27.序章の終わり
保健室に用意してあったベッドでは、みんな泥のように眠った。……よく考えたら、『泥のように』っていうのは一体どういうことなのかと一瞬総一郎は思ったが、おそらく考えても仕方のないことなのだろうと思い、その考えは振り払う。……それに、彼のデータベースの中には入っていないセンテンスでもあったし。
気が付いたのは、もう日が暮れそうな夕方頃だった。窓から差し込む朱色の光が、白いシーツに反射して部屋の中を染めている。
起き上がった総一郎の気配に気づいてか、横にいた光樹と直哉も目が覚めたようだ。……唯一、庸だけがまだ寝ている。茅は部屋の中にはいなかった。
「……あら、気が付いた?」
声が掛かった方を見ると、保険医の由香里がデスクの前に座ってこちらを向いている。そして、自分たちが屋上から戻った後に保健室に連れてこられ、傷の手当をされた後にいつの間にかぐっすりと眠ってしまったことを思い出した。
「由香里……先生」
日中、あれだけの騒ぎがあったとは思えないほど、静かな夕暮れだった。
下校する生徒は見当たらない。時折遠くから、カラスと思われる間の抜けた鳴き声が響くだけだ。
「色々と気になる事はあるでしょうけど、もう少し待ちなさい。きっとすぐに説明があるわ。さあ、帰る支度をして?」
「……」
甘いミルクティーのような声で、由香里は語りかけてきた。
今の所、それに逆らうようなコーヒーのブラックのような意思は彼は持ち合わせていなかった。
大人しく体を起こそうとすると、妙に体が軽くなっていることに気付く。
「……あれ?全然体が痛くない」
「ホントだ。温泉入ってよく寝た後みたい……」
「例えがおっさん臭いな……でも、その通りだ。なんで?」
三人は顔を見合わせる。
「……(クスッ)」
「えっ!?……(ボッ)」
由香里が僅かに微笑むと、急に直哉の顔が真っ赤に染まった。どうやらそれは、夕陽のせいだけではないようだ。
「長谷川、どうした?」
「な、な……なんでもない……!」
気になって尋ねる総一郎に、ブンブンと大袈裟に首を振って直哉は答える。
不思議そうに他の二人は目配せをするが、ムニャムニャと庸が起きそうな気配を見せたので、そこで由香里がもうおしまいとばかりに手を打ち合わせて言った。
「ハイハイ。もう下校の時間よ」
「つっても、もう誰もいないじゃんか……」
ぶつくさ言いながらも、彼ら四人は帰り支度を始める。
全員が保健室を出ると、扉の前で由香里はにこやかに手を振るのだった。
「気をつけて帰りなさいよ。ハイさようなら~」
ガラガラピシャッ……という音を立てて、保健室の扉が閉まる。
寝ぼけている庸に肩を貸しながら、廊下を歩いて行く四人の足音が聞こえなくなった頃、一人残された由香里はくるりと反転して、扉に背を預けた。
「……そして、今までの生活がガラリと変わるから、ね」
そうして残された白い保健室のように、色彩の無い表情で静かに呟いた。
*
「《喧騒(noise)》ってずっと僕は呼んでる」
「へー、なんかカッコいいな」
次の日。
まるで夢オチだったかのように、普通に学校は再開されていた。
「校長の奴がなんか色々言ってたけど、やっぱ俺たちで呼び方を決めたくね?」
「呼び方ねぇ……。なんか厨二病っぽ」
「俺だけ全然覚えて無いんだけど……。誰か何があったのか教えてくれよ」
級長の青木を始め、さすがに幾人かの生徒は休んでいた。もちろん、担任の安陪はいない。
朝のHRの時間には、まるで当然のように由香里が現れて、「急な家庭の都合で担任が変わることになった」と告げていった。
「あ、相模はすぐに思い付いた。《美女と野獣(beauty&beast)》……どうよ?」
「プッ……ぴったり!」
「なかなかいいセンスだ」
「おいおい、それどう言う意味だよ!頼むから説明しろって!」
後日、彼らにはクラス替えが命じられることになる。そして、これまでの日常とは全く異なる日々が始まるようになるのだが、それはまた次の話だ。
「そうだなぁ……それじゃあ俺は、《名もなき詩(nameless song)》ってことにしとこうかな」
「ふむ、なら俺は……《勿忘草(forget me not)》というところか」
「え?なんで?……てかお前の才能って何なんだ?」
「……」
「なんか言えよ」
今はただ、全員が再び戻ってきた日常を楽しんでいた。
そして、以前の日々に比べて、僅かながらかつての孤独感が薄れていることにも気付く。
「なんか……安心した。二人とも大人っぽいのに、結構子供っぽい所もあるんだね!」
「「どういう意味だよ、それ」」
「ハハハッ!」
光樹と総一郎の声がハモる。
一人だけ話題について行けなかった庸も、思わずその様子に釣られて笑ってしまった。
ガラガラッ
そこへ最後の欠片が嵌る音がした。
扉を開けて、一人の黒髪の少女が入って来る。
艶やかな夜を思わせる真っ直ぐな長い髪。スラリと伸びたスタイルのいい体型。……だが、その表情にはかつてのような冷たさは無かった。
まるで穏やかな月の光に似た輝きが、黒い瞳の奥に宿っている。
若干緊張した表情だった彼女は、教室の中を見回した後、彼らの方を見て、月夜に咲く一輪の花のような笑顔を浮かべるのだった。
「……おはよう!」
*
昨日の帰り道。
校門から出ようとする彼らの前に、一つの小柄な黒い影が佇んでいるのが見えた。その影は真っ直ぐで長い髪を揺らし、彼らが歩いてくるのを見ると、やや緊張した面持ちで声をかけてきた。
「あのね、実は一緒に来て欲しい所があって……」
「……?」
唐突なお願いに、彼らは戸惑う。
その気持ちを代表して、光樹が答えた。
「これからじゃないと駄目なのか?」
「……ううん、そうじゃないけど……でも、今日どうしても行きたいの」
「……どこ?」
「……病院」
「病院?」
彼らは顔を見合わせる。そして、彼女の顔も沈む。
「うん。……私が魔女の血をうまく使えなかったから、人生を滅茶苦茶にしてしまった大切な人の所」
「……」
「あれからずっと、私は自分の血が嫌いだった。全てはこの血のせいだって」
「……」
「だから、私なんてもっと不幸になればいいと思ってた。自業自得だって」
「……」
「でも、あなたたちを見ていて、気が変わったの。この人たちは、なんでこんな私のために、ここまでしてくれるんだろうって。なんでここまでできるんだろうって」
「……それは……」
「ううん、答えなんて何だっていいの。ただ、みんなを見ていると、今までの自分が情けなくなっちゃって!……自分は本当にここまでやったんだろうかって。自分を不幸に追い込むことで、許された気になりたいだけなんじゃないかって」
「……」
「それがあの時、分かったの。屋上から飛び降りた時。……私にはまだ、魔女の血が残っていた。それをただ、自分で拒否していただけ」
「……」
「ずっともう飛べないと思ってた。……でもそれは、自分だけの思い込みだった……」
黒い影だった彼女は、その台詞と同時に、強い表情で顔を上げる。
黒髪の奥に夕日が差し込んで、彼女の顔が明るく照らされた。
「だから今日、これからまた一歩、前に踏み出したいの!」
茅は、ハッキリとそう言う。
「何で俺たち……「分かった。俺は付き合うよ」
総一郎がさらに何かを言おうとした所を、庸が遮る。
それを聞いて、他の面子も頷くのだった。
「そうだね。僕も行くよ。……もちろん相模君も行くと思う」
「……分かったよ。ここまで来たらついでだ」
「ホント!?︎ありがとう!」
そのまま五人は茅の大切な人がいるという病院まで歩いて行き、男たち四人はその外で彼女を待つことになった。そして道中で聞いた、彼女の過去について語り合う。
「……なるほどね。どう思う?」
「どうって?」
「彼女の願いが伝わるかって話さ」
「……さあな」
「どっちだっていいよ」
「だな。何があった所で、茅ちゃんは茅ちゃんだ」
「……それもそうだな」
「それより、お前らのあの力って一体何なんだよ?」
「……それを言うなら、お前の方だよ、ケダモノ」
「ケダモノとかゆーな!アレには由緒正しい血統書付きの由来があってだな……」
「おい!見ろ!あそこの窓!」
「あ!ホントだ!……おーい!」
彼らが見上げる二階の窓からは、こちらに向かって、烏に似た艶やかな長い黒髪と、ショートカットの短い黒髪が同時に揺れていたのだった。
*
校長室によく似た、どこかの部屋の中。
二人の人物の声だけが響く。
「……いよいよ始まりか。天魔の雌雄を決する時が……」
「ついにこの時が来たか。さすがは【天使が失われた街(lost angels)】……という所だな」
「……」
彼らはまだ、その渦の中に巻き込まれていくことを知らなかった。
大変申し訳ありませんが、この作品は打ち切りにさせて頂きました。