16.隠れんぼ
「何とか、時間稼ぎはできたみたいだな……」
「ああ。それよりHRでそんなことがあったのかよ……」
「……」
「あの後何があったのかは分からんが、ろくでもないことなのは概ね察しが付く」
先ほどから中々口を挟むこともできず、茅は男子二人の会話を聞いていた。
……三人は、とある場所に潜んでいるのだった。何とかさっきの陽動が効いたらしく、今の所、追っ手の姿は無い。ただ、遠くでバタバタと数人の足音だけは聞こえていたが。
「で、隠れたのはいいけど、これからどうするか、何か案はあるのか?」
「とりあえず、何とか職員室の状況を知りたい所だな。他のクラスの奴らとかは全く姿を見ないし、教室の窓も閉めきったままで分からん。……多分、関係あるのはうちのクラスだけみたいだ」
「他のクラスとか、学年の奴らを全く見ないもんな……確かにおかしいわ」
「職員室の様子が分かれば、何か分かるの?」
……辛うじて、茅も口を挟む。
男子二人は、一緒にこちらを向いた。物陰に隠れているので、ちょっと距離が近い。隣にいる光樹の呼吸する音が聞こえてきて、茅は少し体温が上昇するのを感じていた。
だが、男子二人は全くそんなことは関係なく会話を続ける。
「あそこがダメなら、もうこの学校全体がダメってことだ。それなら、学外に脱出する方法を考えなきゃならん」
「……そういえば、何かMoGも圏外になってるしな……」
そう言って、光樹は上着の胸ポケットからモバイルガジェット(MoG)を取り出す。彼のMoGは、一般的に普及している携帯電話タイプだった。だが、電波環境を表すアイコンは、NGを示していた。
ちなみに現在、モバイル型IT機器は、かつて主流だった電話型から派生して、様々なタイプが生まれてきている。
主な物はウェアラブルと呼ばれる、着用小物類。それに、個人的にカスタマイズされた数多くのグッズが携帯ガジェット……MoGとして普及し始めていた。
今や、ほぼ全世界に普及したネットワーク環境において、放射線防護ルームなどのよほど特殊なスペースでもない限りは、電波が遮断されることなどほぼ無いため、電波状態を表すアイコンは本当に必要なのか?……などの意見も出始めていた。
だが、通常なら決して届かないことなど無いモバイルの電波が、今は完全に不通となっている。
おかげで、SNSなどで状況を確認することもできなかった。
……まさか、世界中がゾンビになっているわけでもあるまい……?と、光樹は微かに思ったが、さすがにそれは小説の読み過ぎかと思って我に返る。過去から、ゾンビモノの物語のファンは必ず一定数は存在していたからだ。
ちなみに、彼はこれと言って好きでもないし、嫌いでもない、という立場だった。ストーリーさえ良ければ、それでいい。……彼は、ストーリー至上主義なのだった。
「さて、後はどうやって職員室に辿り着くかってことなんだが……」
「シッ!」
急に総一郎が言ったので、慌てて他の二人は口を閉ざす。しばらくの間は何も起こらなかったが、どうやら足音がこちらに近づいてきているらしい。……確かにその通り、少し待っていたら扉の前に複数の足音が訪れ……止まった。総一郎が小声で呟く。
「仕方ない。……さっきの要領で行くぞ」
「了解」
同じく茅も頷く。さっきここに隠れることになった時に、その理由を総一郎から聞かされていた。
……それは、この教室に、非常に有用なアイテムが揃っているから。扉の外の表札には、『科学室』と書いてあった。
ガラガラ
音がして、扉が開く。
そこには、三名の生徒が並び、室内を覗き込んでいた。真ん中に立つ生徒が一瞬で室内をぐるりと見渡すと、ゆっくりと三人とも部屋の中に足を踏み入れてきた。右側の一人だけが女生徒で、後の二人は男だ。……どちらも、彼らには見覚えのある顔だった。
今の時間、どこのクラスも使っていない科学室はひっそりと沈黙を守っており、静寂が部屋中を支配している。そこへコツコツと三人の足音と、一つの水道からポタポタと落ちる水滴の音だけが響いていた。
「吉池に清水、後は……ごめん、忘れたわ」
「……」
どこからともなく、光樹のそんな言葉が聞こえてくる。
辺りを見回すクラスメイト三人。
「おいおい、クラスメイトにそりゃあんまりじゃないか?……なあ、佐々木」
「……」
また別の場所から、今度は総一朗の声がする。だが、姿は無い。
吉池と清水、そして佐々木と呼ばれた三人は、黙ったまま互いに背中を合わせて周りに視線を巡らせている。……とそこへ。
カラカラ……
ガラス瓶が転がる音と共に、僅かな風が三人の間を通り抜けて行った。
瞬間、床に目を移した三人に、見えない何かが押し寄せて、全員の視界を奪う。……と同時に、喉の奥に奇妙な違和感を覚えた。
「……ウッ、ゴホッ!ゴホゴホッ!!!」
「オェッ!……ッホッホッ!」
「ウ……ウェホッ!!!」
突然、三人ともが膝を付き、むせ始める。誰もが口と喉を押さえながら、もがくようによろめいていた。
その様子を見た総一郎と茅が、窓際の実験台となる机の陰から、ゆっくりと身を起こした。……二人とも、湿らせた布を口元に当てている。
「……こっちがしでかしたことの方があんまりだったか。悪いな、お前ら」
「大丈夫……なの?」
「ただの濃度の濃いアンモニアだからな。問題ないよ。それよりもアレは一時的なものだから、急がないと……」
「おい!早くしろっ!」
その声と同時に、光樹が教室の後ろのドアを開ける。
それにつられて、二人も走り出す。
残ったクラスメイトの三人は膝を付き、まだもがいていたが、昏倒するほどではないようだ。その場から徐々に離れながら、ゼェゼェと息を吐いて逃げ出す三人の方に視線を向けている。
幸い、彼ら以外の追っ手はまだ来ていないようだ。部屋を出て、三人は廊下の奥へと走り出した。
「で?このまま職員室へ向かうんでいいのか?」
「ああ。他の奴らはまだ来てないようだしな。今のうちだ」
「……」
迷い無く断言する総一郎に、併走する茅と光樹は怪訝な視線を向けていた。
……さっきから、彼の言動に多くの不審な点が見られるからだ。二人とも、さっきまでの一連の出来事を思い返してみる。
まず、彼は真っ先に体育館側ではなく、こちらの特別教室が多い校舎の方へと向かった。
そして、うまく行けば複数に別れるはずだからと、真っ直ぐ科学室へと向かう。
室内に入り、何をするのかと思いきや、鍵の掛かっているはずの棚を開け、中からアンモニアの入った瓶を取り出したのだ。……しかも、そこまでの手順に全く迷いが無かったことに加え、何故か引き出しの片隅に隠されていた、棚を開けるための合鍵のことも知っていた。
そう。……彼は全て『知っていた』のだ。
まるで、時を繰り返すタイムトラベラーのようだ。
「揮発したアンモニアを吸い込むと、その親水性によって鼻や喉の粘膜に浸透し、一時的に呼吸を妨げる効果がある」
などと説明はされたものの、さすがにその辺りになると彼らは不信感を覚え、尋ねてみた。すると、総一郎は頭痛でもするのかこめかみの辺りを押さえながら、「前に一度、噂話を聞いたことがあってな。調べてみたらあったから、知ってたんだよ」……という答えが返ってきた。
それを聞いた二人は、そうなんだ……とその時は納得したのだが、隠れている間に思い返してみても、どうも腑に落ちない点がある。
例えば、何故真っ直ぐにアンモニアの瓶に手を伸ばすことができたのか?……まさか、どこにどの瓶が置いてあるかということも知っていたとでも言うのか……?
だが気にはなったが、結局その答えを聞くことはできなかった。
なので未だに納得できない部分はありつつも、こうして自分たちの味方をしてくれているので、それ以上のことは聞けないままだ。
というか光樹に関しては、完全に巻き込まれただけで何故こうして今も一緒に追われているのかよく分からない状態だったのだが、もはやなるようになれといった感じだ。
化学室を飛び出した三人が三人とも、状況がよく分からないまま走っていると、校舎を繋ぐ渡り廊下の先に『職員室』と書かれたプレートが目に入ってきた。その前の廊下には、どこの学校にもよくあるように、昔寄贈されたと思われるよく分からないオブジェも飾ってあったりする。
そんなオブジェには目もくれず、三人は職員室の扉を目掛けてダッシュするのだった……。