだ。徒歩5分。そういう風に距離を測っていたような気がするのだ。わたしの家から駅までは徒歩一0分、スーパーまでは自転車で5分、サンクスまでは信号が青であれば徒歩一分。そんな風にだ。しばらくそんな風に歩く。まだ涙の余韻は少しだけ残っていて、心がさみしくない。温かいまま歩く。それっていうのはもしかしたら、わたしが味わうことのできる最大の幸福なのかもしれないな、と思ったりもする。

 

するとガードレールを挟んでわたしの横に一台の車が止まった。BMWだった。そして運転手が顔を出す。髪は短すぎないが短髪で、ひげも剃られていて、服装は水色のストライプの綿のシャツを着ている。三〇代前半だろう。そして運転手はわたしに

「お姉さん、どうしたの? こんなところで。はだしじゃない」

わたしは躊躇した。どうしたの? こんなところで。はだしじゃない、という問いに答えるには、相当冷静に今のわたしを考えなければならないし、はだしの訳も言えない以上、徹底的に初めから終わりまで破たんのないウソの物語を作らなければならない。そして何も答えずにいると、

「僕にはよく分からないけど、こんなところを歩いていても仕方がないし、送ろうか? 時間なら余裕があるんだ」

と言ってくれた。わたしが疲れていなくて尚且つ自分がどこにいるのか、そしてどんな手段を使えばどこかにつけるのかそういったまとまった理解があれば、その提案をおそらく断るだろう。けれどわたしは疲労していた。唐揚げを数個食べただけで、睡眠もとらず、歩いたり走ったりを繰り返し、結構な距離を来たような気がするのだ。だからそのわたしの感じる疲労はわたしにとって数少ない現実にある真実だ。遠くでバイクの音が聞こえる。そのバイクは年がら年中止まる。新聞配達なのだろう。もうそんな時間だっていうことはかなりの距離を進んだはずだ。けれど空は暗く、月も星もまだ出ている。

 「じゃあ、お言葉に甘えて送ってもらおうかな」

わたしは笑ってそう言った。そして助手席へと回り、そのBMWのドアを開け、乗り込む間に様々な空想がすばやく浮かんだ。

「この人にきっと何かの注射を打たれるのだろう。そしてレイプされ殺される。わたしが捨てられる場所はどこかの山奥だ」

そして、それならそれでもかまわないと思った。デニーズにさえ入れないのだから。わたしはそういう身分なのだから。

 助手席に乗って、素早く男性の身なりを見る。チノパンに、茶色い皮のベルトをしている。とてもしっかりしたつくりのベルトに見える。靴はVANSだった。ストライプのシャツのポケットには、何かのロゴが付いている。メンズのブランドには多分私は詳しくない。とげとげしいわけではないが、洗練された上質で普通の格好に見える。そして車が走り出すとともに、バッグを開けた。わたしはもしかしたら助手席でタバコを吸う習慣があったのかもしれない。とっさにタバコを出そうとしてしまったのだ。そしてバッグを開けてしまったことにバツの悪さを覚え、財布を出して札入れに入っているお金を数えた。一万あった。一万、唐揚げ、粉々に割れた花瓶。

「どこまで送っていけばいい?」

と男性に尋ねられて、すぐに

「新越谷の駅から来たの」

と答えた。

「新越谷? 本当に歩いてここまで来たの? だってここはイワツキだよ。この道路は国道四号線」

「あまり来たこともないから、よく地理的なことはわからないんだけどね」

そう言いながら、身体が震える。それにつられて言葉も震えてしまう。わたしは寒いのだだろうか?

「ごめん、寒かった?」

「ううん、違うと思う。ただ、なんていうか、主人以外の人と車に乗るなんて、タクシーくらいしかないから、少し緊張してるのかな」


わたしは都内のマンションに住んでるの。新越谷まで来たのはね、友達の引っ越し祝い。ホームパーティーっていうやつで、わたしは準備も手伝う約束をしていたから、昨日の午前中から、新越谷にいたの。そして泊る準備もしておくから、手伝ってくれたらしこたま飲んでって言われてた。わたし料理は結構嫌いじゃなくって、少し、なんていうんだろう、張り切ってたっていうか、よし、おいしいものを作るぞっていうか、そんな勢いで新越谷に着いたのね。

 少し話は変わるけど、あなたの格好ってとっても素敵ね。特にシャツがわたしには素敵に見える。

 そしてね、駅までワゴン車で友人はわたしを迎えに来て、そのついでにホームパーティーの買い物も兼ねようっていうことだった。よく知らない、大型のスーパーの屋上に車を止めて、買い物をしようとガラガラを引きながら、スーパーの中を歩いたわ。

 わたしにはね、いろんなものが目に映るの。大根もお豆腐も、ニンジンもひき肉もね。でも不思議なの。その友人にはそういう大根とかお豆腐、ニンジンやひき肉って、見えないらしいのね。たまに私は声をかけるの。

「ねえ、ピーマンは必要じゃないの?」

そんな風にね。するとその友人は答えるの。

「今は、必要じゃないわ。これからは必要になるかもしれないけれど」

 大根もお豆腐もニンジンもひき肉も、みんなそういう風だった。つまり、

「今は、必要じゃないわ。これからは必要になるかもしれないけれど」

っていうわけ。そして彼女がガラガラに乗った、買い物かごに入れていくのは、大量のクラッカーであったり、大量のスライスチーズであったり、大量のパセリであったり、大量のローストビーフだったりした。わたしはそのローストビーフを見ながら思ったことを友人に言ったの。

「ねえ、あなたの新居にはオーブンがないのかしら?」

もちろんある。そう答えたけど、彼女はなんでそんな不思議なことをわたしに尋ねるのだろう? っていう表情だった。そして彼女は次々とローストビーフをかごに入れていった。そして大量のヨーグルトも入れたし、ビールやチリ産の赤ワインも入れた。それもたくさんね。

 そして私は言ってみたの。

「ねえ、スープは作らないの?」

わたしはもちろん作るって言うと思っていた。そう彼女がこたえたらすぐに、ポトフなんてどう?って聞く準備ができていた。それなのに、彼女は、

「ポトフってジャガイモがはいっているでしょ?私ジャガイモ大嫌いなの」

そう言うの。わたしは手伝いに来たはずだったのに、買い物の時点では何の役にも立っていないみたいだったから、どんどん自信を失っていった。ポトフを作ることになったら、わたしが作ろうって思っていたのにね。

 こんな話つまらない?


「ううん。その君の友達がとても興味深いよ」


 そうよね、その友人っていうのは学生の頃からの友人でね、わたしたちは今二七歳なんだえけど、結婚した時期もたいして変わらなかったし、お互い子供はまだ作らないって決めていた。そしてBAとしてカウンターに立って、それはね、違うブランドだったんだけど、わたしはドメスティックコスメで彼女はランコムだった。そういう違いはあったけれど、人生の送り方がとても似ているって思っていた、そういう友人だった。そういった、人生の送り方が似ている友人が、スーパーで、ホームパーティーを開くにあたって、かごに入れるものが、わたしとは明らかに違うっていうことに、わたしは少し驚いていた。けれどその友人はなんとも思っていない様子だった。わたし変なことまで考えたわ。ランコムの呪縛かしら? なんて。そんなはずはないのにね。

 でもクラッカーやチーズ、パセリなんかじゃ、とてもホームパーティーはできないはずなのに、彼女はお会計を済ませた。ワインが結構高いものだった。

 そしてね、二人で手分けして重い荷物………、つまり大量のお酒ってわけだけど、それらをガラガラからワゴン車に移した。友人は、

「ねえ、いっぱい買ったようで、こうしてワゴン車に乗せるとちっぽけに見えない?あなたもこの前ワゴン車を検討中って言ってたけど、買い物の醍醐味を味わいたければ、ワゴン車より小さい車の方がいいと思うな。それこそ軽でもいいわけでしょ? 二台目なんだから」

「そうね、それも考えてみるわ」

そんな会話をしながら、彼女の新居に向かった。

 彼女の旦那さんっていうのが、出版社の編集長をしていたの。そしてわたしの旦那がフリーランスのライターだった。うちの旦那の仕事が厳しい時期、わたしが頭をさげて、その友人の旦那さんに、仕事をもらってた時期もあった。けれど、うちの旦那も女性のファッション誌を立ち上げてそれの副編集長になって、今はそれほど困っていなかった。だから人生の曲線も、一時期は離れてもまた似通ったものに自然となっていった。そしてその旦那たちが立ち上げたファッション誌は、とても売れたの。若い主婦層向けで、キャンキャンとか、JJとか、姉キャンを読んでいた層を丸抱えにして、独身の時ほど自由にお金は使えないけれど、おしゃれはしたいっていう漠然とした思いを抱いていた若い主婦層を丸抱えにしたっていうわけだったから、かなりメジャーな雑誌になったの。その副編集長をしているわけだから、それ程お金にも困らなかった。

 けどうちの旦那が仕事の幅が広がれば広がるほど、帰る時間は遅くなっていった。わたしにとってそれは少し寂しいものだった。それから、わたしも仕事の帰りに料理教室に通うようになった。料理教室っていうのも一口に言っても、いろいろあるわけ。お嫁に行く前にっていう教室から、プロになるための教室まで。わたしはさすがに初歩の初歩、包丁の握り方はこうで、っていう教室は端折ったけれど、その上の教室から順番に通って最終的にはプロの免許もとった。様々な創作料理だって作れるようになった。ねえ、知ってる?鶏の胸肉を柔らかくするのは砂糖で、鶏のささみを柔らかくするのは塩なのよ。不思議よね。同じ鶏なのに。今でもそれは不思議でしょうがないの。それからまた、栄養士の免許もとって、毎晩様々な料理を作った。

 ある日少し酔って帰って来た旦那が

「夕飯だけは家で食べたいよなあ」

って言ったの。どうして? って聞くと

「安らぐんだよ」

旦那はそう言ったの。わたしとっても嬉しかった。忙しくても家で一緒にご飯を食べようって思ってくれる人とこれからもずっと一緒に暮らせる。それは私にとって、ものすごくうれしくて、幸福なことだったの。あなたにはわからないかもしれないけど。

「夕飯だけは家で食べたいよなあ」

「安らぐんだよ」

この言葉を忘れることはなかった。なにか少しの困難が、とても深い絶望に見えることってあるでしょう? でもその言葉は呪文のような、お守りのようなもので、思い出せば必ず、幸福の中にふわふわ浮いていて、それでいてリアルなものに感じられるの。そういう言葉だった。

 話は少しそれちゃったけれど、友人の家に着き、それはとっても素敵でセンスのある装飾のついた一軒家ではあったけど、まだ、生活感はなくって、耳かきとか爪切りってどこにあるんだろうっていうような家だった。けれどリビングに入って驚いたわ。リビングのテーブルにもダイニングにも、料理はぎっしりと並べてあったし、冷蔵庫の中を見せてくれたんだけど、その中には様々なデザートが入っていた。冷凍庫にはいろんな味のシャーベットが入っていたの。そしてわたしは不思議に思って、

「もう料理は済んだの? わたし手伝うつもりだったのに」

と言うと、

「これらはまだ、多分食べられないわ。楽天で買ったの。みな冷凍よ。こうして皿に盛っておけば、夕方までには食べれるようになるわ。そしてね、もちろんあなたに手伝ってもらう。クラッカーにチーズを切ってならべてくれる?」

わたしは友人の言う通り、クラッカーに切ったスライスチーズを置くっていう単純作業をしたわ。そして彼女はその上に、スプーンでキャビアを乗せていった。そして鍋には赤いスープがあった。

「これ、ミネストローネ?」

と聞くと

「よくわからないけれど、チリソースが入っているらしいの。辛いはずよ」

 そしてご主人が帰って来て、わたしの主人の近況を聞いて、それはよかったって言って笑って、ベランダに出てタバコを吸っていたから、わたしもついでにっていう感じでベランダに行ったの。友人はランコムに勤めるようになってから禁煙しているの。そして、なんだかこう言うのもなんですけど、って前置きをして、彼女、いつもこういう感じなんですか? って聞いたみたの。なんのこと? って旦那さんは不思議そうな顔をした。そしてわたしが料理のことです。って言うと、ああ、家で夕飯を食べるっていうのは、安らぐものですよ。って言った。

 夕方になると徐々に人は入れ代わり立ち代わり訪れて、みな奥さんの手料理はプロ並みだって言う。それにたいして友人は微笑んで、

「ワインもうちょっとどう?」

って言うだけで、ご主人は

「こいつの取柄は料理だけなんでね」

ってゲラゲラ笑うの。わたしも急ピッチでワインを飲んだ。なんだか次元の狂った、時計が逆に回っていくような世界にいるような気がした。そしてわたしはその日に帰るっ言って聞かなかった。そう言っているのにわたしはそれでも急ピッチでお酒を飲むことを止められなかった。いいの、タクシーで駅前で行くわ。あなたも旦那さんもう結構飲んでるし。

 そしてベランダに出てワインを飲みながらタバコを吸って、アナログの時計が逆に回っているところを想像したら、急に目の前が真っ暗になった。次の記憶はもう新越谷よ。それから次の記憶がこのBMWっていうわけ。多分私、BMWに乗ったのって初めてよ。中はとっても静かで居住性がいいのね。わたし車には詳しくないし、エンジンがどうとか何も言えないけれど、乗っていて心地いいって言うことだけは言える。本当に気分のいい車なのね。BMWって。それだけの価値があるのね。ブランドだけなのかって思ってたけど。あなたのシャツもどこかのブランドなんだろうけど、それ以上に素敵だわ。

 

 車窓を見ながら話す。外の景色はすばやく移り変わるがたいして興味もない。暗い国道四号線をBMWは静かに走っていく。とても静かに。

わたしは思わずまた、バッグを開けてしまった。話の潮にっていう感じでタバコを思わず吸おうとしてしまったのだ。そして禁煙を強いられていることを思い出し、また財布をを取り出してみた。そして今度は小銭を数えた。五百円くらいはありそうだ。

 そんな風に小銭を数えていたら、男性が、

「そのバッグ、KateSpadeだね」

と言う。

「そうよ。気に入ってる。けど小さすぎるのよね。わたしはタバコを吸うんだけど、ううん、そんなにヘビーに吸うわけじゃない、けど、必ず必要なもの以外にタバコを入れるとほら、こんな風に歪んじゃうの」

「でもそのバッグは趣味がいいと思うよ」

「そう? ありがとう」

「お金欲しくない?」

それははっきりと不穏な音を含んでいた。その不穏さをスナックのホステスがやるように消し飛ばそうと高い声で

「当たり前じゃない。お金はあればあるほどいいじゃない?例えばお兄さんとモロッコへ船旅に出れればいいのにね。お互い仕事なんか忘れて。そうね、一カ月とか。何着もドレスを持ってね」

「お金欲しいんだろう?」

わたしはしょせんそういう身分なんだってことを改めて知らされる。なにかを、それはもしかしたら大切な何かを、捨てて、それでも進むのを止めず、犬のように探し回る。近くしか見ないで。わたしは男性に、聞こえるか聞こえないかっていうほど小さな声で、

「お金、欲しいです」

と言った。ずっと流れてきた。流れに逆らわず流れてきた。今更なにか大切なものを捨てたとしても、流れに逆らうわけにはいかないのだ。そういう身分なのだから。

「おしっこしてるところを見せてくれたら一万円、そしてパンティを一万円で買うよ。どう?悪くないだろう? やることは短時間で済むし、簡単だ。それで2万ならいい稼ぎだろう? そして新越谷の駅までは送るよ。この居住性のいいBMでね」

 車は静かに国道四号線を走っていく。そうですね。居住性とやらがいいですね。そしてここまでか、ここまでか、と思う。それは涙を誘うような感情ではなかった。ここまでなのか。男性はなにかを探しているようだ。そしてわたしは流れに逆らわずこの道を進んでいくとしたのなら、男性の目の前でおしっこまでしなければならないのかと思って、ここまでか、ここまでか、と胸のうちで繰り返す。そう大切なものと交換する二万円にも思えないが、とてつもなく大事なものを二万円で失うような気もする。国道から県道に入り、男性は照明すらない古着屋の広い駐車場に、BMWを止めた。そしてヘッドライトをつけたまま降りて、わたしの方をふりかえり、降りるように目線で示めす。駅から離れた郊外にある古着屋独特の暗くて広い駐車場だ。ところどころをフェンスで囲んである。男性は、そのフェンスの位置を私に指示した。それはBMWのヘッドライトに照らされたフェンスの前だった。わたしがのろのろとためらっていると、男性は

「早くしろよ」

と言う。わたしはパンツを脱いだ。多分薄いピンクのレースのパンツだ。それを奪うように男性が、手を出し、見ることもなくチノパンのポケットに入れる。そしてわたしはしゃがみ込んだ。トイレがない以上洋式のトイレのように用を足すことはできないから、和式のトイレのようにしゃがんだのだ。随分前から少しの尿意は感じていた。そして確かにBMWの中でトイレに行きたいと思い、新越谷に着いたらトイレに行こうと思っていたはずだ。それなのに、なかなかおしっこは出てこない。男性はまた、

「早くしろよ」

と言う。男性の姿も景色もBMWも何も見えない。ただ猛烈にまぶしい光が見え、その中にすっぽりと入っているっていう感じしかしない。つまり現在のわたしの世界っていうのはまぶしい光でしかなくて、見えるのも目を閉じたくなるようなまぶしい光だ。誰もいない。そう思おうとして、完全にそれを成功させることはできなかったが、前世からわたしはまぶしい光の中で用を足したと思い込もうとし、前世の記憶は、と思った瞬間、やっとおしっこが出てきた。泣きそうになりながら、でも一方で、妙に覚めた気分で、おしっこをし続けた。勢いよくではなく、ゆっくりとだ。おしっこはアスファルトが吸い込むはずもなくただ広がっていく。そしてはだしの足もおしっこは浸していく。大分長い時間そうしていて、やっと終わった。

立ち上がるわたしに男性は笑いながら言う。うんこができたらあと三万やってもいいのに。わたしはまた小さい声で、

「今は出ないです」

と答え、男性が財布から取り出した二万円を受けとった。

「写真を撮らせてくれ。このパンティーが誰のものかわからなくなっちゃうからね」

そう言ってダッシュボードからスマホを取り出し、わたしにこちらを向くよう言って、顔の写真を撮った。

「見る?」

そう言われたが、わたしは首を左右に振って、

「いえ、いいです」

と言った。なぜならそこに写っているわたしは、目が性的変態のように垂れ下がり、口元は閉じようとしてもだらしなく開き、口角に泡がついている、そういう顔に決まっているからだ。 

その後の男性は、まるで人が変わったように、初めに受けた、30代前半の好青年っていう風にふるまった。空調の加減を私に聞き、後ろの席にブランケットがあるとわたしに教え、なにか飲みたくないか、コーヒーを飲みたくないかなど、こまごまとわたしに思いやりを持っているように接した。

「ここから、新越谷まで、どのくらいかわからないですけど、目を閉じてもいいですか?」と尋ねると、ここからは30分くらいだ。そして助手席を少し倒してブランケットを膝にかけて目をつぶるといいよと言った。そして男性に言われたとおり、シートを少し倒して目を閉じ、ブランケットを頭にかけた。そして目を閉じたまま聞いた。

「あの、このブランケット素敵ですね。どこのですか?」

男性は

「フランフランで買ったんだけど」

とだけ答えて、もう何も言わなかった。わたしの中にあるのはこのブランケットは趣味がいいということと、ただのまぶしすぎる光だった。


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