25.爆炎
「これで終わりだよ……化け物!」
総一郎の叫びは、暗く視界を奪われたどこかから聞こえてきたが、青木には見えなかった。辺りはグレーの雲海に包まれ、遭難した登山家のように人影は見つけられない。
「この臭い……セメントか!?」
分かりやすく、青木が説明台詞を口にする。銀狼となった庸は離れたままだ。青木は突然訪れた闇の中で、咄嗟に身を固くして防御の姿勢を取った。奴らが何をするつもりかは分からないが、物理的な攻撃なら大抵の力は防げる自負があった。
……物理的?そうか、奴らの狙いが分かったぞ……!青木の脳裏に閃く情報があった。
ガリガリガリガリッ!
それと同時に、鉄の棒のような物で地面を擦る音が聞こえた。
ニヤリと青木の口元が歪む。
「……くくく、お前たちの狙いが分かったぞ。こんな小賢しいことを考えるのは……桐生か?」
「……」
青木の問いかけに答えるものは誰もいなかった。どこからも銀狼が襲い掛かってくる様子が無いことを確認し、さらに青木は続けた。
「セメントの粉を周りにバラまいて、鉄パイプで火花を起こす……なるほどなぁ、『粉塵爆発』か!咄嗟にしては、よく思いついたよ!だがなぁ……」
勝ち誇った顔で、青木は闇の外へ飛び出す。同時に、視界がパッと開けた。奴らの狙いが分かった以上、警戒する必要はない。粉塵爆発など、起こらないからだ。
「セメントは『燃えない』んだよ!もう既に酸化されてるからさ……ん!?」
満面の笑みでセメントの粉の嵐の外に出た青木は、そこに待っていた光景を見て、その顔が驚愕の表情へと変わる。と同時に、こちらを見ている視線に気付いた。
「何言ってるんだバーカ。そんなこと、最初から知ってるんだよ!お前に食らわせたかったのは……こいつだよ!」
灰色の雲から逃れた青木が次に迷い込んだのは、赤い溶岩地帯のようだった。……辺りは一面、火の海と化していたのだ。
襲い来る熱気と皮膚が焼ける痛みに、思わず咆哮を挙げる青木。
「う……ぐおおおぉぉぉっ!何だと!!!」
総一郎たちは、セメントを撒いて青木の視界を奪った後に、その周囲に灯油をぶちまけたのだ。さっきのパイプは、その灯油に対して火を点けるためのものだった。
炎により、急激な上昇気流が生じて粉塵が飛んで行く。まるで灼熱地獄のように炎に巻かれた鬼は、のたうち回って火を消そうともがいている。肉が焼ける嫌な匂いが辺りに漂った。
「ぐぅっ!ぅぐぉっ!ぐああっ!!!」
「やっぱり、奴は炎には弱い!おい、相模!聞こえてんのか!?今だやっちまえよ!」
光樹が銀狼に向かって叫ぶ。
のたうち回った青木は、まだ炎に巻かれていない地面の所まで行き、ゴロゴロと転がって火を消そうとしている。……完全に無防備な状態だった。
『ゥ……オオオオオォーーーン!!!』
銀狼が遠吠えを挙げた。その声が届くよりも早く、鮮やかな銀色の風が疾風り、青黒くなった鬼の体へと一直線に向かっていく。鬼はそのことに気付いて、身構えようとしたが既に遅かった。
ザ……シュッ!
直哉は一瞬、そんな音がしたような気がしたが、実際にはほとんど音なんて立っていなかった。本能的に目を背けられず、銀狼と青鬼のクロスする姿をじっと見てしまう。……そして彼の目には、深く青鬼の両腕の付け根に食い込む銀狼の鉤爪と、喉元深くに突き立つ白銀の牙が光って見えた。
「ぐ……お……ぉぉ……っ!」
さすがのタフさを持つあの青鬼に対しても、あれは流石に致命傷だろうと思った。事実その通り、鬼は叫ぶこともできずに小さく呻き声が漏れるだけだ。あの鬼と比べたら流石に体は小さい銀狼が、しかしそれでもその爪と牙のみで鬼の巨体を持ち上げている。ぐぐぐ……と少しずつ体が上がっていく度に、鬼の体はピクピクと痙攣した。
『ウグルルルル……!』
未だ喉元に食らいつきながら、銀狼は獰猛に唸る。噛み付いた鼻の上には何重もの深い皺が浮かんでいた。そしてその牙の間から流れる血。血。血。静脈から流れる赤黒い血が、鬼と銀狼の体を伝って脈々とコンクリート製の床に流れ落ちていく。
ブオッ!
その直後、銀狼は勢い良く首を振ると、鬼の巨体を屋上の外へと放り投げる。さっきまではあんなに存在感を誇っていた青鬼が、まるでポイ捨てされる空き缶かペットボトルのように、放物線を描いて屋上から落下していった。
「あの質量の大きさだと……流石に無事では済むまい」
総一郎がポツリと呟く。……コンクリートにヒビを入れるほどの体重と筋力。それは逆に言えば、重力に則って落ちた場合、普通の人間以上のGが掛かるはずだ。
ならば、落下の衝撃は普通サイズの体重の人間に比べて、何倍にも膨れ上がるに違いない。
ズズ……ズゥゥゥン……!!!
総一郎が想像した通り、数秒も経たないうちに下の方から、隕石でも落ちたかのような音が聞こえてきた。
「相模、良くやった!」
立ち尽くす庸に声を掛け、火の合間をぬって、みんなが下を覗き込もうとした時。僅かなうめき声が聞こえる。
「グル……グォルルル……!」
「ん?(ゾクッ)」
咄嗟に寒気を感じた光樹が後ろを振り返るよりも早く、銀色の竜巻が襲ってきた。
「んなっ!?……か、『風よ!』」
さっきまで、あの鬼と死闘を演じていた銀狼が、突然光樹に向かってその鉤爪を振りかざす。ゴオッ!っと音でも立てそうな鋭さで振るわれた左腕が、光樹を切り裂きながら吹き飛ばした。
辛うじてわずかな言葉を口にした彼が、風を身に纏ったおかげで致命傷は逃れたようだが、その服は大きく切り裂かれ、袖口から血が滴るのが分かった。
「おい!何だよ相模!?」
「まさか……相模君じゃない!?」
総一郎と直哉も、いきなり起きた目の前の状況に混乱し、口々に叫ぶ。光樹を襲った銀狼は、近くにいる二人の男に向かって照準を変更したようだ。黄金の虹彩を持つ瞳と目が合い、冷や汗が垂れる二人。……何だかその目が怪しく光っているようにも見える。
「こいつは……ヤバくないか?」
「相模君……相模君だよね!?どうしちゃったんだよ!?」
「ゥォルルル……」
唸るばかりで意思の疎通ができない相手に対し、二人はどう対処していいか分からず、オロオロと逃げ場を探す。だが、あれほどの身体能力を持つ相手に対し、一体どうすればいいのか……。そんな迷っている余裕もなく、銀狼が前傾姿勢になり、獲物を狙う時のような体勢へと変わる。
(と、とりあえず二手に分かれて避けるぞ……!)
(自信無いよ……!)
完全に二人は逃げ腰だ。さっきまでの鬼ですら手に負えなかったというのに、一体今度はあんな狼男に対してどうすればいいというのか。一難去ってまた一難……なんて軽い言葉では言い表せないほどの窮地だった。
(くっそ!犬……いや、狼が苦手なもの!)
(わーっ!そんなの用意してる時間無いよ!!!)
銀狼がそのしなやかな足を跳ね上げ、二人に襲いかかろうとした時。
『――待って!』
彼らの後ろから、声が届いた。
***
(痛ってぇ……!何だったんだありゃ……!?)
右腕を抑えながら、光樹が立ち上がった時に見えたのは、何だかおかしな光景だった。
フェンス際に追い詰められた二人。そしてそれに対して襲いかかろうとしている銀色の狼男。……そして、それと向い合うようにして、空中に浮いている、女の子……?
「待って!相模君。……相模君でしょ!?」
空中に浮いている、というのは些か誤解があったかもしれない。より正確に言えば、『空中に浮いているホウキに、ふらふらとぶら下がっている女の子』だった。そして、その女の子は、さっきまで彼らが必死で守ろうとしていた相手『七峰茅』だった。
「なんだ……ありゃ?」
思わず間の抜けた感想を漏らしてしまう光樹。それも無理も無いほど、茅の状態は不安定に揺れていた。例えるならば、てるてる坊主が風に揺られてぷらぷらとそよいでいるような感じ……だ。
だが、その姿は紛れもなく宙に浮いていた。てるてる坊主のように、頭上から紐がぶら下がっているわけでは無さそうだ。その証拠に、ふらふらと無軌道に揺れながら、少しずつ地面へと降りてきている。
他の二人も、呆気にとられたままその姿を眺めていた。銀狼も一瞬、その体が止まった。……だが、再び我に返ったのか、牙をむき出しにして直哉の方へと照準を定めたようだった。
「う……わわわっ!」
慌てて転げるように逃げ出す直哉。だが、それを追うようにして銀狼は素早く後を駆ける。後数歩で飛び掛かれる位置へと辿り着いた時。
「――ダメッ!止めなさい!」
その目の前に、茅が降りてきた。
ギリギリのタイミングで間に合った茅が、ホウキから飛び降りて直哉の前に両手を広げて立ち塞がる。もちろん、銀狼と比べたら二回り以上も小柄な彼女の体だ。あっという間に跳ね飛ばされるか、代わりに彼女が標的となって鋭い牙の餌食になってしまうかと思った。……だが。
「ゥ……ウウゥォォ……ン……」
予想外に、銀狼は茅の目の前でその獰猛さを失っていた。
先ほどまで逆立っていた全身の毛はしおらしく倒れ、むき出しの牙も口の奥へと隠れた。さらに金色の虹彩に、黒い色が戻ってくる。悪魔のような凶暴な獣は、今や彼女の前で従順な飼い犬のように、背を丸めていった……。
「何が……『逃げて』よ……!そんなこと……できるわけない……じゃない……」
膝を付き、手を付く銀狼の体を、小柄な茅が優しく抱擁する。他の三人の男たちが呆然とその様子を眺めている前で、狼男はゆっくりと元の人間の姿――相模庸へと戻っていったのだった。
「な、何だ……?」
「一体何が起こったの……?」
「それはこっちの台詞だよ……」
光樹、総一郎、直哉、そして庸、茅の五人が集まって、互いに顔を見合わせながら息を吐く。……屋上には、他に動くものはいない。青木が屋上から消えて、他のクラスメイトたちは皆倒れたままだ。
ともかく、学級会から起こったこの一連の騒動は、ようやく収まったように思える。最早どう収拾を付けたらいいのか分からなかったが、とりあえずみんな無事だったようだ。これで果たしてこの異変は収まるのだろうか?
(……一体、さっきまでの出来事は何だったんだ……?)
事態が収まり、そんな風に全員の頭にそんな考えが思い始めた頃、屋上の入口の方から誰かが出てくる気配がした。