6.密会の記憶
病院を出る茅の脳裏に、数年前の記憶が甦ってくる。
何度も何度も彼女の後を着いてくる……あの悪夢だ。
彼女は、自ら罰を受ける修行僧のように、それを再び思い出す。
……彼女の漆黒の髪の横を、あの深い森の空気が横切っていったような感覚があった。
***
少し奥まった森の上を、一人の少女が飛んでいる。……その懐には、小さな一匹の黒猫。
少女は、両足の間に竹箒を挟んだまま。
それ以外には、翼もプロペラも、何の動力も使わずに浮いている。
しかしそれを平然として過ごしたまま、少女は淡い緑色のワンピースに風を受けて心地よさそうに飛んでいた。
その少女の名前は、茅と言った。
『あそこあそこ。あそこだよ!』
彼女の頭の中に、隣から響く声に従ってしばらく飛んでいくと、森の外れに着いた。
さらにその向こうへと行けば、別荘街と呼ばれる地域になるのだが、まだ彼女は両親からそちらへ行くことを止められていた。
なので、少し離れた場所から、声が示す方向に目を凝らしてみる。
すると……その視線の方向に、赤いワンピースを着た一人の少女が歩いているのが小さく見えた。
少女は、まだこちらには気付いていないようだ。
茅は右手を丸く握り、遠くまで目が見えるようになるおまじないをかけていた上、着ている服も周りと馴染みやすい色なので、おそらく向こうからは分からないだろう。……見つけたのは、自分と同い年ぐらいの女の子だった。
どうやら道に迷ってしまったのか、しきりに辺りをキョロキョロ見回している。
『……いい?家族以外の前で空を飛んだりしたら駄目よ?』
(やばっ!)
急に母親からの言いつけを思い出すと、茅は慌てて地面に降りた。
小さい頃から、家族みんなにそう言われてきたのだ。
茅にはまだその理由はよく分かっていなかったが、どうやら大人たちは人前で空を飛ぶことを良しとしていないらしい。……それを裏付けるように、普段の生活では、両親を始めとする大人たちは、誰も空を飛ぼうとはしなかった。
何故こんなに便利なのに、みんなは空を飛ばないんだろうか?と茅は疑問に思ってはいたが、何となく聞いてはいけない雰囲気のような気がして、まだ聞けていない。
でも、彼女が飛んでいることを誰も咎めたりはしないことから、飛ぶこと自体がタブーというわけでは無さそうだった。
(……大丈夫だったよね?)
色々と思うことはあるが、とりあえず彼女にはそれを守ることしか選択肢が無い。
そう心配しながらも、茅はその場にしばらくじっとして様子を見ていた。そして少しの間、息を殺して誰か来ないか確かめていたが、誰も近づいてくる気配がないのを見て、さっき女の子を見た方向に歩きだした。
『いいの?勝手に話すと母ちゃんに怒られるよ?』
そんな彼女に向かって、どこからともなく声が聞こえる。
だが、彼女はさっきから全くその声の主を気にしてはいない。
辺りには、彼女の他に人間はいない。……いるのは、小さな一匹の黒猫……だけだった。
「いいの。だって言い付けは守ってるんだもん」
彼女はその小さな猫に向かって答える。
黒猫は、どこか呆れたように……ニャ、と鳴いた。
そんなおせっかいな黒い猫のことなど気にせず、茅はホウキを近くに隠して歩いて行くと、さっきの女の子を見かけた広場に出た。
だが、先ほどの少女はどこにも見当たらない。
茅はキョロキョロと辺りを見回す。
「あれ?……どこ行った?」
「私のこと?」
「ぅわわわわわっ!」
突然後ろから声を掛けられて、茅は一気に5m程跳び退る。振り向くとそこには、彼女がさっき見かけた女の子が立っていた。
どうやらその子は草むらの中にしゃがんでいたらしく、立ち上がるまで茅はその存在に気付かなかったようだった。
突然のことにろれつが回らず、焦って茅は答える。
「びびびびっくりさせないでよ!」
「あなた……誰?」
そんな驚く茅のことも気にせず、女の子は無表情で聞いてきた。
こんな森の外れに、自分と同じ年くらいの少女がいることに疑問を持っているらしい。
それに対して茅は、何と答えたものかと、視線をあちこちに巡らせる。
「わ、私?私は……」(先を越された……)
そんな思いが頭をよぎる。
突然の質問に、一瞬戸惑い、茅の心の中に声が浮かんできた。
額から一筋の汗が垂れてくるような気がした。
……だが茅は少しだけ考えた末、すぐに顔をあげて笑顔で答えた。
真っ直ぐに少女の目を見る。
「茅。七峰茅。あなたは?」
「え?私……?わたしは、幹」
「……幹、ちゃん?」
茅の純粋な笑顔を見て、幹と名乗った女の子は少し驚いたようだった。
しかし茅は、そんなことは少しも気にすることなく、初めて聞いたその名前を繰り返す。
ためらいがちに目の前の女の子の名前を呼ぶと、二人の間に妙な照れ臭さが生まれた。
……少しだけ気まずい沈黙が流れる。
しばらく視線を外していた目の前の少女は、自分の名前を呼んでくれた女の子の方をしっかりと見つめ、返事をする。
「……うん」
やがて初対面の女の子は、茅の言葉を許したように小さく頷いた。
それを見て、不安そうに曇っていた茅の顔には、再び見事な陽光が差し込んだ。
どちらからともなく、歩きながら話し始める。
「幹ちゃんはどうしてこんな所にいるの?」
「え、え?……あなたこそどうしてこんな所に?」
「わた、私?いやあのそれは……わわわ」
そう返されて、また茅は慌てた。
好奇心から質問をするものの、自分が同じ質問を返されるとは考える前に言葉が飛び出してくるのだ。しかも、彼女には言えないことも多い。思わず挙動不審な動きをしてしまった。
「……ぷっ」
「?」
幹は思わず吹き出す。……その顔を見て、驚く茅。
「そんなに慌てなくても、別に無理には聞かないよ」
「え?……あはは、あはははは」
そうして二人の間に、ゆるやかな空気が流れ始める。
辺りは完全に晴れ渡ったようだった。
『やれやれ、やっと打ち解けたか』
「うるさいなっ」
「えっ?何?」
「あっ、いやごめん。何でもない」
「ふ~ん……」
茅は幹に気付かれぬよう、あらぬ方向に向かって舌を出した。
その先には、素知らぬ顔をして歩いて行く黒猫しかいないようだった。
***
「私、お父さんお母さんとケンカして、家出してきちゃったんだ」
「え?……そうなんだ……」
「うん。向こうにある別荘に来てるの。……あなたも?」
「あ、わ……私、この森の奥に住んでるの。だからこの辺詳しいんだ。案内してあげるよ!」
「ホント!?嬉しい!」
それから二人は、夕暮れまでの間、辺りを散歩して過ごした。
茅にとってはいつもの散歩コースに過ぎないような道でも、幹という少女はとても喜んでくれた。
景色のいい丘、色鮮やかな苔の生える岩、小さな湧き水が流れる沢など……。
気が付いたら、もう日が落ちようとしている時間だった。
彼女たちは、二人が出会った広場へと戻る。
「また遊ぼうね!」
「ホントに?」
「ホントに」
「じゃあ私たち、友達だね!」
「う……うん」
あまりに無邪気にそう言う茅に、幹は少したじろいでしまった。近所の友達には、そんなこと確認したことも無い。
もしかしたら彼女には同年代の友達なんていないのかもしれない……と感じたのだった。
「本当ね?ずっとずっと友達だよ?」
「うん、ずっとずっと友達」
幹は、にっこり笑って頷いた。
そんな彼女の笑顔を見て、またここで再会する約束をすると、茅は彼女を見送った。
そして、その姿が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けていたのだった。