2.始まりの日常
「……ふ、ふぁあぁあぁあぁ……」
大抵の生徒がそうであるように、彼、相模庸もまた毎日に退屈していた。
その結果として脳は酸素を求め、大きく口を開けて酸素を吸入する。そしてそれは右横にいた生徒へと移っていった。
学校。
その単語だけで、他に説明は要らない。そういった毎日の暮らしを彼は過ごしていた。
高校。
その単語を加えれば、もう説明は完璧だ。
そう言い切ってしまえるほどの当たり前の日常だった。……そう、今日までは。
しかしまだ彼はその事を知らずに、遠慮なく降り注ぐ太陽からのエネルギーに対して、自然と再び口が開きそうになる。
退屈+日差し=欠伸。庸はふとそんなことを考えた。
だが、実は計算はあまり得意ではない。
……それが先程の欠伸の原因となったらしい。
皆の前に立ち、黒板に(庸にとっては)訳のわからない記号を羅列している数学の教師も、既に庸の様子には気付いていた。
彼の数学の成績があまり良くない事も承知済みだ。だから黙認している。
それにしても……。
「……ふ、ふぁあぁあぁあぁ……」
本日二度目の欠伸をする。
その盛大な欠伸によって、前後左右全員へとそれが伝染したのを見ると、とうとう教師も彼を注意しようかどうか迷い始めたようだった……。
***
「東条?もう授業始まってるよ。またサボり?」
若干ハスキーな響きが残る若い女性の声で、東条光樹は我に返った。
目の前の文章に集中していた視線を少しずらして見上げると、そこに見えたのは、いつもの通りの白い天井とカーテンだ。
その白鳥の羽を広げたように真っ白なカーテンの向こうに、声の主の気配を感じて目を向ける。
顔は動かさずに、視線だけを動かしながら、彼は答えた。
「由香里先生、いいんだって。あんな国語の授業じゃ俺の感性が鈍るだけだから」
「ふ~ん、一時間目から保健室のベッドで小説を読むのがあなたの感性なの?」
多少刺が含まれている先生の言葉にも光樹は動じない。
彼は、由香里先生がそれくらいで保健室を追い出すような人物ではない事をよく知っていた。
再び視線を小説に戻す。
「違うよ。そういうことじゃなくて。物語は誰かに読まされるもんじゃなくて、自分で読みたいって思った時に読む物なんだよ」
「……まあ、確かにそれは一理あるわね」
という言葉と同時に、カーテンがジャッというあの音と共にスライドして開けられる。
差し込んだまだ幼い一日の初めの光が、彼の目に飛び込んできて眩い。
由香里先生、と生徒たちから親しみを込めて呼ばれている保健の先生も、それ以上は何も言わず、再び黙って机に向かって腰掛けた。
……それを見た光樹は、再び読みかけの小説に目を戻すのだった。
光樹はここ保健室の常連客だった。
低血圧な彼は、よく朝から体調が優れない時やその他の時に保健室に来て本を読んでいる。保健の由香里先生と二人で話す時間が多々あったため、今では光樹にとって由香里先生は、担任の教師よりも話しやすい存在となっていた。
あまりにも話し易すぎるせいか、最近は概ね『その他の時』が多くなっていたわけだが。
目の端で、欠伸をして伸びをする由香里先生の姿を捉えた。
退屈を表す最もオーソドックスなボディランゲージだ。
「あ~それにしても、早く仕事終わんないかな」
「おいおい、生徒の前で言う台詞かよ」
「いいじゃない。アンタだってサボってるんだから」
……女性として思えない理由は、裏の面を知ってしまったためでもある。
もはや最初の頃に保健室に来ていた時の、あの優雅で知的な雰囲気は、とっくの昔に化石と化してしまったようだ。
当初の頃の、彼が重い頭を抱えてドアを開けた時にかけてくれた、「どうしたの大丈夫?早く横になりなさい……?」などという言葉は、もはや二人の間では死語となりつつあるのだった。
……まあ、今更そんな対応をされても困るといえば困るのだが。
「ふぁ~、何か眠くなってきたな」
光樹は軽く欠伸をする。それに鋭く反応した人物がいた。
「ちょっと!私を残して寝ようったってそうはいかないわよ!」
「そんな事言ったって、春眠暁を覚えずって……ふわ……」
「っ!秘技!包帯ミサイル!」
「ぃてっ!医薬品を投げるなよ!」
「うるさい、目が覚めたか!とりゃっ!」
「いてっ、いくつだよアンタ!」
まるでアニメのように様々な物が宙を舞う中、保健室の扉が申し訳無さそうに開いた。
「(ガラガラ)あの~先生……」
「(くるりキラキラ)……何?」
「怪我しちゃったんですけど……」
膝から血を流して立っている生徒を見た瞬間、由香里先生の態度は豹変した。
さっきまでVの字だった眉毛が、急に八の字になる。
「どうしたの大丈夫?早く横になりなさい……?」
(変わり身早すぎだろ……)
新たな年の新たな一日。
一学期の初めは、まだ彼らにとっては日常は日常として存在していた。
***
空は快晴。いい陽気だ。
こんな日は学校をサボってどこか遠くへ行きたくなる。
……そんな思いを抱えながら、総一郎は屋上で一人音楽を聞いていた。
「何でこんな空気の振動が心に響くんだろうな……」
もちろん今は授業中だ。今頃彼の所属する教室では、社会の授業が行われているはずだ。
1192作ろう鎌倉幕府だなんだと黒板に書かれているのだろうか。
そしてそれを黙々と生徒たちは書き写しているのだろうか。
(……無意味だ)
総一郎はそう思わずにはいられなかった。それは別に教育の内容に関してではない。教科書の内容に沿って行われる授業において、彼にとっては既に知っている事には何の意味も無いのだ。今も集中すれば、彼の頭の中には社会科の教科書が一ページ一ページありありと思い浮かんでくる。
終いには目次や巻末情報まで思い出してしまい、総一郎は自分の思考を振り払った。
……再び、イヤホンから流れる音楽に集中する。
彼にとっては、音は唯一、己の呪縛から解き放ってくれる鍵だった。
眼鏡を外し、もう一度空を見上げる。
(……なんでこんな天気のいい日に、人間は室内に閉じ篭ってなくちゃいけないんだよ)
雲に向かって愚痴をこぼした。
もちろん、誰も答えてくれるものなどいない。
PCの背景を思わせるような空の色の片隅には、何の変哲も無い形をした雲が一つだけ漂っている。
彼はそれを何かに例えてみようと色々思考を巡らせてみた、が……止めた。
(雲は雲。それでいいか……)
この心地よい空の下で爽やかな風を浴びている間ぐらいは、せめてあの煩わしい様々な事象を呼び起こすことなど止めておこうと思ったのだ。
***
「静かだな……」
昼下がりの心地よい風が吹き抜けていく学校の裏庭。
長谷川直哉はここで昼休みを過ごすのが日課だった。
……ここなら、彼の嫌う雑音は聞こえないからだ。
十m四方ほどに作られた、落ち着いた雰囲気の庭園と芝生。この時間には丁度良い日差しが差し込み、至福の時間と空間を作り出している。
既に午後のチャイムが鳴り、学生たちが居なくなった庭では、代わりに訪れる鳥たちの声で賑わっていた。
そんな中、直哉は日当たりの良い一角に寝転び、鳥たちのお喋りに耳を澄ましていた。
学校の外では、よくカラスの姿を見かけるのだが、さすがに学校の中まではあまり入ってこない。
彼の近くまでやってくる者といえば、スズメやセキレイの仲間、それにモズといった小型の鳥類だけであった。
「……やあ、久しぶり」
彼の近くに飛んできた一匹のスズメに対して、そう話し掛ける。それに気付いたスズメも、彼に挨拶を返す。
……気のせいではない。彼にはそれが分かった。
まるで映写機で観るフィルムのような動きで彼の様子を伺うスズメを見ながら、僅かに微笑む。
それに反応したかのように、別の方向を向いた小さな友人の目線の先を見て、彼の表情が一気に変わった。
「あっ、まずい!授業始まってる!」
慌てて校舎の中へ走っていく直哉。視線の先では、生徒たちが窓越しに起立している姿が目に入ってきていた。
それを見届けた後、スズメもまたやれやれ……という表情をしたのかどうかは定かではないが、再びいつものように飛び去るのだった。