17.鬼を追うもの
「よっこい、せ!っと……」
ガギギギギギギ……!
保健室のドアが開け放たれ、中には誰もいないことを確認した庸と直哉は、廊下の先にあったドアから校舎の外へと出る所だった。が、押してもビクともしないドアに異変を感じた直哉が庸にその事を伝えると、彼の代わりに庸が少し力を入れた瞬間、さっきまで壁の一部にでもなっていたかのようなドアが動きだした。……が、その時立てた音が、通常の音ではない。
「あ、あの相模君……?ドアの下の方、曲がってる上に地面えぐれてるんだけど……」
「え?そうか?」
指摘する直哉にも、庸は全く気にした様子も無い。それどころか、ドアを開けた先にロッカーが倒れて塞いでいたりとか、ドアの外のすぐ下のコンクリートがめくれてボロボロになっていることなどにも興味を向けることなく、ただキョロキョロと見回して茅の姿を探している。
しかしそこには、相変わらず誰の姿も無かった。さっきから見ていても、これだけ派手に騒いでいるにも関わらず、どの教室からも誰も出てくる気配が無い。途中でどこかの教室の扉を開けてみようかとも考えたが、まだ今はそれどころじゃないからと思い、そのままスルーして来たのだった。
散らかった惨状を見て、庸はどっちへ向かえばいいかと悩んでいるようだったが、そんな庸を視線から外し、直哉は目を閉じると、彼の両耳に意識を集中する。
「……相模君、あっちの林に誰かいる」
「何?」
直哉の耳には、暗い林の奥に何者かが存在する気配が聞こえてきた。そちらを指差すと、二人は指先の方向へと走っていく。そして体育館の裏側に広がる、学校の敷地内の林の中へと向かった。
いつもなら、遠くから街の喧騒が聞こえ、スズメやムクドリたちが飛び回っている見慣れた林が、何故か今は静まり返っており、鬱蒼として薄暗いままだ。
まだ、誰の姿も見えないまま、数メートルほど林の中へと入った時、直哉は急に庸の体を制止した。
「待って。……そこに何かある」
「ん?何だよ何かって」
「分からない。けど……誰かの悪意を持った仕掛けがあるのは確かだよ」
庸が目を凝らしても、特に何もあるようには見えない。辺りには落ち葉が溜まっているだけだ。
……ん?落ち葉?
その違和感に、庸と直哉は同時にピンと来た。
「おかしいな。何でこの時期に落ち葉が溜まってる?しかもまだ新しい葉っぱだ」
「それにいつもなら、用務員の人が掃除してるから、溜まっててもすぐに無くなるはずだよね」
「……そうそう。そのことによく気付いたね」
「!?」
「……誰だ!って、その声は……」
林の奥、暗がりになっている木の陰から、数人の生徒たちが姿を現した。
その中心に立っているのは……。
「追ってくると思ってたよ。犬っコロのような相模君ならね」
「!?……青木……!」
「残念。野崎君の探検部直伝のくくり罠が見破られちゃったね」
先ほどまで、教室の壇上で魔女狩り裁判の演説を繰り広げていた、級長の青木を筆頭に、数人の生徒が周囲を取り囲んでいる。そのうちの一人は、紹介の通り、探検部に所属する野崎という生徒だった。
しかし彼は、青木に紹介されたというのに、眉毛一つピクリとも動かさない。
「仕方ない。生物部の柳川君からの贈り物を使わせてもらおうかな……」
「なんだと……?」
「!?……何かいる……」
楽しげな青木の言葉に合わせ、奥の低木の薮から、毛むくじゃらの生き物が近づいてくるのが二人には見えた。それは何だか興奮しているかのように、ハッハッと浅い呼吸を繰り返している。その呼吸に合わせて、焼き過ぎて黒に近くなったほどの焦げ茶色の毛並みが脈動していた。
人間の腰ほどの高さで四足歩行をする、蹄を持った獣。……それに、雄であることの証である牙が口元から生えているのが見える。完全に野生に近い風貌をしていながら、首輪やその類の物は、一切どこにも付けていなかった。
思わず信じられないものでも見たかのように、庸が呟く。
「猪……!?何でこんな所に……」
「そういえば確か、街の有害鳥獣駆除で捕まえたイノシシを、生態研究のために生物部で今預かってるって誰かが言ってた気が……」
「イヌの相手は、こいつで十分だよねぇ?」
いやらしく周囲の生徒たちに向けて、問いかける青木。……誰も反応する者は無い。それでも満足気に二人を眺めると、青木は周りの生徒たちに指示をする。
「じゃあ君たち、後は頼んだよ?」
「待てっ!青木!お前一体みんなに何をした!?」
「ははは、何をしたって、HRで魔女裁判をしただけだよ!七峰茅の判決は死刑!……それだけさ!」
「てんめえぇぇっ、青木っ!!!」
「青木君、キミは……?」
庸と直哉が何かを反論しようとする前に、青木は二人の目の前から立ち去ろうとする。慌ててそれを止めようと動いた庸だったが、視線の前で威嚇する猪に阻まれ、近づくことができない。
一部の生徒だけを残し、青木たちが走り出したと同時に、こちらを睨みつけている猪も動いた。
鼻息なのか鳴き声なのか分からない音を立てながら、一気に庸の方へと走りこんでくる。
後ろで見ていた直哉には、そのことは分かったのだが、何ら対処することができなかった。
……通常の場合、人間はほとんど野生の獣には敵わない。それは例え、犬だろうが猫だろうが同じだ。
考えてもみて欲しい。本気で走る彼らに、人間はどうやって追いつくことができるだろうか。
本気で噛み付いてくる獣に、皮膚の上にただ服を着ただけの人間が、どうやってそれを防ぐことができるだろうか。ましてやそれが、ほぼ野生だった猪であるならば、さらに。
だが現実には、このようなことを考えている余裕すらなかった。
さっきまではまるで何の変哲もなかった場所に、全く場違いな怪物が現れたのだ。そしてその怪物は、何の心構えをすることもできないまま、突然二人を襲ってきた。
猪の牙と言えば、農村地帯では普通に大怪我をする可能性がある存在だ。鹿の角ですら、胸を刺されて亡くなる人もいるぐらいである。凶暴な猪であれば、その怪我の規模はさらに大きくなることだろう。
ふと気付けば、数秒も掛かることなく、目の前には茶色の塊が迫っていた。
「や……ろっ!」
「相模君っ!?」
突然だったにもかかわらず、庸はギリギリ一瞬でその牙の突撃を転がりながらかわした。間一髪の所で、腹の辺りに迫った牙を避ける。勢い余った猪は数メートルほど進むと一瞬立ち止まり、その牙の矛先を庸から直哉へと変えようとした。
何の意図も見えない、ただ剥き出しのままの自然な敵意が直哉を射抜く。
「猪なんて……一体どうすれば……?」
射すくめられたように動けない直哉が、辛うじて聞き取れるぐらいの声で呟く。
すると、起き上がった庸から意外な言葉が投げかけられた。
「……ああ、猪で良かったぜ」
「は?」
思わず、直哉は間の抜けた返事をしてしまった。それを見た猪が、直哉へ向かって今正に突進を開始しようとしたその時。再び、庸は叫びながら猪の方へと走り出した。
「いいか!俺を見てもビビんじゃねえぞ……っ!おい!この豚野郎!」
豚は野生の猪を改良して生まれた家畜だということを知ってか知らずか、猪が直哉へと襲いかかろうとするより一瞬早く、目の前にいる獣並に素早い動きで、庸は猪へと掴みかかった。
一方で、猪の方は咄嗟に振り向き、飛び退って逃れようとしていたのだが、庸の動きが予想外に早かったため、飛び退る前に庸に両の牙を掴み取られてしまう。
「相模君っ!」
心配して直哉が叫ぶ。
だが、庸はそんな声など気にしてはいないようだった。
「ウ……ウオオオォォォォオオオッ!!!」
庸が獣のような咆哮を挙げる。
直哉の予想とは外れ、彼は猪に押し倒されたり、振り解かれることもなかった。まるで首輪にでも繋がれたように、その場から動けずに固まっている。
だが、足元を見る限り、何とか掴まれた牙を振りほどこうとしているのは分かった。じたばたともがいたり、地面にその蹄が食い込んでいるのが分かる。……恐るべき庸の膂力だった。
先ほどの教室からの一連の出来事といい、直哉は不思議に思う。……見た目はまるで普通なのに、あの力は一体どこから出てくるのか?確かに庸の体格は貧弱ではない。だが、ボディビルダーのような筋骨隆々の姿でもないし、格闘技をやっているような風でもない。あちこちの体育会系の部活から誘われてはいるが、確か今はどこにも所属はしていなかったはずだ。
にもかかわらず、あの常人離れしたパワーは一体どこから来ているというのか。見た目は全然普通なの……ん?
見た目は……普通……?
直哉は目の前の光景にしばしの間、目を疑った。それは、さっきまでは普通の人間の姿だった庸の体に、微妙な変化が訪れていたからだ。
まず、何だかさっきに比べて、体が一回り大きくなったように見える。……だが、これはもしかしたら目の錯覚かもしれない。でも、あの……腕は何だ?
まるで猪の毛皮に侵食されたかのように、数多くの毛が生えてきている。……あれは人間の毛なんてものじゃない。まさしく獣そのものの毛皮と言った方がいい。しかも、その色は泥で薄汚れた猪の物とは違い、灰色の波打ったしなやかな毛並みだ。……先ほど、青木が彼のことをイヌと呼んでいたが、まさにそれに相応しいような柔らかさを持った毛色だった。
驚いて直哉が庸の顔を見ると、そこにもすぐに違和感があるのが分かった。
顔も同じく、腕と同じように全面を灰色の毛が覆っており、さらに最も特徴的だったのは、鼻と口の辺りが集中して前面へとせり出している。そして……その口元からは、ハッキリと分かるぐらいの二対の犬歯が伸びていたのだった。
直哉の目には、獣のような虹彩を持った庸の両目が、暗がりで怪しく光ったような気がした。
「狼……?」
思わず呟いた直哉の言葉が、その様子を的確に表していた。
唸りながら猪の牙を掴む庸の姿は、日本の足で立ち上がった毛むくじゃらの狼のような姿をしていた。……よく見ると、お尻の辺りが膨らんでいる所から、もしかしたら尻尾も生えているのかもしれない。
今見ている光景が信じられず、呆けた表情で直哉は目の前の情景を眺めるしかなかった。
「ヴルルルルル……」
獣らしく、庸は鼻筋に皺を寄せながら唸ると、よりその両手に力を込める。
最早、猪は身動きすることすらできず、必死で踏ん張って耐えているように見える。が、その力も野生の獣のように変化した庸には敵わなかったようだ。
「ヴヴヴ……ヴァァァッ!!!」
猪の両前足が地面から浮き、庸が再び叫んだのと同時に、猪の体が宙を舞う。
……庸は、猪の牙を掴んだまま、体を捻って投げ飛ばしたのだった。
さっき突進してきたのと同じくらいのスピードで宙を舞った猪は、近くの杉の木の幹に衝突して地面へ落ちる。……そして、少し痙攣すると、そのまま動かなくなった。
その勢いと衝撃は凄まじく、しばらくそのまま木は小さく揺れていた。……幾つかの小枝や葉が舞い落ちてくる。一瞬だけ時が止まったような感覚がして、直哉はその場から動けないでいた。
「……驚いたか?」
その声に振り返ると、そこにはいつも通りの庸がいた。トレードマークの赤いバンダナを被り直し、少しそっぽを向いたままこちらへ話しかけてくる。
直哉は、もしかしてさっきまでのは目の錯覚だったのかもしれないと思いながら、何度か目を瞬かせていた。……どこにも毛なんて生えていないし、口元も全く人間と同じように見える。
ただ一つ。
その瞳だけはまだ収縮した虹彩を留めた、獣の雰囲気を漂わせる風貌を保ったままだった。
「え、あの……?」
「……」
彼に背を向けたまま、庸が何かを答えようとした瞬間、頭上から何かが降ってきた。
咄嗟に二人はそれを避けようとしたが、落ちてきたそれが見慣れたものであると分かった瞬間、気が抜ける。……いつの間にか、残っていた野崎という生徒と数名の生徒たちはどこかへと逃げてしまったようだ。
何も答えないまま、庸は落ちてきた物を拾い上げる。
……それは、野球の硬球と弓道の矢だった。
二人は揃って木々の間から上を見上げる。
「……屋上?」