22.炎上
無機質な校舎の屋上。その一角に突然真紅の炎が舞い上がっていた。
総一郎がぶちまけた灯油に引火した火花が、あっという間に辺りを火の海に変える。もちろん、彼を始めとした庸や光樹たちは距離を置いていた。その火の海の中にいるのは、青鬼と化した級長の青木だけだ。
「ぐ……ぐおおおぉ……っ!……とでも言うと思ったか?」
一瞬顔がドヤ顔になりそうだった総一郎だったが、その不遜な青木の声を聞いて我に返った。そして苦虫を噛み潰したような表情で舌打ちをする。
「……チッ」
「桐生。君は詰めが甘いんだよ。どうせ灯油をかけるんなら、一思いに頭の天辺から全部ぶっかけないと……!まだ情でも残ってたのかな?」
片足が火達磨になりながらも、澄ました顔で青木はそう言うと、物凄い勢いで足を振り上げ、その勢いと風圧で火そのものを吹き消した。
「なんだって……!?」
「まあ、狙いは悪くなかったよ。いくら僕でも、炎には勝てない。……だが、『鬼』となった僕を丸焼きにしたければ、妖術の鬼火か狐火でも持ってくるんだったね」
平然と再び首を鳴らす青木に対して、総一郎は為す術もなく立ちすくむ。もう、彼にはこれ以上の打つ手が思い浮かばなかった。少なくとも、周囲にある物の中ではどうしようもない。後は、あるとしたら……?
「だがまあ、ちょこまかと逃げ回られるのにももう飽きた。これ以上暴れたら、この屋上の床自体が持ちそうにないし。いい加減に死刑にするとしようか……」
その声の一瞬の後、彼らがいた場所は陥没した。巨大なコンクリートが飛んできたためだ。それより一瞬早く彼らは散開し、間一髪直撃は免れた。
……気が付けば炎に囲まれている。彼らがいる建物は炎上し始めていた。
青木は、近くにあったコンクリート製の壁の一部をもぎ取って投げつけて来たのだった。なんという腕力。中に入っていた鉄筋もろとも剥ぎ取っている。そしていつの間にか、総一郎が撒いた灯油が、彼らのいる場所の周囲を取り囲んで逃げ場を無くすようにスペースを削り始めている。
「おい、どうするんだよ……!」
「すまん、ここまで予想してなかった……」
「く、来るよ二人とも!」
焦りながらヒソヒソと話す彼らの方へ、ゆっくりと青木が歩いてきた。そしてこっちを見て、愉快そうに笑っている。
「……クックククククッ……」
怪物は手には棍棒を持っていた。……棍棒?いや、違う。丸太だ。工事現場においてある足場用の丸太を、片手で軽々と持ち上げていたのだった。全長二メートルはありそうな丸太を、あの怪物はまるで子供用のおもちゃのバットを振り回すかのようにゆらゆらと動かしている。
……あの姿こそ、まさに『鬼』。彼らが抱くイメージを表現するには、その言葉が一番似合っていた。
「お前ら、俺が何とかするから……離れてろ」
もう逃げ場がないと追い詰められた表情の彼らを見て、庸がポツリと呟く。他の四人が驚いて、彼の方を振り向いた。
「何とかするって……どうやってだよ!?」
「何とかって言ったら……何とかだよ!ほら早く!」
「お、おいっ!」
青木がこちらに迫っているのを見て、庸は一歩前に出る。光樹はそんな庸を止めようと思ったが、その前に既に鬼が丸太を振りかぶるのが見えた。
「ふははははっ!」
高らかな笑い声とともに、丸太を振り下ろす鬼。光樹の腕が届くより早く、丸太は庸の頭の天辺に真っ直ぐに落ちてきた。庸はそれを、両手を頭の上でクロスすることによって受け止めようとする。
グギャッ!
嫌な音がした。目の前の光景に思わず一瞬目を瞑った茅だったが、恐る恐る目を明けてみると、そこには丸太が真ん中からボギッと、庸の頭を支点として折れているのが分かった。
「ぅ……ぐっ……」
「固い頭だな」
「相模!」
まるで卵が割れなかった時ぐらいの感覚で、青木は呟く。足場の柱にもなるような丸太だったので、それなりに太いサイズだったのだが、それが完全にへし折れていた。
両腕で庇ったとはいえ、さすがの庸も動きが止まる。そしてゆっくりと膝を着いた。……タラリと額の間に赤い液体が溢れてくる。衝撃でどこかを噛み切ったのか、口元からも血が垂れてきていた。
「今度こそ、その無駄に固い頭蓋骨を粉々にしてやるよ」
嬉しそうにニヤけながら、青木は丸太を持ち直す。短くなった分を一歩踏み込むと、再び振り被ろうとした。その時。
「ま……待って!」
「ん?」
「七峰?」
男たちに囲まれていた茅が、思わず叫ぶ。……その場にいた全員が後ろを振り返った。
茅は悲痛な表情をしながら、拳を握りしめて青木の方を睨んでいる。
「もう……もういいから!もう止めてよ!」
「七峰さん……?」
「私が魔女だから死刑にしたいなら……そうすればいいわ。何で……なんでみんなこんな私のためにそこまでするの!?止めてよ……!もう私は誰とも関わりたくないの!」
俯いた黒髪の間から、さらに悲痛な叫びが響く。握りしめた拳は、遠い過去の思い出を握り潰すかのように固く閉ざされていた。
何だか訳が分からないまま、妙なことに巻き込まれたかと思えば、クラスの全員がおかしくなって、追いかけられて、命を狙われて。……それだけならまだ耐えられる。でも、どうしても耐えられないことが彼女にはあった。
「止めて……私に……構わないで……」
彼女のために、誰かが傷つくこと。それだけは、どうしても嫌だった。
たまたま転校してきた学校の、クラスメイトの一部と、たまたま知り合った生徒。ただそれだけなのに、こんな私を庇って助けるために、みんなボロボロになってる。意味なんて分からないけど……それでも、私一人が犠牲になることで、この人達が助かるのなら、もう私なんてどうだっていい。元々そんな価値があるような人間じゃないもの。
「うっ……うぅ……っ」
気が付けば嗚咽が漏れていた。零れた涙が、艶のある黒髪を伝ってコンクリートの地面へと落ちる。一瞬だけ染みを作った水滴は、すぐに周りの温度によって蒸発して消えてしまった。
「いーい心がけだ魔女よ。呪われた血筋と云えど、正しい選択をすることはできるようだな」
「くっ……う……」
一度流れだした涙は止まらない。何に対してなのかは分からないけど、悔しくて悔しくて歯を食いしばる。泣き声なんて絶対に聞かせたくないのに。このまま私は平然と、無表情な魔女のまま焼かれてしまえばいいんだ。……そんな自虐的な気持ちが湧いてくる。
脳裏によぎる、小さな頃の人影。ずっと引きずってきた。
自分ではよく分からないけど、例え魔女だったわけじゃなくても、私が呪われているのは分かる。知っている。
ずっと誰かに裁いて欲しかったんだ。
みんなみんな優しすぎたから。
でもその優しさが逆に辛くて、一人都会へと逃げてきた。
優しさから逃げることが、自分への罰として。
誰とも付き合わなければ、誰かと親しくなることもないし、優しくされることもない。
誰かを傷つけることだって無いし、そのことで自分が傷つくこともない。
ひっそりと黒い影のように暮らしていければ良かった。
……それなのに。それなのに……。
「は、早く……殺してよっ」
嗚咽を堪えながら、それだけ言うのが精一杯だった。
これ以上喋ったら、何かの感情がぷっつりと切れてしまいそうだった。
今まで押し殺してきた何かが、どっと溢れてしまいそうな。
……だから、嫌だった。人と触れ合うことなんて、もう嫌だったのだ。
それなのに。
「ま……待てよ……!」
「相模……」
「駄目だよ、七峰さん。自分の心に嘘をついちゃ……」
「長谷川……?」
庸が、膝を着きながらかすれたような声を搾り出す。
直哉が茅の肩に手を置きながら、優しく答えた。
「え……?」
茅が不思議そうに返す。思わず直哉の方を振り返ると、ヘッドホンを外した直哉が、彼女の瞳の奥まで見透かしたような微笑みでこちらを見ているのが分かった。
「ごめんね。『喧騒』が強かったから聴こえちゃったんだ。……そんなに一人で傷つかなくても、いいんだよ?」
「え、え……?」
茅には、彼が何を言っているのかはよく分からなかったが、それでも彼女の心のど真ん中に語りかけてきているのは分かった。少し取り乱したように、狼狽えてしまう。
「そんなの……ダメに決まってんだろうが……!茅ちゃんが死ぬのは、少なくとも俺が死んだ後なんだよ……っ!」
「相模。うるさいよお前。この死に損ないが」
膝立ちの姿勢のまま、垂れ下がった前髪の間から上目遣いで睨みつけてくる庸の表情が癇に障ったのか、青木が額に青筋を立てながら無感情にそう言った後。
ドゴッ!
おもむろに庸の腹を無造作に蹴飛ばした。咄嗟に腕で庇ったものの、そのまま庸は吹っ飛ばされて屋上のフェンスへと叩きつけられる。
「ぐ……あっ……」
庸が叩きつけられたフェンスは、そのままひしゃげて外へと広がる。あまりの勢いに、地面ごと支柱が抉れてバキバキと音を立てて折れ始めた。
「ヤバい、相模が……!」
「くそっ、何とかあいつを足止めする方法があれば……!」
「七峰さん、下がって!」
「え、でも……」
戸惑う茅の前に、光樹が進み出る。
「七峰。お前の事情のことはよく知らんが、もう乗りかかった船だ。別にお前のためにやってるわけじゃない。俺たち……いや少なくとも俺は、このクソみたいに訳の分からない状況を何とかしたいからやってるだけだ。お前が少しでも罪悪感のようなものを感じてるのなら、とにかくこの状況を何とかする方法を考えろ。……もちろん、『お前が生け贄になる』なんてつまんねー方法じゃなくてな」
「後ろに同じだよ」
光樹に続いて、総一郎も言葉を繋げる。……彼は、近くにあった道具箱の中を漁って、何か使える物が無いかどうか探している所のようだった。
「…………」
茅に答えられる言葉は無くなった。
鬼となった青木は、フェンスまで吹き飛ばした庸に止めを刺すつもりなのか、ゆっくりと歩み寄っていく。直哉は茅を引っ張って屋上の隅の方へと逃げる。
光樹が再び旋風を起こすが、やはり効いた様子はなく、その圧倒的なオーラにたじろいで後ずさりする。青木が無造作に短くなった丸太を振り回し、それを避けるために後退せざるを得なかった。
「ほら、誰もかかってこないのか?もう打つ手無しという所かな?」
青木が歩く先には、ようやくフェンスから起き上がった庸がいる。既に全身はボロボロだ。頭からは血が流れ、体中は擦り傷だらけ。戦意こそ失ってはいないものの、立っているのがやっとという状態だ。しかしそれでも、彼は挑む。
舞台は工事中の学校の屋上。周りの一部には、コンクリートの壁や鉄骨がまだ剥き出しの状態になっている。
工事用の資材が投げつけられた周りのフェンスがひしゃげて、足元から折れて校舎の外にぶら下がっていた。……もし、さっきのような一撃を受けて吹き飛ばされた場合、あっという間に四階建ての校舎の屋上から真っ逆さまになる。
「ククク、どうしたお前ら。お前らの力はその程度か」
「や……ろぉっ!」
悔しそうに庸が歯軋りをする。鬼はまだ、かすり傷一つ負ってはいなかった。異様なまでに盛り上がる筋肉と、静脈が浮き上がっているような青い肌が、中途半端な打撃は受け付けないほど硬質化している。
「どうした相模。もう後がないぞ?」
その言葉に横目で見ると、ほんの二メートルほど先にはもう床がなかった。それでも庸は怯えた様子など見せず、虚勢を張る。
「調子に乗ってんのも今のうちだぜ?」
「ほお、そこまで強がれるのは大したものだな。……けど、死ねよ!」
「相模っ!」
慌てて光樹と総一郎が駆け寄ろうとする。しかし、鬼は近くにあったセメントの袋を軽々と投げ付け、それを避けるために二人はバランスを崩した。袋が弾け、周囲に粉が舞い散る。
巻き上がる粉で視界を失った二人は、庸の元へ駆けつけることができない。
「ちっ!」
「相模君!」
仲間の声だけが、鬼と庸の所へ届いた。……しかしそれでも庸は、鬼から目を離さない。
「いい仲間を持って幸せだなぁ?相模」
「……ああ。お前じゃなくてほんとに良かったぜ」
「フッ、あばよ」
鬼が右足を叩きつけると、庸の周りの床が無くなった。