第一章 あなたの呼ぶ声 2
胃がせりあがってくるような気味の悪い感覚に目を開ける。
そうして見えた景色に真美花は思わず息を呑んだ。
見渡す限りの白い世界。
終わりがないと錯覚しそうな程遠くまで続く白。
そこを真実花は急降下しているようだった。
呆けた意識が急激に覚める。
「わ、わわっ」
慌てて手足をばたつかせてもがくが、それで今の状態がどうにかなることはなかった。
「ど、え、えっと!?」
どうしたら。記憶を掻き集めてみても現状を打開する方法がまるで見つからない。
このままじゃ地面にぶつかる。咄嗟にそう思うが、白い世界ではどこに地面があるかもわからない。
いつぶつかるのか、どこまで落ちるのか、そもそも本当に落下しているのか。何もわからないままただただ現状に身を任せるしかない。
「だれ、かっ」
助けを求める叫びはうまく言葉にならず消えた。
下からの風が体を煽り、開いた口の中に容赦なく吹き込んでくる。息が詰まって苦しい。
酸欠で段々と意識が朦朧としてくる中、真美花は不思議なものを見た。
遥か彼方、白い世界からやってくる黒い点。それが徐々に近づいてくる。
やがてそれが人であることに気付いた。
真っ直ぐこちらに向かってくる。それとも自分が向かっているのか。
それすらもよくわからない。
ただ、唯一わかるのはここまま行けば間違いなくぶつかるということだった。
さっと血の気が引いていく。
しかし真美花は避けることが出来ない。
なんとか危険を知らせようと口を開くが、
「あぶな……!」
それを最後まで言うことが出来なかった。
なぜなら、顔が見える距離まで近づいたその人。その顔は真美花にとても似ていたから。
「――え?」
それに気付くと同時に、真美花は”彼女”と衝突した。
咄嗟に目を閉じる。けれどいつまで経っても衝撃が襲ってこない。それに加えて、あれだけはっきりと感じていた落下の気配をまるで感じなくなっていた。
恐る恐る目を開ける。
すると、息がかかるほど近くに自分の顔があった。
その間にはまるで硬い壁のようなものがあって、真美花はそこに寝そべるような形でいた。
一瞬、鏡を見ているのかと思う。大きな鏡があって、そこに写った自分を見ているのだと。
けれど
「ああ。やっと会えた」
不意に目の前の自分がそう口を動かした。その声もどこかで聞いたことがあるような声だ。
しかし真美花は一切話してなどいない。
何も言えないままでいると鏡の向こうの自分は苦笑いを浮かべた。
「私はファイクラル。別の世界のあなた」
その言葉にようやく一言、
「別の、世界?」
と絞り出す。
頭がついていかない。戸惑いながら言葉を溢す。
「……一体、何が」
起きているの。
と、その問いを遮るように突如として二人を隔てていた壁が消えた。また落下が始まる。
それはさっきのような為す術のない落下とは違っていた。まるで何かに支えられながらゆっくりと下に降りていくよう。
真美花はファイクラルと名乗った少女と共にゆっくりと白い世界を降下していく。
いつの間にか二人は両手を繋ぎ合わせていた。冷えた指先がじわっと熱を帯びる。
だからといって戸惑いや焦り、それらが消えることはない。
だが
「今、あなたは世界の間にいる。ここは世界が生まれる前の場所。何もない空白のページ」
その中でも彼女の声は不思議なほどしっかりと耳に滑り込む。
「今はゆっくりと説明する時間がないんだ。この世界には長く留まれないから」
滔々と。ファイクラルは真美花をじっと見つめたまま語り続けた。
しかし不意にその瞳が僅かに伏せらる。
「だから、いきなりこんなこと言われても困るとは思うけど……」
滑るような言葉が少しの間止まった。
けれど一呼吸を置くと、伏せていた瞳を上げてまた真美花の方を見つめる。
「お願い。あなたと私の親友達を救うために、私の世界に来て欲しい」
そして自分と同じ顔の少女は今まで聞いたことがないような強い口調で言い切った。
その言葉の意味を図りかねて、真美花は眉をひそめる。
親友とは五年前に消えた友人達のことだろうか。そもそも彼女はなぜそんなことを知っているのか。私の世界とは一体何なのか。
溢れた疑問は留まることを知らない。けれどそれら全てを口にすることも出来なくて
「どういうこと……?」
とようやくそれだけ呟く。
するとファイクラルは眉を下げて困ったように笑った。
「うん。そうだよね」
そして小さく頷いてみせる。
彼女は真美花の手を一際強く握りしめた。そして語って聞かせるように言葉を紡ぐ。
「あなたの親友は今、あなたが居た世界とは別の世界にいる。それが私の世界。彼らは今捕らわれていて、助ける為にはあなたの力が必要なんだ」
彼女が口を開く度に疑問は増すばかりだ。けれど真っ直ぐこちらを見る彼女が嘘を吐いているようには思えなかった。
何も言えないでいるとファイクラルは顔を歪めた。
「急かすようでごめんなさい」
今にも泣き出してしまいそうな顔。その顔は真実花にも覚えがあった。
もどかしさと申し訳ない気持ち。口下手だったからうまく言葉が出てこなくて、よくそういう顔をしていた。
ファイクラルもそうなのだろうか。
思わず思考の海に沈もうとしていると、切な声が意識を引き上げた。
「早くしないと、私もあなたも戻れなくなる。だから、お願い」
答えを。
「真美花」
突然名前を呼ばれて、真美花は微かに肩を震わせた。
するとファイクラルは泣きそうな顔で口を笑みの形にする。
「……ファイクラル」
だから真美花もそう返した。
すると目の前の少女は驚いたように目を瞠ってから、今度はくすぐったそうに笑う。
その顔を見つめながら真美花は小さく息を吐いた。
突然こんなところに放り出されて、よく考える暇も与えられない。考えれば考えるほど文句が浮かんでくる。
けれど、もう悩みはしなかった。
「わかった。あなたに着いていく」
そして決意を込めてそう答えた。
その途端、白い世界に光が溢れる。
「!?」
あまりの眩しさに思わず目を閉じた。それと同時に耳鳴りのような音が耳を激しく叩く。
そのせいで
「ありがとう」
そう言われた気がしたのに。薄れていく繋いだ手の温もりと耳鳴りのせいで、彼女の気配は夢のように消えてしまった。