7.過ちの始まり
それからしばらく、二人の密会は続いていた。
休みの間、こちらに来ているという幹に、茅はこっそり会いに行き、二人で遊ぶ日々が続いた。
……彼女に会ったことは、両親には言っていない。相手もどうやら、同じようだった。
二人だけの、ささやかな秘密。
同年代の友人が初めてできた茅にはそれが嬉しく、今までに覚えたことの無かった素敵な感情が胸に芽生え始めていたのだった。
こんな何も無い自然豊かな場所では、他愛ない遊びしかできなかったが、それでも彼女にとってこの時間は貴重なひと時だった。
綺麗な形の木の実を探したり、不思議な模様の石を川の底から見つけたり、甘酸っぱい木の実を二人で食べたり……。
茅にとっては取るに足らない普通のことが、誰か相手がいるだけでこんなに楽しい出来事になるとは思ってもいなかった。
そして、幹にとってもそれらは全くこれまでに体験したことの無い特別な遊びの数々だった。
……どちらにとっても、この時間はかけがえの無い思い出になると思っていた。この時までは。
「じゃあ、……また来るね」
「……うん」
「……」
「……」
ついに、休みが終わり、幹が別荘を出て元の家へと戻る日がやってきた。
二人はまた、最初の広場に戻り、その別れを惜しんでいた。
その初めての感情に、茅は戸惑い、うまく言葉が出てこない。……まだ、涙すらも戸惑ったままだ。
そんな彼女の様子に気付いた幹も、何と言っていいか分からず、別れのタイミングを掴めないでいた。
「……楽しかったよ、すごく」
「私も……すごく、すごく楽しかった」
「うん……」
手紙の一つでも書いてくればよかった、と茅は思った。今日、何をして遊ぼうか色々と考えていたために、そこまで頭が回らなかった。
うまく言葉にはなっていなかったが、このまま別れてしまうと、何か心にぽっかりと穴が空くような気がしていた。
……何か、形に残るようなものが欲しかった。
「帰っても……ずっと、友達だよね」
「もちろん。……ずっと友達だよ」
「じゃあ……」
「……友達にだけ、私の秘密見せてあげる」
これまで、どんなに楽しくとも、どんなに貴重な時間を過ごしていたとしても、これだけは守っていたルール。
彼女の両親から、幼い頃からずっと言われ続けていた、七峰家の掟。
その禁忌を、このとき茅に生まれた感情が……上回った時だった。
近くの木陰に隠してあった竹箒を、茅は持ち出してきた。……それを見て、不思議な顔をする幹。
そこから先は……あまり良く、覚えていない。
まず、少しだけ飛んだ所を見せたのだったと思う。
すると彼女は、すごく驚いたのを覚えている。そして、その後に彼女も一緒に乗せてみたのだ。
どちらから誘ったのかは、覚えていない。
彼女が乗りたい、と行ったような気もするし、もしかしたら……自分が乗ってみない?と誘ったような気もするのだ。
しかし、どちらにせよ、二人で飛んだのは事実だ。
そして、茅は彼女を喜ばせようとして……急上昇した。が。
「きゃっ」
「や、ぁあああぁっっっ!!!」
空に慣れていない彼女は、急に高くなり、恐怖を覚えたのだろう。
少し暴れた後、バランスを崩して……呆気なく、落下した。
ドッ。
「え?」
「あああぁああぁっっっ!!!いたあぁあいいいぃぃぃっっ!!いやああああぁっ!!」
彼女が少し前まで友達と呼んでいた少女は、両方の足が異常な方向へ折れ曲がり、仰向けに倒れた状態から起き上がることもできずに泣き叫んでいた。
顔は恐ろしいほどの形相に変貌し、両手は流れ出る涙や鼻水さえ拭くこともなく、地面を掻きむしっていた。
何度も何度も泣き叫び、その苦痛を世界に表現していた。
周りに誰もいない静寂が、余計に茅の耳に響いたのを覚えている。
「……いや……何よこれ……いや」
ゆっくりと地面に降りてきた後、さっきまでとは豹変してしまった世界に両足を着く。
そして……彼女は膝から崩れ落ちた。
「いやああぁあぁぁっっっ!!!」
しばらくの後、彼女の母親と祖母が駆けつけた時には、二人の少女の嗚咽の声だけしか聞こえなかった。
***
「……茅、よく聞きなさい。あの子はね、もう歩けないかもしれないんだって。どういうことか分かる?」
母は、茅に向かってそうハッキリと言った。
その目は、怒るでも悲しむでもなく、ただ事実のみを淡々と告げているように見えた。
一瞬だけ母と目を合わすと、茅は俯き、小さく頷いた。
「もう小川を跳んで渡ることも、みんなと一緒に追いかけっこをすることもできないの」
再び母はそう告げる。
その瞳は、揺らぐでも貫くでもなく、ただ見守る……そういった色をしていた。そしてそれを、受け入れているような色を。
茅はまた、小さく頷く。
「言い付けを破ったことは母さんは怒ってません。……ただ、あなたの血はみんなを幸せにするためにあるものなの。でも、まだあなたは小さいから、血の使い方がうまくないわ。……だからこんなことが起こってしまったの。分かるわね?」
今度は少し優しく、母は娘に対して諭すように伝える。まるで幼子に、社会道徳を教えるような丁寧な言葉だった。
普段の茅であれば、「そんなこと言われなくても分かるよ!」とでも言って反発するような言い方だった。
だが、今回はそんなことが言えるような状況ではないことは、彼女が一番良く分かっていた。
……なので、茅は三度、小さく頷いた。
そうすることしか、今の彼女にはできなかった。
ついに、その両目から、大粒の涙がとめどなく零れ落ちて行く。
と同時に、感情の堰も切れたようだった。
「お母さん、お母さん。治してあげられないの?」
半ば喚くようにして、母にしがみつく。
「お母さんやお婆ちゃんはもっとうまく血が使えるんでしょ?」
母は、悲痛な娘の顔を見ることに耐えられず、思わず両目を閉じた。
「もう私はいいから。この血も何もいらない。私の足をあげてもいいから……」
病院のロビーに、小さな女の子の叫びが響く。
「だからミキちゃんの足を治してあげてよ!!!」
茅は母親の胸に飛び込んで、大声で泣きじゃくった。しかし母は娘の願いに答えてやることができない。
彼女にできるのは、ただ精一杯の力で我が子を抱き締めてやることだけだった……。
***
「……あの子、血が無くなるかもね」
「……すみませんお母さん。私はそれでもいいと思っています。血が無くなって、あの子が普通の生活をして、それで幸せになってくれるのならもうそれでいい……!こんなことはもうたくさん……っ!」
誰もいない廊下で、茅の母は泣き崩れる。
その背中に、彼女の母はそっと上着を掛けた。