23.魔女の目覚め
鬼と化した級長青木が、庸をフェンス越しに空中へと追い詰めた屋上の片隅。満身創痍となった庸が、虚勢を張って青木を挑発する。そして青木はとうとう庸に止めを刺すべく、一歩踏み込んだ。
「じゃあな、相模」
その言葉と共に、右足を大きく床へと叩きつける。すると、コンクリートの屋上の床が、バキバキと物騒な音を立てて陥没していくのだった。そしてその崩壊は庸がもたれ掛かっているフェンスの足場をも崩して、一気に金属製の網が空中へと倒れていった。
「……の野郎っ!」
「相模!」「相模君!」「チッ!」
三人の男たちが、それぞれ庸の元へ駆け付けようとする。が、すぐ側にいる青木に阻まれて近づくことができない。メキメキと甲高い音を立てながら崩れていくフェンスに捕まったまま、庸は何とか体勢を立て直そうとしていた。
だが、青木は繋がっているフェンスの途中を持っていた丸太でぶん殴り、柵ごと落下させようとする。
「ほーら死ね!死ねよ!クソ犬!」
「てめえっ!」
ガギン!ガゴン!
青木が二、三発も殴ると、あっという間にフェンスはぺしゃんこにひしゃげてしまった。そしてそのままギギギ……と外へ向けて千切れていく。何とか庸は下の階の校舎の窓へ向かって飛び移ろうとしていたが、青木の妨害によってフェンスに捕まっているのがやっとのようだった。
『上昇気流。天高く舞い上がる龍よ、その鬣を我に貸与え給え……おわっ!』
一瞬、光樹が再び呟いた言葉と同期して、庸の周囲に風が渦巻いたかに見えた。しかし、それを見た青木が持っていた丸太を光樹へ投げつけると、光樹はそれを避けるために意識が逸れたのか、巻き起こった風は雲散霧消してしまう。にやりと笑った青木が庸へと呟く。
「じゃあ……な!」
庸の体を浮遊感が襲う。
既に掴んでいたフェンスは、青木の足元から千切り取られ、もう屋上の床とは繋がっていなかった。なので、咄嗟に手を放し、ちらりと下を見る庸。
(あ……これ、死ぬかも)
瞬間的に、そんな感想が脳裏に浮かぶ。
校舎の屋上からは、地面まで10m以上はあるだろう。残念ながら、そこには掴まれそうな樹木も生えていなかったし、下に生えている庭木も無い。コンクリート製の地面へ叩きつけられた場合、通常なら、さすがの庸も無事とは言えない高さだった。……ただし、ある場合を除いてだが。
その『ある場合』を適用させるかどうか、庸は考える。が、今の瞬間からそれをやって間に合うかどうかは分からない。コンマ数秒間だけ逡巡する庸の耳に、突然聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「さ……相模君!こっち!」
間違うはずもない。茅の声だった。
彼女は何故か、彼が掴んでいた場所から外れた、フェンスの上に立っている。
その光景がすぐに理解できなくて、落下しながらぼんやりと、(あ、スカート……見えちゃうよ?)となどと庸は場違いなことを思う。そして、(……名前、初めて呼んでもらったかも……)などと、謎の感想を抱いていた。
庸が現実に戻るよりも早く、茅は行動を起こしていた。行動を起こしたというのが正しいのかはよく分からない。何故かと言えば、彼女が起こした行動というのは、『そのまま屋上から落下する』ことだったから、だ。
『え!?』
自分が先に落ちているにも関わらず、庸は目を丸くする。が、そんな庸のことなどお構い無く、茅はまっすぐこちらへ向かって飛んで……いや、落ちてくる。何が「こっち!」なのかも、自分がこれから真っ逆さまに10mも下の地上に落下する所なのも忘れて、庸は茅を受け止めようと腕を広げた。
「茅ちゃん!手を!」
咄嗟に、彼女だけはとにかく落下させないように、落ちたとしても自分が下になってクッションになるよう、庸は体を捻って動かす。そして彼の体の奥底に眠る『因子』に向けて語りかける。
(目覚めろ……月の狂気よ……!)
***
その時のことは、あまり覚えていない。
ただ、なんとかしなくちゃ……!と思っただけだ。目の前の光景に、あの時の記憶がフラッシュバックする。もう誰かが目の前で落下するのは嫌だ。ただそれだけの感情だった。
それが誰だとかはどうでもいい。とにかく、自分がなんとかできるのに、それをしないのは無理だった。嫌だった。自分がどうなるのかなんて考えてはいなかった。
『……助けなきゃ。助けなきゃ。助けなきゃ!』
頭の中の全てが、その感情で埋め尽くされる。気が付いた時にはもう、フェンスを乗り越えていた。
「さ……相模君!こっち!」
彼のことは嫌いだった。こっちの気持ちも考えず、ただズケズケと人の気持ちに土足で踏み込んでくる。孤独になりたいのに、そんなことも分かってくれずに私に話しかける。……なんて身勝手で不躾で空気も読めないデリカシーの無い男子。
でも。
それでも、こんな私を守ろうとして、庇ってくれた。目の前に立ってくれた。
クラス全員が敵に回っても、私の味方で居てくれた人たち。必死に否定しようとしても……僅かだけど、嬉しくもあった。
「駄目だよ、七峰さん。自分の心に嘘をついちゃ……」
そう語りかけられた時。思い出してしまったんだ。
一人ぼっちで家に帰ってドアを開けた時、真っ暗な部屋に上がる時のあの空虚な気持ちを。一人過ごす夜の時間、誰にも連絡できない時のあの行き場のない気持ちを。
……そして、誰かと語り合える、分かり合えるその喜びを。
まだこの気持ちが何だかあまり分からないが。……少なくとも、彼らが私に対してしてくれるのと同じくらいには、私も何かを返したい。そんな気持ちが芽生えてしまったのだ。
だから。
だから……私にできるのなら。
「お願い……届いてっ!」
茅の手は、しっかりと庸を掴んでいた。
***
最初は、何が起こったのか誰も分からなかった。屋上に残された人々は、互いを警戒していて、のんびり様子を見ているヒマは無かったし、当の本人たちは、それこそなんだか夢を見ているような感覚で、現実感が無かった。
ただそれは、まるで時が止まったかのようにゆっくりと、ただゆっくりと、空中を漂いながら地面へと近づいていた。
予想していたような衝撃は無く、さっきまでの無重力感も無く、心なしか暖かいシャボン玉の中に包まれているような面持ちで、二人は一階の窓の外を通過する。
(なんかこれ……昔なんかのアニメで見たことあるような……)
どこかぼんやりと、そんなことを思いながら、庸は茅と手を繋いだまま、ふわりと地面へ着地した。茅はまだ、ギュッと目を瞑っている。
「茅ちゃん……?」
庸はそんな彼女へ優しく声をかける。……『まだ』自分の体には何の変化も無い。となると、何かしたのは彼女の方だ。そう思った。
だが、当の本人は未だ地面へ落下している最中かのように、顔を強張らせたまま目を閉じている。そして、庸はもう地面に着いているというのに、彼女だけはまだ空中に漂ったままだ。艶のある黒髪やスカートがふわふわと風になびいていた。
「え……あれ……?」
庸からの呼びかけに、ようやく茅が応えた。そして、恐る恐る目を開くと、自分が地面の上に叩きつけられて、裏返すのに失敗したお好み焼きのなりそこないみたいになっていないことを再確認する。……そしてようやく、地面へと足を下ろした。
「これって……一体……?」
「……」
庸が疑問を口にするが、茅は黙ったまま何も答えようとしない。表情を見る限り、まだ自分の思考が追いついていないようだ。何と話しかけようか庸が迷っていた時……。
ドゴンッ!
屋上の方から爆発音がした。そしてパラパラと、石の破片のようなものが落ちてくる。それで急に庸は我に返り、同時に自分の体の奥から何かが叫ぶような衝動が湧いてくるのに気付いていた。
「か……茅ちゃん……離れて。あと今のうちに逃げるんだ。後は俺がなんとか……!」
する……!と言いかけて、庸の台詞は最後まで言えなかった。というのも、再び庸の体中から銀色に輝く獣のような毛が生えてきて、彼は『人間ではないもの』へと変身を始めたからだ。
「ヴ……ヴヴ……ヴヴォォーンンンンンッッッ!!!」
その様子を見て、ようやく茅も意識が戻ってきた。ギョッと少し怯えたように後ずさる。
……それを見た、獣の姿になった庸は、僅かながら寂しそうな顔をして、再び屋上の方を見上げる。
今や、完全に【狼男】の姿になった庸は、その毛むくじゃらの体を一瞬だけ縮めると、次の瞬間には恐るべき跳躍力で、地上からいなくなっていた。一瞬遅れて目で後を追った茅は、二回の窓でワンクッションを置いて、もう一度ジャンプをして再び屋上まで戻っていく庸……だった者の姿が見えていた。
「どう……したんだろう、私」
色々と考えることがありすぎて、頭が追いつかない。
でも、今の彼女にとって最も重要なことは一つだけだった。
「ずっと、飛べなかったのに……」
もう、血は無くなったと思っていた。母からも祖母からも、「そういう魔女もいる」と聞いたことがあったからだ。何かのきっかけで、血を無くしてしまう魔女の家系。……だからこそ、彼女の一族のみが今まで残ってきたのだ。
でも、さっきのは……明らかに自分の『魔女』の力だった。遥か昔に感じていた、あの感覚をぼんやりと思い出す。まるで水中を泳ぐ魚のように、空中を自在に飛び回るあの感覚。……ずっと忌まわしくて避けていた、あの時の感覚。
正直、屋上から飛び降りる前の事はあまり覚えていない。とにかくもう『誰かが空から落ちてしまう』のは嫌だったからだ。ただそれだけの感情で、彼女は屋上から飛び降りた。……一時的に、幼児退行していたのかもしれない。それがもしかしたら、力を取り戻した原因だったんだろうか……?
ドッガシャーン!!
その音で再び我に返る。……そうだ、今重要なのは、私の力のことじゃない。彼らのことだ。……彼らは、まだ戦ってるんだ。
私の、ために。
(……今のうちに逃げるんだ!)
獣の姿になる前の庸が、最後に伝えた言葉。
茅は一瞬、学校の外の方を振り返る。……そこには誰もおらず、このおかしな空間となった学校から脱出できる道が伸びている。けど、彼女はすぐにそんな考えは頭の中から消し去った。一瞬、階段を登って屋上まで上がろうかと考える。……だが。
そしてまた、茅は自分の体の中を巡る『血』に語りかけるのだった。
(お願い……!)