13.in保健室
「すいません、ちょっと気分が悪くて……」
そう言って茅は、保健室のドアを開けた。ガラガラという容赦ない音が、室内に響く。
しかしその音の反響が全く無かったことから、室内には誰もいない気配を彼女に感じさせるのだった。
彼女としては、保健室へ行くよりもそのまま校舎の外へ出て、もっと気分が良くなりそうな場所――例えば、いつもの木陰など――に行き、静かに休んでいたいと思っていたのだが、一応念のため保健室へ寄って、教師に一言言っておいた方がいいかと思ったのだ。
真面目すぎる彼女の性格がそうさせたのだが、生憎室内に保健教師の姿は無いようだった。彼女が転校してきたばかりの時に一度会ったことはあったが、それ以来の面識は無かったので、特に仲が良いわけでもない。
仕方なく、そのまま外へ向かおうと思いながらも、一応声だけは掛けてみてしまうのが人間の習性というものだ。
「あのー……誰もいませんか……?」
そう言いながら室内を見回し、そのまま扉を閉めようかと思っていた時。
白いカーテンの向こう、二つあるベッドの上に人影が動くのが見えた。
「あー……由香里先生ならさっき出てったけど……?」
「えっ!?あ……」
起き上がる人物と、その声を聞いて茅は驚いた。
そこには、最近昼休みになるといつもすれ違う、あの木の下で会った彼がいたのだ。思わず息を飲み、目を丸くする茅。そのまま何も言えず、黙ってしまう。
何だろう、何か急にうまく言葉が出てこなくなる……。
「あれ、アンタか。珍しい」
「あ、や、うん……」
「体調悪いなら、そっち空いてるから横になったら?……それとも、サボり?」
まるで彼女のことなど何も意識していないようなぶっきらぼうな彼の対応に、何故か少し心の中にトゲトゲしたものが浮かんでくる。もう少し、優しく振舞ってくれてもいいのに……と。
でも、冷静な方の自分の思考が、そんな関係じゃないでしょ……と嗜めたので、彼女は素直に隣のベッドへと近づき、腰掛けた。既に、さっきまでのことなど頭の隅の方へと追いやられている。
「ふぁ~あ、うぅん……」
「……」
そんな茅のことなど全く気にせず、隣の男子生徒は再びベッドに横になる。しかし彼女の方はと言えば、いくら隣のベッドだとはいえ、二人っきりの室内でベッドの上に横になるなど、何となく恥ずかしいことをしているような気がして、未だ座ったままだった。……いつの間にか、気分の悪さも治っている。
どことなく隣で寝ている彼を取り巻く雰囲気は、あの木陰のような心地良さを彼女にもたらしているような気がした。建前や飾りの無い、実に自然な雰囲気を彼はまとっていたのだった。
おかげで、茅の心は幾分か落ち着き、しばらくここで横になってから教室に戻ればいいかという気分になってきた。
……きっとその頃には、あの妙な雰囲気も無くなり、またいつもの日常に戻るはずに違いない。
例えそれが希望的観測に過ぎなくとも、彼女は今この瞬間だけはそう思えるような心境になることができたのだ。
「……ふぅ」
さっきからスゥスゥと早くも眠りについてしまったような、余りにも無防備な隣の男子生徒を見て、茅にも少し眠気が襲ってきた。……どうせ、誰も見てないからいいか……。そう思って、静かにベッドに倒れこむ。
そして、うっすら目を開けて隣の生徒を見てみた。
何故かさっきまでの眠気は消え、急に胸がドキドキしてくる。
(……あ、私、よく知らない男の人と二人っきりなんだ……)
ガラガラ
「わぁっ!ぁあぁのあや、や……こここれはっ」
急に扉が開いて、誰かが中に入ってくるのと同時に、茅はわけのわからない変な声を挙げて飛び起きた。そして何故か誰にも聞かれてないのに、いいわけしようとする。しかしうまく言葉がまとまらずに、俯いたまま髪の毛の先を手で梳かし始めるのだった。
「あれ、早かったな由香里先生」
「……生憎だな、東條」
「ん?誰だ?」
扉の音で目が覚めたのか、元々眠っていなかったのか、東條と呼ばれた隣の男子生徒が起き上がる。
茅もその声に釣られて入り口の方を見てみると、そこには由香里先生と呼ばれた保健教師ではなく、茅と同じクラスの少し背の高い、理知的なメガネを掛けた男子生徒が立っていた。
「その子の付き添いの保健委員だよ。……お前、分かるか?俺のこと」
「……確か、桐生……だったか?クラスの」
「ほう。まさかお前がクラスの生徒の名前を覚えてるとはな。意外だ」
「一応、その辺は気に掛けてるんだよ。普段出てないからな」
「なるほど」
二人の男子生徒は、茅を無視して話し始めている。……とそこで、茅は気になった。
今入ってきた彼は、付き添いの保健委員だと言った。確かにほとんど話した記憶は無いが、クラスでいつも見かけている。そのスラッとした背の高さと、理知的な眼鏡、そして少しくせっ毛な長めの髪が特徴的な男子生徒だ。……よく彼女と同じように一人でいるから、覚えている。
ただし重要なのはそこではない。そんな同じクラスの彼が、茅の隣で寝ていた保健室の先住民である彼を、同じクラスの人間だというように扱っているのだ。そしてそれを、言われた当人も否定しない。
ということは……?
まさか、隣に寝ていた彼は、茅と同じクラスだと言うのか!?いや、クラスで彼のことは一度だって見たことは無い。それは間違いないと言える。だって居たら、一目で分かる。……何だか知らないが、それは自信を持って言える。
しかし……にもかかわらず、彼らは同じクラスだという認識を崩していない。
まるで彼女だけ別世界に入ってしまったかのように、目の前の出来事が理解できなかった。
「で?見た所、君がただの保健委員の仕事で来たような感じはしないけど……?」
「察しがいいな。さすが、クラスで唯一、保健室登校を許可されている人物だけある」
「え?え……何?」
相変わらず、目の前の二人の男は、茅を無視して話し続けている。
茅はその流れに全然ついていけなかったのだが、ぼんやりとその会話の中から、『隣で寝ている男子生徒が、彼女のクラスメイトであること』と、『教室に登校せずに保健室に来ていること』だけは分かった。
そして、そんな状況でもクラスの生徒たちのことは知っているらしく、ということはもしかして私のことも……?
と思っている横で、彼らの話は続く。
「詳しく説明している暇はないが、単刀直入に言って、『クラスメイトたちがおかしい』。……すぐに動けるようにしておくんだ」
「……」
「……聞いてるか?」
「……うん、君がそんなに冗談が上手だったとは、調査不足だったな」
「はは、可能なら、もっとうまい冗談を言いたいね」
「一体、どういうこと……?」
――●○●○●――
そこまで言った瞬間、そこにいた全ての人物に違和感が襲ってきた。
一瞬にして、全員が異変を感じとった。それは、互いの表情を見れば一目で分かったし、それ以上に明らかに分かる変化だった。
視界が全て、ネガポジ反転するかのような瞬間的な錯覚。と同時に、全身に鳥肌が立ち、総毛立つような悪寒。
まるで立ち入ってはいけない忌まわしい領域に足を踏み入れてしまったような……そんな感覚。
街灯のない墓地に迷い込んでしまったような気分を覚えながら、三人は相互に顔を見回した。
「な……んだよ……これは?」
「俺にも分からん。……が、さっきの異変と関係がありそうだ。うちのクラスで感じた違和感と似ている」
「ね……ねぇ、あの……何が起きてるの……?」
「七峰。お前一体……何者だ?」
戸惑う茅に、後から入ってきた桐生という生徒が鋭い問いを投げかけてくる。釣られて、東條と呼ばれたもう一人の生徒も茅の方へ視線を向けた。
その二つの視線に気圧されながら、茅は何と答えていいか分からない。
「何者って言われても……何て言えばいいのか……」
「彼女が何か、関係してるっていうのか?」
「さあな。だが、……4月8日、午前8時43分。彼女が来てから、異変は始まったと考えるのが妥当だ」
「どういうこと……?」
おそらく、彼女が転校してきた日付と時間を答えたであろう桐生の答えに、茅は少し戦慄する。
……何故、そこまで詳しく日時を覚えているというのか。まさか……?
同様の疑念は、東條という生徒も感じたのか、今度は訝しげな視線を桐生の方へ向ける。すると、彼は少し何かを悩むかのように、しばらく考え込んでいた。そして、何度か口を開こうとしかけ……そして止める。
「なんだ?何か言いたいなら早く……」
そう東條が言いかけた時だった。
ガシャベギゴッ!!!
遠くで、派手に何かが壊れるような音が響く。と同時に、複数の足音と怒声。
その中には、日常でも聞き慣れた、庸の叫び声もあったような気がした。
突然の雷鳴のような喧騒に、一気に三人の緊張感が高まる。
「な……にが起きた!?」
「まさか、あの音の方向は……?」
「そんな……うちのクラス……なの!?」
「おい、すぐにここを出るぞ。急げ」
「なんだよ、まだレム睡眠だってのに……!」
「えっ!えっ!?何?何なの!?」
東條と茅の二人は、訳もわからないままにベッドから飛び起き、上靴を履き直す。
軽く服を直しながら部屋の外に出ると、桐生は廊下に響いてくる足音の方を睨みつけていた。
「おい、いたぞーっ!捕まえろ!」
「魔女めーっ!!!」
遠くから走ってくるのは、確かに彼らのクラスの生徒たちだった。何故か、他のクラスには何の変化も起こってないらしく、窓が閉め切られたままだ。
保健室から二人が出てくるのを確認すると同時に、桐生はクラスメイトが走ってくる方向とは逆方向に走り始める。
……そっちは、校舎の外へと出る扉があった。
「こっちだ!何だか分からんが、奴らはみんなパニック症状に陥っている。囲まれたらマズい!」
「魔女……!?」
「え、もしかして……?」
「早くしろ!どうやら奴らの狙いは、そこの彼女らしいからな」
「わ……私……なの?やっぱり……」
茅の台詞に、東條と桐生は気になるものを感じていたが、廊下の向こうからは十数人以上が鬼気迫りながらこちらに向かって走ってくるような状況では、それ以上の追求をすることはできなかった。
とにかく、桐生に続いてすぐ外へと駆け出していく。
扉を閉める寸前、東條は吐き捨てるように呟いた。
「……ったく、寝起きの運動にしてはちょっとハードなんじゃねーか?」
彼は自覚していないようだったが、この一連の出来事に関係しているとは思えない彼にとっても、この出来事を放置して自分だけ眠りの続きを貪るようなことは、全く考えていなかったらしい。