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日陰の恋花  作者: 篠宮 梢
27/40

☆+26 消えた社員

御鹿倉s’eye

 その前兆は今更だが、思い出せば確かにあったのかも知れない。


 

 出勤がてらに、いつの日からか一切言葉を口にしなくなった娘を保育園に送り、出社した俺に告げられた言葉に、俺はすぐに理解も反応も出来なかった。


 重要書類の横にポツンと置いてあった数枚の事務手続きの書類と、白い封筒。その白い封筒には流麗な毛筆で『辞表』と綴られ、中に入っていた便箋には早期退職を願う理由が事細かく綴られていた。確かに早期退職者は募っていたが、それは決して経営が苦しかったからではない。それに優秀な社員をわざわざ手放す為のモノでもなかった。


 ぐしゃりと、手の中で既に決済手続き済みのそれが音を立て、皺になっていく。


 ふざけるな・・・ッ。


 強い憤りと怒りが体の中を鬩ぎ合い、出口を探している。

 辛うじていつもの表情を保っていられるのは、彼女以外の秘書が俺を窺っていたからに過ぎない。いなくなれば直にでもこの怒りは外に溢れ出す事だろう。


「社長、篠田さんはどうして辞められたんですか?」


「野之下さん」


「ここは育児休暇だって申請すればちゃんと認められるんですよね?それなのにどうしてッ、」


「やめなさい、野之下さん」


 彼女が辞めた理由を俺にしつこく問い詰めていた野之下は、天王寺によって無理矢理口を塞がれた。その一方で天王寺は天王寺で、何かを必死に堪えていた。言いたい事を堪えているような、聞きたい事を必死に飲み込んでいるような、奇妙な表情で。


 そんな天王寺の拘束からなんとかもがき、抜け出した野之下は、へたりと床に座り込み、泣きだしてしまい、何も助けてやれなかった、相談に乗ってやる事も出来なかった、と、激しく自分を責めていた。


 野之下は電話対応はいまいちだが、メンタル面に関しては誰よりも強く、サポート能力も優秀で、秘書課の中では相談役も請け負っていた。その彼女が、今、俺にぶつけた強い怒り。その内容を意図もなく反芻していた俺は、体中に流れている血が急激に冷え、固まる様な感覚に陥った。


 俺の勘違いであったらいい。

 そうでなければ、俺は何も言えない。

 

 一縷の願いとある種の高揚感に支配された俺は、泣き続ける野之下に恐る恐る手を伸ばし、肩に触れた。その時、野之下の肩がびくっと震えたのは気のせいではない。

 怖がられているのは知ってはいたが、こうあからさまに怖がられては、笑いたくなくても笑いたくなってしまう。だが、今は。


「野之下、篠田が妊娠していたというのは事実か?」


「・・・ほ、本当ですっ・・・グス。明かに妊娠の初期症状出てましたし。篠田さん本人も・・・」


 ガンっと、頭を強く殴られた様な気がした。

 心当たりがあり過ぎるが故に、激しい動悸が静まらない。


 あの女が性懲りもなく自分より若い男と遊び歩く為、朝から出て行った日、本来なら通いの家政婦に頼む筈だった娘の迎えは、家政婦の娘さんが産気づいたという事で急遽ダメになってしまった。仕方なく、遅くはなるが、俺が迎えに行くと保育園に連絡を入れれば、娘が彼女、――篠田が良い、と、初めて俺に我が侭を言った。その物珍しさに妙に気が引かれ、篠田に娘の迎えを頼んだ。


 問題の心当たりはその後だ。


 度重なる残業と接待。その疲れが残っている体で、付き合いだからと酒を飲んでしまったのが悪かった。

 帰った家に俺を待っていたのは温めるだけで良い食事と、人の温もりが感じられる湯船。そして、安らかな寝顔の娘と、篠田に見えてしまった妻。


 つくづく男である自分が嫌になると感じたのは、抵抗するあの女を無理矢理抱いた上で、欲を放った後だった。果てる前に、辛うじて俺はあの女の名を呼びはしたが、俺の目には篠田に見えていた。そうでもなければ誰があの女など抱くものか。と思い、翌朝目覚めた俺を待ち受けていたのは、破瓜の証である印。


 破瓜。

 それは妊娠出産を経験した女ではありえない。それにあの女は昨日は外泊したはずだ。

 

 それを改め思いだし、認識した俺は言い様のない後悔と罪悪感と共に、仄かな嬉しさを感じていた。それはおそらく誰にも本気で靡こうとしない彼女を支配出来た悦び。


 あえて何も言わなかったのは、より強い感情を彼女に植え付ける為だったのだと、今なら理解できる。



 兎に角、俺にとっての篠田は、初めて逢った時から顔がはっきりと認識出来る相手だった。その彼女が妊娠していると言うのならば、明かに腹の中の子供の父親は自分なのだろう。篠田はあの女と違い、不器用な所がある。それにやけに遠慮深く、自虐的な所もある。


「しゃ、社長?」


 野之下と天王寺の恐怖に歪む顔に、俺は自分が今、どんな表情を浮かべているのか判った。

 それを世間では、狂気、若しくは執愛とも冠する類の笑みだと知ったのは、彼女を捕まえた後だった。

  

ある種、この人は病んでいますので、ご容赦を。

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