山田ラーニング
バカで変態な後輩のテスト勉強を見てやり始めて早数日。この日も放課後に二人で教室に残って勉強をしていた。
その後輩―――山田誓良は時々思い出したように戯けた言動をぶっ込んでくるが、それ以外は大人しく真面目に教科書とノートに向かっていた。
真面目にやると宣言した以上、そうでなくては困るのだが、これは想定外というか意外というか良い意味で驚きだった。
「絶対もっとふざけると思ってたぜ……」
「はい? 何か言いました?」
小さな呟きが聞こえてしまったらしく、ノートに向かっていた頭を上げて首をかしげる。
「いや、何でもない。続けろ」
「はあ」
こうして勉強を教えていて気づいたが、こいつはこう見えて集中力がある。
エンジンがかかるのが遅いのか最初はごちゃごちゃとぼやいていたが一度スイッチが入ってからは黙々と問題を解き続けている。
実は頭も悪くないのか一度教えてやると二度同じミスはしない。これで赤点連発になる意味がわからんが要するに授業はエンジンがかかる前に終わってしまうんだろう。
「あの」
「ん?」
ボーッとしていたら声をかけられた。何かを訴えるようにこちらを見つめている。
「どうした」
「先生……お腹が、痛いです……」
「トイレ行ってこい。ちょっと名台詞っぽく言うんじゃねえ」
何かと思ったらトイレかい。身構えていたら力抜けたわ。あと某国民的バスケ漫画に謝れ。
「はい。じゃあ、ちょっと失礼して行って来ますけど。帰っちゃいやですよ」
「さっきから心の底から帰りたいと願っているが、帰らずにいてやる」
約束通り真面目にやっているのだから、俺も約束を守ってやらないと。
色々思う所はあるが、こうなった以上せめて赤点くらい回避させないと寝覚めが悪い。
「あ、ちなみにカバンに体育で使った体操服が入ってますのでこの隙にご開帳推奨」
「そんな情報いらん。死んでも開けん」
「そ、それは、つまり「わざわざ現物がなくても妄想で補完したるぜ! たぎったるぜ!」って事ですね!? さすが先輩ってばなんて猛者! そこに痺れる憧れ――」
「今すぐに黙れ。そして、さっさと行け、バカが」
「るぅ! 先輩愛してます私を貫いて下さいいってきます漏れるーーー!」
「………」
あいつ、言い逃げして行きやがった。
大人しく勉強してると思ったら、ちょっと気を抜くとこれだよ。小走りに行くくらい漏れそうなのに律儀に下ネタだけは放り込んでくる辺り、あいつはもう取り返しがつかない。
「ふう……」
溜め息をついて椅子の上でずるりと体をずり下げる。
天井を仰ぎ見て、窓の外に視線を向けた。
すっかり日は傾いて、空は赤く染まっていた。あと一時間程で下校時間になる。
「おや? 霧島君?」
開きっぱなしの扉からクラスメイトが目を丸くして顔を覗かせた。
「何をやってるんだ?」
「ん……ああ」
と、声をかけられて内心少しばかり焦る。いや、クラスメイトなんだからバッタリ会えば挨拶くらいするのが普通なのかもしれんが、いかんせん修一(と不本意ながら、あの変態)以外の人間とあまり交流がないため顔と名前が微妙に一致しない俺。 彼女は部活中なのか袴姿で長めの黒髪を束ねていた。
曖昧な相槌を打ちながら考えるが、どうしても名前が思い出せない。いや、同じクラスだっていうのは覚えてるんだが。確か彼女は我がクラスの委員長だった気がする。で、袴姿ということは弓道部か。うちの学校で袴を着る部活は弓道部しかない。
「見ての通り、テスト勉強だ。そっちは部活中か? …………委員長?」
そう答えると彼女は苦笑しながら歩み寄ってきた。
「いや、確かに私は委員長だが、何故疑問系なんだ?」
「細かい事は気にするな」
「ふむ。さては君、私の名前を覚えてないな? それに役職もうろ覚えと見た」
「………」
バレた。
「『バレた』って顔をしているな」
「読心術の使い手がこんなに身近にいるとは思わなかったな」
「ふふふ、人の顔色を読むのは結構得意なんだ」
嫌味のない笑みを浮かべて委員長は俺の二つ前の机から小さな紙包みを取り出す。
「忘れ物か?」
「うん。昨日、弓道のDVDを買ったんだけど部活に持っていくのを忘れてしまって」
「なるほど。ミーティングか何かで使う訳か」
「そういう事だね」
我が意を得たり、とばかりに委員長は頷いた。
そして、そのまま自分の席に座る。俺の席の斜め後ろ。意外に近かった。
「早く戻らなくていいのか? 部活中だろ」
「いいんだ。元々、休憩時間に抜けて来たから少しくらいなら大丈夫。それよりも私はこの運命的な偶然の方を大事にしたい」
「なかなか寒い事を言うヤツだったんだな、委員長は。知らなかった」
「ふふ、無理もない。何せ名前も知らない相手の性格を知ってたら逆にビックリする」
「違いないな」
「そこで悪びれないのが霧島君らしい」
ポンポンと小気味の良い会話が続く。事務的な事以外で直接話すのは初めてに近いが、なんというか俺にとって委員長みたいな人間は非常に接しやすい。こういうタイプはなかなかいないが。
とりあえず話していて気になる事が一つ。
「というか委員長。俺の事をよく知ってる様な口振りだな」
「直接の交流はあまりないけど、こちらが一方的に知ってるだけだよ」
「なんでまた」
「君は、君が自分で思ってるより有名人だって事だよ」
「………有名?」
委員長の面白い事を思い出したような表情から、ひしひしと嫌な予感がする。
「……どういう意味で有名なのかは聞かない方がいい気がするな」
「懸命だ、と答えておこう」
どうせ、あの変態絡みなんだろ。分かってるよ。
同類だと思われるのは甚だ心外だが、ヤツは歩く災害だからな……防ぎようがない。
「それに、それ以外にも色々と話題の中心にいるんだよ、霧島君は」
「なんだそれ。それはマジで心当たりがないんだが」
「まあ、噂をされている側の当人というのは得てしてそういうものかもしれないな」
全くもって思い当たる節がないが委員長的の口振りからすると、その噂とやらは周知の事実のようだ。
「ウチの学園は今時テストの成績上位者を貼り出すだろう?」
「あー、そうらしいな。見に行ったことはないけど。それが?」
「おっと……今の言葉で合点がいった」
「はあ?」
さっぱり話についていけない俺を尻目に一人納得顔の委員長。とりあえず説明してほしい。
「まあ、簡単に言うと、そのテストの度に貼り出される成績上位者の一番上に毎回霧島君の名前があるんだよ」
「……………」
「それもダントツで、ね。この学園は結構な進学校だし、成績のいい人はやっぱり目立つから」 「なんてこった。そんな面倒な事になってたのか……」
「いや、面倒って。順位表を見に行かないのはまだしも、まさか自分の成績自体を全く把握してなかったのか?」
「全くって事はない。流石に自分の点数くらいはチェックしてたが、それなりの成績が取れれば、順位にこだわりはなかったからな……」
「うん。完全に嫌味だな。君を抜こうと躍起になってる人もいるから発言には少し気をつけた方がいいかもしれない。刺されても知らないぞ」
「怖いこと言うなよ」
「ふふふ。まあ、刺されるっていうのは大げさだけど、いつも君に負けてる身からすると少しショックなのは確かだ」
「ん?」
「何を隠そう、私も毎回“上から二番目”に名前があるから」
「お、おお………」
こういうのも、やぶ蛇というのか。幸いなのは終始にこやかな委員長の笑顔に暗いものを感じない事か。
あくまで冗談の範疇で言ってるような口調だ。
「こういうと人には怒られるかもしれないけど」
「うん?」
「実は私もそんなに成績にはこだわってないんだ」
「おいこら」
「ふふふ。すまない。でも、それなりに勉強もしてるんだぞ。部活があるから、そればかりというわけじゃないけど」
「まあ、俺も最低限はやってるしな」
「じゃなかったら恐ろしいよ。ともあれ、私個人は成績にこだわってなくても、周りは……って事だ」
「難儀な事だな」
「全く。勉強のない世界に行きたいよ」
とか何とか、委員長が委員長らしからぬ台詞を吐きつつ、机に開いたままの教科書とノートを見て「おや?」と不思議そうな顔を浮かべた。
「霧島君はテスト勉強をしてたと言ってたけど」
「まあ。正確には俺の勉強ではない」
「なるほど。後輩の子にでも勉強を教えてるのか」
「そんな所だ」
「道理で懐かしい内容の教科書があるわけだ」
まあ、二年の俺が数Ⅰの教科書で勉強するような機会はそうはない。来年になれば受験でまたお世話になるかもしれないが。
「ふむ。ということは君が勉強を教えてる後輩というのは“彼女”の事かな」
「その“彼女”というのが誰の事を指してるのかは知らんが、とりあえず俺の本意でやっている事じゃないとだけわかってくれればいい」
「ふふふ。素直じゃないな」
「やめろ。マジでやめろ。泣くぞ」
「ぷっ」
小さく笑いながらおかしそうに言う委員長に思い切り嫌そうな顔を作って答えた。それが余計に面白かったらしく、委員長の笑みがより一層深くなり、ついには噴き出した。
「霧島君の泣き顔も見てみたいけど後が怖いからこの辺でやめておくとしよう」
「そうしてくれると助かるね」
楽しげな委員長と渋面の俺。対象的な表情で会話をしていた俺達の耳に教室の外から『すぇんぱあぁああぁぁぁいっ!』と聞きたくもない声が届く。
「どうやら待ち人のご帰還みたいだ」
「待ってねえ。断じて待ってねえ」
この期に及んでまだ冷やかしてくる委員長。マジで勘弁してほしい。
「あのバカの相手はマジで疲れるんだぞ」
「バカな子程可愛いってよく言うじゃないか」
「それは親子の話だろ。つか、まあ只のバカならまだいいんだがな………」
変態な上にブレーキが最初からない暴走特急……いや、妄想特急だから半端じゃない。
「感情の方向性はともかくとして、君にそれだけ気にしてもらえてるというだけで私としては羨ましい限りだよ」
「ん? どういう――」
意味か、と聞こうとして委員長が「さて」と立ち上がった事で遮られた。
「私はそろそろ部活に戻るよ。部長があまり抜け出していると示しがつかないからな」
「って、部長だったのかよ。部長がサボってちゃいかんだろ」
「霧島君が黙っててくれれば問題ない」
「悪いヤツだな」
「私だって、たまには悪い子になりたい時もあるんだよ」
「まあわからんではないが」
いたずらっぽく言う委員長に俺は苦笑して答える。
委員長だの部長だのやってればそういう事もあるだろう。
「じゃあまたな、霧島君」
「おう。部活頑張れよ」
「ありがとう」
そう言って委員長が教室を出かけて、そこで唐突にこっちを振り返った。何かを思い出したような顔でこっちを見つめる。
「何だ? また忘れ物か?」
「ああ、一つ大事な事を忘れてた」
「っても……DVDは持っただろ」
他に何があると言うのか。
そう思っていると、委員長が今日一番の笑顔を浮かべて口を開いた。
「私の名前は桧村一華だ。覚えておいてくれると嬉しい」
凛とした声で名乗りを上げて、俺がポカンとしてる間に委員長―――桧村一華はくるりと身を翻して去っていったのだった。
・
「ふぃー。たくさん出ました。自分でちょっとビックリするくらい」
戻ってきた後輩が開口一番そう言った時には
「おまえは本当に残念なやつだな……」
そう思わざるを得なかった。
「赤いのがドバドバと」
「言わんでいい」
「実は生理なんです」
「だから聞いてねえ」
「そんなわけで体調が優れないので今日はこの辺で……」
「超元気そうじゃねえか。自分から頼んどいて何戯けた事をぬかしてやがる。却下だ」
「生理だって言ってるのに何でそんなヤる気なんですか先輩ってばキ・チ・クさん♪」
そのヤるじゃねえが面倒だから口には出さない。
「おう。先輩ってばキチクだからこのテキスト終わるまで帰さんよ」
「いやーーーーっ!?!?」
なんというか初めてこいつに一泡吹かせたかもしれない一日だった。