冒険へ
・痴呆
電車が止まった。駅のホーム、駅名を見ようと、上半身をずらして、前かがみになって窓をのぞく。知らない駅名だ。そして電車内の見慣れない光景。どうやら知らない路線に乗っているようだ。すれ違う電車の車体の色も初めて見るものだ。
どうやらわたしは何回か乗り換えをしたらしい。そうでなければこんな電車に乗っていないはずだ。外は薄暗く、ここからは明日が絶対に来るっていう希望のような夕日さえ見えない。
電車に乗っている人は少なく、わたしの正面にグレーのスーツを着てポールスミスらしいブリーフケースをもった、若い営業マンのような男の人が座っている。ブリーフケースの隣には「TAKASHIMAYA」と書かれた白に花柄の紙袋が並んでいる。そしてわたしの少し横にはボーダーの半袖のカットソーとゆるそうなデニムを着て短い髪を後ろで黒いゴムで束ねている女性が、ベビーカーを押さえながらぼんやりと中吊り広告を見ている。そんな風に人はまばらだし、今の季節感が今一歩わからない。他とは違った色の、優先席に座る若い女性は、ショーパンだが長袖のスウェットを着ているし、その女性の前につり革をつかんで、ひざを折っている若い男性は、Tシャツの上にナイロンのライダースのようなアウターを羽織っている。わたしはなんとなく首元を触った。なにかが巻き付いている。後ろ手にその「なにか」を外す。ベビーパールのチョーカーだった。そしてまた身に着けた。電車内の空調を少し寒いと感じるわたしはというと、つるつるとしたグレーの7分袖のワンピースに首にチョーカーのようなベビーパールのネックレスをしている。今はどんな季節なんだろう? スーツとスウェットと半袖とライダース、そしてわたしの七分袖。
そしてわたしは自分のバッグを見てみる。「Kate spade」と書かれた黒い小さなバッグ。持ち手は黒とゴールドのチェーンで、バッグにはなんていうんだろう、黒地にベージュのキリンのような模様が施されている。一瞬バッグの開け方がわからなかった。その瞬間はとても不愉快でスリリングだった。いつのことかわからないが、わたしはスリルしか求めない時期があったような気がする。けれど今のわたしはどうやらスリルを求めていないらしいということはわかった。そしてなんだ、このスナップを外せばいいんだ、と気が付いたとき、失くしたはずがないとわかっている、でも見つからない口紅をパウダールームで見つけることができず、プロントでバッグから本を取り出そうとしているときに、大きめのトートの底にコロンと転がっているのを見つけたような、当たり前のような、それでいて少しうれしい、そんな気分になった。
バッグの中にはFrancFrancと書かれている小さな鏡、ベージュにスタッズのついた財布、ディオールのピンクの口紅、パスモが入っていた。あとはそんなに高級そうでもないハンカチと、丸まっているポケットティッシュ。それで全部だ。そして少し安堵する。わたしはどうやら遠くまで行くつもりは毛頭なかったようだ。だって財布にはクレジットカードも入っていないし、入っているお金だって一500円くらいだ。一500円、正確に言えば一447円だ。
きっとわたしは否定しながらここまでやって来てしまったのだろう。きっと否定するたびに電車を乗り換えたのだろう。わたしは何かを探しているんだろうか? ううん、違う。わたしはなくしたものを取りに電車に乗ったのだろうか? ううん、違う。 わたしは誰かと会う予定だったのだろうか? ううん、違う。わたしは遠くの海を見たかったのだろうか? ううん、違う。わたしはどこかとても高い所から下を見下ろしたかったのだろうか? ううん、違う。恋人に会うために電車に乗ったのだろうか? ううん、違う。どれも違う。はっきりとは言えないけれど、どうもわたしには、わたしが「そんなタチじゃない」、そしてそれを「それほど気にならない」、そう思えるのだ。
そうじゃない、ううん、違う、そうやって何回も電車を乗り換えて、ここまでやってきたのだろう。わたしは手を見る。電車の照明というのはなんだか生々しい。遠慮もない。いつでも冷静さを求める。それは人にたいして優しくないし、時に残酷じゃないかとも思える。そしてそんな風に考えるわたしは、もしかしたら、回顧主義のロマンチストのさみしがり屋でしかないのかもしれないなんて思ったりもする。そして今どんな照明をわたしは求めているのだろう。電車の照明じゃなければ何なのだろう。それとも深夜のすかいらーくのような、慰めるような照明なのだろうか? どっちなんだろう。でも多分、今起きたような気分のわたしにはリアルな夢と現実の中間のような、やっぱり電車の照明がぴったりくるような気もする。手を見ると爪は切りそろえられているけれど、何も塗られていない。何も塗られていない爪が、かろうじて「生きています」と言っているようだ。老いも表現してはいないけれど、若さだって表現されていない、そんな爪に見える。ふと、だいぶ昔に爪の形がきれいだと褒められたのを思い出した。次の駅までには思い出そう、そう思った。それはどんなシチュエーションで、誰に褒められたかっていうことだ。「誰に」と特定できなくても、男性か女性かくらいは思い出したいものだと思った。
電車内の風景は相変わらず変わらない。おかしな電車だなと思う。カップルとポールスミス&タカシマヤ、ベビーカー&ママ。今ママは、向かいの「永久脱毛を一000円で」という広告を熱心に見ている最中だし、カップルは今は優先席のシートに並んで座っている。営業マンはスマホに夢中だ。カップルは時々大きく笑う。そしてわたしはただの傍観者なのだな、とその時やっと気が付いた。そして誰に爪を誉められたかっていうことも、結局は思い出せなかった。少しだけ思った。どこでどんなシチュエーションで誰に爪を誉められたかっていうことを思い出すことができれば、もしかしたら当事者になれるのかもしれないなんてことを。
目をつむって下を向き考える。初めは「当事者」ってなんだろうと考えていたような気がする。初めは、だ。そして少し、「わたしが当事者になるなんてありえない。多分ずっと傍観者だ」と思ったような気もする。けれどそのままぼんやりしてしまったらしい。ふと明るい所に出たように、周囲を見渡すと、優先席に座っていたカップルはもういなくって、営業マンの座っている座席の中央あたりに、30歳程度に見える男性が座っていた。男性は長い間髪を洗っていないらしく、髪はべとべとで、着ているグレーの中綿の入ったブルゾンの肩まわりは黒い油で汚れている。そしてしわだらけの緑色の和菓子屋の紙袋からワンカップを取り出して飲みはじめた。別にそれが珍しいことだと思ったわけじゃない。その男性に特に注意を払ったわけじゃない。ただ、一瞬、違和感を感じ、その後の一瞬、そういうことだってあるだろう、そう思っただけだ。けれどその男性は、
「見るな!」
と叫んだ。わたしはまた「そういうことだってあるだろう」と思い、視線をずらせた。座席の端に座っていたポールスミス&TAKASHIMAYAは、車両をわたしから見て右に移っていった。沈黙していたこの不思議な車両にTAKASHIMAYAの紙袋のガサガサという音が、ポールスミス&TAKASHIMAYAの運命の音のように響いた。それはとても不思議な音で、耳に心地よく響いた。
この電車は多分宇宙を走る電車で、終点などないのだろう。そうかといって山手線のようにぐるぐる回るわけででもなく、いつまでもいつまでも遠く走っていくのだ。この車両の中、今つながっているのはわたしとワンカップを飲んでいる、髪を洗っていない男性だ。他につながっている者同士などいない。
「ねえ、ねえ、つながれたね」
とそのワンカップに言いたいような気もする。けれどそれはできっこない。わたしはその代わりに目を閉じた。
静かだ。とても。こんな静けさにわたしは、洗濯物を畳みたくなる。洗濯物を干すっていうことと、畳むということ、どちらかといえば干すことが好きな人の方が多いらしい。けれどわたしはテレビもつけず、音楽も聞かず、空調と空気清浄機の音だけが響く、そんな部屋で洗濯物を畳むのが好きだ。それはとてもリラックスできて、ホッとする。夕方取り込んだ洗濯物はほっこりと温かく、そして柔軟剤の香りがし、タオルもやわらかだ。それを畳むということ。とても丁寧にたたむということ。わたしはその行為や時間が多分好きだ。洗濯物は多分、夕方に取り込む。夕日が明日もまた来ると約束をするように洗濯物を照らしている。そんな太陽の恩恵を受け、ほのかに温かい洗濯物たち。
今、例え夕日が明日もまた来ると言っても、今のわたしには明日なんて見えない。多分生きているんじゃないか。それくらいだ。
この車両の中の乗客、また外にいる人たち、皆明日は確信しているだろう。もしかしたら明後日もかもしれないし、もしかしたら一週間後も、一か月後も。でも遠い未来を思う時、どういう気分になるのだろう。飽き飽きだ。うんざりする。そう思うんじゃないだろうか。それはもちろん、アイドルを目指していてモデルを目指していても、資格をとろうと勉強していても、ふっとその飽き飽きなんだ、うんざりなんだ、は隠れるようにその人の中に入り込む。とてもタチの悪い病気のように。その病気が全身にまわればおそらく人は死ぬだろう。わたしは別だ。遠い未来に希望があって、明日はよく見えない。明日に確信なんて、まるで持てない。遠い未来に先に進んで、行きすぎてしまったら、あるのは死だけれど、わたしにはその死の一歩手前か二歩手前にはあいまいな希望を持っている。
髪を洗っていない、ワンカップの男性を誰も見ようとしない。それはとても意識的に見える。今までだってお互いに視線を向けたりしなかったけれど、それはなんだか特別に、その男性を空気のように扱おうと、皆軽い努力をしているみたいだ。そしてそれこそ、男性の求めている空気だ。今男性は静かに電車に揺られながら、ワンカップを飲み、宇宙の果てまで旅をするつもりのように見える。宇宙に浮かぶ電車に揺られながらワンカップ。それはとても心地いいはずだ。わたしも何か強いお酒が飲みたいなと思う。
そしてふと足元を見た。ミュールからのぞく爪には濃い赤のペディキュアが塗られていて、それを見た瞬間、なぜかぞっとした。なんだか足が偽物のような、くるぶしから下だけ切断されているような、そんな気がしたからだ。足だけが確かに何かを求めていた。それはもしかしたらセックスかもしれなかった。けれどそうじゃない何かかもしれないし、何かはわからない。でもわたしはその濃い赤いペディキュアを塗られた爪は、多分何かを欲していると思った。足以外にはどこにも何かを欲するような明確なマークなど見当たらないのに。お金だろうか。そうだ、お金かもしれない。わたしはお金を稼ぐべきだ。
ベビーカーを押さえるママは相変わらず「永久脱毛一〇〇〇円」の広告に見入っている。この女性は宇宙の果てまでずっと、「永久脱毛」と「一〇〇〇円」について考え続けるつもりなのだろうか。わたしにとってそう重要でもない情報が、この女性にはとても重要なのかもしれない。
わたしはどのタイミングで電車を降りようか考え始めた。どうやらわたしは考えるときに目を閉じる癖があるらしい。考えるテーマは今「わたしはどのタイミングで電車を降りようか」だったのに、様々なアイディアや、昔読んだらしい小説の断片、風景を思いだす。けれど、昔読んだ小説の断片は、作者も題名も思い浮かばないし、風景がどこだったか、いつ見たのか、昨日なのか、家族で行楽地に行ったときの風景なのかわからない。
やっとわかりかけてきたのは、どうやらわたしはイメージに記名ができないということだ。なにもかにも記名できない。忘れてしまっている。そしてそれを怖いなどとも思わない。ただ、ぼんやりした気分になるだけだ。そう、明日、わたしはどこにいて何をする? わからなくてもいいのかもしれないと思う。けれど少しの不安は感じる。でも少しだ。
わたしにはもう気づいていることがある。どんな考えも、どんな風景も、どんな感情もなにかフィルターやすりガラスを通して感じるような気がするのだ。そしてどんな考えも風景も感情も、デジャヴだ。既視感が必ず伴う。そしてそれらは皆、ニセモノだ。今「思った」と考えても次の瞬間、誰かのもののように感じる。誰かが「思った」からわたしも思ったと感じるような気がする。でもそれも当たり前のような気もする。だって終点がない宇宙に浮かんだ電車に乗っているのだから。懐かしいものしか大切に思えない、そんなところまで来てしまったのかもしれない。けれど今のわたしには懐かしいものまで切り取られ、失くしてしまっているのだ。まるで新しいワンピースを着たときに、妙な毒気を感じるように、新しいなにかはとても険しい。そしてとげとげしいのだ。
最近のファストファッションの流行や、カジュアルな服装の流行にケチをつける大人もいるかもしれない。ファッションにうるさい専門家などだ。けれどそのとてもカジュアルな格好は、人に傷つけられたくないし、自分も傷けたくなんてないという感覚の表れだ。ベビーカーのママの半袖のボーダーのカットソーはとても優しい。険しくないし、とげとげしくもない。そのママが欲しいのは多分、優しさと時間だ。わたしたちは疲れている。疲れているから、優しくない、険しいファッションに身を包んでいられないのだ。その優しい服装で洗練されることもありうるのだ。
わたしは多分お金が欲しいのだ。例えば一〇〇〇円あれば、必ずセブンスターを二つ買えて、なおかつ八〇円のお釣りが出る。それはとても確かなことだ。そして今もっとも確かに思えるのはお金が欲しいということだ。
目を閉じ下を向き、聴覚に神経を集中させる。もし聞いたことのある地名がアナウンスされたら、この宇宙電車から降りるつもりだ。宇宙電車にいつまでも乗っていてもお金は得られない。そして歯ブラシも持っていないのだから。
わたしはバッグからパスモを取り出した。見覚えのないケースに入っている。見覚えはないというのに、そのパスケースをわたしは一目で気に入った。全体を黒いビーズが覆っていて、片面にオールドミッキーのビーズの装飾が施されている。わたしは手に持って子細にパスケースを眺めて、少し満足したような気分になり、一回バッグの中に戻して、また取り出し手に取った。そして右手に握りしめ、また目を閉じる。
お金がないとさみしい。とても気持ちがさみしくなるっていうことをわたしは知っている。あの髪を洗わないワンカップの男性は、お金がなくて心がさみしいのではないのかと思う。その男性が、自由に風俗へ行けないお財布事情だったら、男性はきっとさみしさを感じるんじゃないだろうか。男性にとって風俗とはそういう意味だって思う。もちろん風俗に行って女性と抱き合っていれば孤独ではないということにはならない。けれど大抵の人は抱き合ったり、身体に毛布を巻いていて、孤独の上には何層もの暖かい何かがある。それでその人たちは孤独をむき出しにしないですみ、2月の寒風や空調の冷たい空気から、守られている。お金がなくてさみしく、孤独であれば、もちろん風呂などに入るはずがないのだ。それに打ち勝つ方法なんて、今のわたしには考え付かない。つまりお金がないとさみしい。そう、わたしだってお金が欲しい。わたしはそう思った時、目を開け、ワンカップの男性と目を合わせることなく、床に置かれた緑色の、しわくちゃになった和菓子屋の紙袋から、なぜか目を離せなくなっていた。しばらくそうしていた。右手にオールドミッキーのパスケースを握りしめながら。
宇宙行き電車が駅に止まった。「そうか」、「草加」だ。右手に握りしめていたパスケースを左手に持ち替え、右手の手のひらを見ると、皮膚の病気のように、ビーズの跡がびっしりとついている。ビーズのパスケースによる奇病。そんなことを考えて、誰かに話して笑いたくなる。でも今、この宇宙行きの電車の中ではなくとも、わたしが手のひらを見せて、「奇病だ」と笑って話しかけても答えてくれる人なんて、いるのだろうか。今のわたしにはとてもわからないことが多すぎる。多少怖いし多少不安だ。でもそれも赤ん坊が母親の胎内で感じるような根源的な怖さや不安ではなく、確か昔に怖いとか不安だとか聞いたことがあるし、それは怖くて不安なんだろうな、っていう程度のものだ。つまりそれもデジャヴ。ディテールが見えない。聞いたことがある。宇宙電車が駅に止まるごとに、だんだん確信に近づいてきた気がしていた。わたしの中には、既視感でしかない恐怖と不安がある。きっとどこかでそれを知ったのだろう。学んだのかもしれない。それはわたしの影というより前にいて、わたしはそれに引きずり回され、従っている。わたしの前に影があるのだとしたら、わたしはその前にある影の奴隷だ。今わたしはなにかと言えば、「既視感でしかない少しの恐怖と少しの不安」だ。それがわたしだ。
もうすでにワンカップの男性はワンカップを飲み終えていて、それでも眠るわけでもなく、どこを見るともなく見ている。お酒を飲んだせいなのか、目が少し垂れ下がっている。そしてわたしはすぐに視線を下にずらす。緑色の和菓子屋の紙袋は軽そうだ。なにが入っているんだろうと思う。きっと鏡は入っていない。この男性が日常的に持ち歩くものっていうのが想像できない。財布は持っているだろうけれど、ハンカチやティッシュはどうだろう。そしてわたしのバッグの中にある、鏡は持っていないだろうし、もちろん口紅は持っていないだろう。では他には何を持っているのだろう。きっとズボンのポケットには鍵が入っている。鍵? わたしはさっきバッグの中を見た。鍵は入っていただろうか? もう一回バッグを開ける。今回は開け方がわからないとためらわない。そして見てみたが、 やはり鍵は入っていない。わたしが来ているワンピースにはポケットはついていないみたいだ。ワンカップの男性は家の鍵を多分持っていて、わたしは持っていない。けれどわたしは昨日多分シャンプーをしていて、男性は昨日シャンプーをしていないだろう。わたしには何かが欠けているうえに貧相で、そのワンカップの男性も何かが欠けていて、同じく貧相だ。貧しさは凍てつく。親に叱られて家を追い出された子供だって、絶対にその玄関のドアが開く瞬間を知っている。知っているから大声で泣けるのだ。もし永遠にそのドアが開かないと思ったら、子供だって、ワンカップの男性だって、そしてわたしだって泣きはしない。子供とワンカップの男性はきっと軽やかに絶望するだろう。けれどわたしは絶望しない。どうしてかというとわたしの玄関のドアが見えないし、どれかわからないからだ。そういうのがわたしだからだ。
宇宙行きの電車は今のところ宇宙にはいない。わたしは宇宙に放り出され、もがいて犬かきをしながら呼吸ができなくなることなどなかったし、酸素がある地球にいた。わたしの足元に、ワンカップの容器が転がってくる。わたしはかがんで手を伸ばし、わたしの座席の下に立てて置いた。一瞬男性の顔を見てしまったが、彼は見られることが嫌いだから、見ることも嫌いなようで、わたしの一連の動作にも、興味を示さず、わたしの方を見ていなかった。けれど、その男性はおそらくわたしがワンカップの容器を座席の下に置いたことを知っている。
わたしはまた目をつむり、地名について考えていた。草加の次は「松原団地」だったし、その後も「新田」、「蒲生」と続いた。「国会議事堂前」とは違う。なんだか光景が目の前に大きく平面に広がるような駅名だった。そしてその駅名とそれに伴う光景の想像は今日の何よりもリアルで手に触れることができそうに思えた。また、その駅名たちはわたしと光景の想像を結び付け、それがわたしの現実となった。
次の駅は「新越谷」だった。そうだ、わたしは谷を越えたのだ、とそれもわたしの現実となった。谷を越えるのはとても簡単だった。大きな谷は底に行くほど狭く、底に落ちたら助かるすべなどない。落ちていく人たちは、落ちたという実感も、叫び声をあげる暇もなく死んでしまう。それはちっともスリリングではない現実だ。わたしにとってスリリングなことは、財布を失くすとか、おもしろい本を読むとか、そう、鍵がないということだ。
蒲生から新越谷の間にワンカップの男性の足元を見た。なぜかその男性を、わたしは見ずにいられなかった。他の人たちも見ずにいられないという思いがあるから、目を背けているのだ。
「新越谷」に着くというアナウンスが流れると、ワンカップの男性は、緑色の和菓子屋の紙袋を手に取って横に置いた。わたしはさっと緊張した。男性は新越谷で降りるのかもしれない。なぜかその男性を見失いたくなかった。その男性もわたしも、何かが過剰にありすぎて、何かが決定的に足りなかった。わたしたちは多くのものを短期間で失った経験があるはずだと思った。だからその男性が新越谷で降りるのならば、わたしも降りようと思ったのだ。もちろん、その男性の家に泊めてくれとかそういうことじゃない。ただその時は、見失いたくない、そう思ったのだ。だって歯ブラシだってないのだから。
そして予想通り、男性は新越谷で降り、わたしも後に続いた。ワンカップの容器は、行儀よく、わたしの座席の下に置かれたままだ。わたしとその男性、なにもわからないのだ。なんで過剰にあふれてしまうのか、どうして失くしてしまうのか。みんなが上手にシーソーを繰り返している。
わたしとその男性が座るシーソーは宙に浮いたままで、着地ができない。男性は人並みに逆らわず歩いて、「武蔵野線」に乗り換えるみたいだった。すごい人ごみだった。けれどわたしはその男性を見失うことはなかった。男性にはある種のマークがついていた。そのマークは誰もが気づく、そういう髪やブルゾンの汚れではなく、わたしにはその男性のマークがはっきりわかった。それはわたしが貧相だからで、そしてその男性も貧相だったからだ。たくさんのものを持っている。でもそれを大事に、丁寧に、扱うことなどない。そういう貧相さがその男性とわたしにはあった。一つ一つ、大切にすべきものをその男性とわたしは真冬に窓際に置きっぱなしにして、結露で濡れてしまった革製のバッグはいつの間にかカビが生えてしまう。カビが生える革製のバッグ。窓際にセキセイインコを置いて飼ったなら、いつの間にかそのセキセイインコは死んでしまう。そういうことこそが貧相であるということの特徴だ。そしてそれなのに足りない、足りないと思い続け、髪が洗えなくなったり、体力を失ったり、鍵を持たずに夜、外出したりする。本当はなにもかも近くに転がっているのに。時には公園のゴミ箱にさえ入っている。そういうありふれたものたちなのに。
そしてその男性は武蔵野線の改札口を通っていったが、わたしはそこを通らなかった。心の声で、その男性になんて声をかけようかと思う。
「じゃあ、またね」
そんな言葉しか思いつかなかった。けれど言葉はいつだって情報の形をとらなくても、有益な言葉でなくっても、それでいい、そう思う。心の中でつぶやいた、「じゃあ、またね」その男性には伝わらない。けれどわたしは声をかけたのだ。それは鍵を持っていないわたしにとって、人ごみの中を歩くよりもっと現実だった。そしてホームに向かう彼を立ちつくしたまま目で追っていると、サッカーのスパイクを履いた少年がそのワンカップの男性のすねを蹴ったが、男性はわたしには「見るな!」と言ったのに、その少年には何も言わず、片足を引きずりながら階段を昇って行った。その後ろ姿は
「俺がこうだから、しょうがない」
と言っているような背中に見えた。そして見られるよりもサッカーのスパイクで蹴られて痛む方が、まだ、「それもしょうがない」と思えることなのだろう。わたしは
「なんだか、さみしいな」
と思った。