10.進路指導
「じゃあ次。戸田」
「はい」
進路指導が始まった。
毎日、何人かずつ居残って、教師に対して自らの進路を相談する。茅は、自分の前の生徒が教室に入る横で、ぼんやりと廊下から外の景色を眺めていた。
この国立LA第七国際高等学校は、特別進学校というわけではない。
だが、世界に通じる人材を育てるための国家特別行政区に設けられた、日本で七箇所ある国立高校の一つであるこの高校は、各自の進路に関しては必ず定期的に指導が入るのだった。
もはや大学全入時代と呼ばれ、経済的な条件を突破することさえできれば、希望するものはほとんど希望の大学に入学することができる。……ごく一部の、国のトップレベルの大学である地球立大学校さえ除けば。
しかし既にオンライン講座が普及し、わざわざ物理的な距離を移動して大学に通う手間を考えると、皆誰しもが進学するとは限らなかった。
やりたいことが決まっている者は、皆とっくにオンライン講座の特別指導に申し込み、関連する企業などへインターンを決めているし、そうでない者も、よっぽど特殊でマニアックな知識を求めるのでない限りは、授業料を払うよりも何らかの仕事をすることを選ぶようになっている。
場合によっては、高卒で早くも自分で会社を起業し、興味のある分野での仕事を始める者もいる。今からまだ50年前頃には、なかなかそういう選択肢は難しかったらしいだが、今ではもうそうした『早熟な』若者は世界中からオファーが来るほどひっぱりだこになっており、それと同時に投資行動も活発になっていたのだった。
「次。七峰」
ぼうっと窓から中庭の風景を見ていた茅は、ガラガラと扉が開く音を聞き、我に返った。
……ちなみに、国家の特別区に指定されながらも……いや、それ故か、未だに学校の扉は横開き方式だ。今ではほとんどの学校の扉が、ドアノブの形に変わっているのだが、このような部分だけは何故かまだ前時代的な名残が残っていた。
彼女の前の戸田という生徒が、こちらをチラッと一瞥して帰っていくのを確認すると、茅は少し躊躇った後、教師に対して小さく呟く。
「あの……、先生」
「どうした?体調でも悪いのか?」
立ち止まり、教室の中へ入ろうとしない茅を見て、霧谷という進路指導の教師は悪気も無く問いかける。……だが、そのあまりの無邪気さに茅は言おうとしていた言葉を飲み込むことしかできなかった。
「あ……あ、いえ。……何でもありません」
咄嗟にかぶりを振ると、扉の中へと足を踏み入れる。
その様子を見て、霧谷は再び後ろから声を掛けた。
「何だ?七峰。悩みがあるんだったら遠慮せずに言っていいぞ?」
「あ、本当に何でもないんです。すみません」
結局、進路指導教師はそれ以上の追求をすることを止め、茅もまた何でもないような素振りをすることしかできなかった。進路については「まだ、わかりません……」とだけ答えておいた。
***
茅は一人、とぼとぼと校庭を歩いて帰る。誰も付き添うものはいなかった。
さすがに今日は庸は待ち伏せてはいなかった。進路指導が遅くなることを見越していたのか、それとも何か用事があったのかは分からない。
茅は、ほんの僅かだけ感じた孤独感をすぐに振り払うと、真っ直ぐに校門へと歩き出す。カラスの濡れ羽のような黒髪が、しなやかに揺れる。
光樹はそれを、保健室の窓から見ていた。……純粋に、綺麗だと思った。
彼は全校生徒のことを把握しているわけではなく、さらにこんな場所をアジトにしている以上、一般的な生徒よりも把握している人数は少なかったのだが、それでも彼女ほどに綺麗な黒髪が似合う女子生徒はいないだろう、と考えていた。
その姿勢、スタイル、そして顔立ちのどれをとっても、思わず目を惹かずにはいられない。もしあれで、もうちょっと愛想良く笑顔の一つ二つでも振りまけるようだったら、男女問わず人気はいくらでも……。
「あの子、知り合い?」
「……うん、うちのクラス」
そこまで考えた所で、由香里が聞いてきた。
茅の姿が窓の外へと消えるのを見ながら、光樹は由香里に答えるのと同時に、読みかけの小説を閉じた。
そして、カバンに荷物を入れ始める。
……今やメジャーとなった電子書籍は、彼はどうも好きになれない。そのため、こうしてもはや骨董品に近くなった貴重な紙の小説を読んでいるのだ。
今日読んでいたのは、かつてVRゲーム革新の発端となったと言われている、伝説のライトノベルだ。ゲームの世界に精神が閉じ込められ、そこで主人公が活躍しながらヒロインを始めとする女性キャラたちとどうのこうの……という、今となっては当たり前に普及しているの設定の物語である。
最も、残念ながら未だに主人公のようになれる人物というのは限られているし、複数の女性たちから人気を得ることができるのもほんの一握りの人物だけだ。ただ、ゲーム内に没入した精神だけが切り離されても、生身の肉体に影響を与えることは確実にできなくなっている。世界共通の規制が行われたためだ。
ともかく、今では没入型のゲームというのは、当たり前のようにメインストリームとなっているのが現代なんだった。
由香里は返事をする光樹の声のトーンで、何となく察したらしい。
そのため、それ以上は何も聞くことなく、ポツリと言った。
「帰んの?」
「うん」
「ふ~ん、あの子、今度連れといで」
「……分かった」
そう言ってみたものの、それは嘘になってしまうかもしれないな、と光樹は少しだけ後悔していた。
***
帰り道。茅は真っ直ぐ家に帰る気になれず、気が付けば途中にある公園に足が向いていた。
辺りは少し薄暗くなりかけており、空が朱色に染まりつつある。春真っ盛りとはいえ、まだ夕暮れは少し肌寒さが残る季節だ。上着の裾を少し伸ばすと、茅はベンチの一つに腰掛ける。
「……」
特に何も考えず、ただボーっと空を見上げた。
あんなに身近だった空が、今ではもう遥か遠くの存在に思える。幼い頃の自由な記憶を辿り、それを懸命に手繰り寄せながら懐かしんでみた。
……が、どうしてもある瞬間から、その手繰り寄せた糸はぷっつりと途切れ、その先にはただ薄暗い闇しか見えてこない。空は遥か遠くなり、そこにあるのはただひたすらジッと続いている無味乾燥な地面だけだった。
どれだけその道を歩いただろうか。
それは永遠に長いような道のりだった気もするし、ほんの一瞬だけだったような気もする。
気が付けばここにいた。
が、それでもやっぱり、灰色の地面が続いているだけだった。
……一体、いつまでこの道を歩いていけばいいんだろうか。
いつの間にか茅は空を見ることを止め、その視線は舗装された地面の上へと向けられている。
足元にあった、小さな小石を右足で蹴飛ばしてみた。黒っぽい小石は黙ったまま、呆気なく数m先へと転がっていく。……そこで初めて、彼女はその先に誰かが立っているのに気が付いた。
「まだ帰んないの?」
庸だった。
一体、いつの間にそこにいたのか。ていうかストーカー……?
茅は少しだけ気分を悪くしたが、今はそんなことにいちいちどうこう言うほどの気分ではない。数秒だけ彼の目を見ると、彼女は黙ったまま、すぐにまた視線を落とした。
すると、彼女の隣の少し離れた所に人が座る気配がする。……もちろん、庸だろう。
それでも彼女は黙ったままだった。
「……お腹減らない?」
庸が話しかけてくる。
「減らない」
素っ気無く、茅は答えた。
黙ったままでもいいかとも思ったが、さすがにこの距離でシカトするのは少し気まずい。……というか、今の彼女はそんなことを煩わしいと思うことすら面倒くさかった。返事をしたのは、ただの惰性だ。
そこにいる黒猫が寄り添ってきたのに対して、ただ手を伸ばしただけのほんの気まぐれのような。
「もう暗くなるよ?」
「知ってる」
「ずっとここにいるの?」
「別に関係ないでしょ」
「俺、お腹空いたんだけど、何か食べに行かない?」
「行かない」
「おいしい定食屋知ってるんだ俺」
「……おじさんくさいな」
「あ、突っ込んだ!今突っ込んだね!」
「……(ムッ)」
「あーゴメンゴメン!でもさ、ホントにおいしいんだよ。行かない?」
「……」
「ねえ。行か……」
「行かないって言ってるでしょ!うるさいなぁ!」
……とうとう茅は、我慢できなくなって叫んだ。隣の庸がビクッとして肩を竦ませるのが分かる。
それでも茅は彼の方には視線を向けず、俯いたまま叫び続ける。
「何?何なのあなた?さっきから勝手に。私は行かないって言ってるでしょ!いいからほっといてよもう!いちいちうるさいのよ最初から!あなたには何にも関係ないでしょ!?何で私なんかに付きまとうのよ!一人にしとけばいいじゃない!もういい加減帰ってよね……!」
一気にそこまでまくし立てる。
庸は唖然としていた。……無理もない。会ってから今まで、ここまで感情を出したのは初めてだった。これまではずっとクラスの誰にもそんな姿は見せず、ただずっと平静を保っていたから。
それなのに、いきなりこの男がズケズケと人の心に土足で踏み込んできたから。
折角……誰も近づけないように、誰も近寄らないように、誰にも近寄らないようにしてきたというのに。
「……グスッ」
隣の庸には、彼女の黒髪に隠れて表情は見えないはずだった。だが、小さく鼻をすする音が聞こえてしまったようで、突然庸は焦った様子で手をしどろもどろさせ始める。
「ごごごめん!いや、そんなつもりじゃなくってさ!何て言うかあの……一人で寂しそうだったから!だからさ!一緒に美味しい物とか食べればって、ただそれだけで……」
「放っといて……」
「あ、いや、でも……」
小さく肩を震わせる茅の姿に、不器用な庸は何もできなかったし、こんな状況にはもちろん慣れていない。なのでどうしていいか分からずに、ただキョロキョロと辺りを見回して、あーとかうーとか呻いていた。
と、そこへ偶然見知った顔が通り掛かり、庸と目が合う。
それは、塾帰りの直哉だった。
「……あれ?相模君と七峯さん?どうしたの?」
「お、お前は……長谷川!丁度良かった!……ん?何が丁度良いんだ……?」
庸が自分の言葉に自問自答している間に、直哉はこちらへ歩いてくる。と、茅に声を掛ける。
「七峰さん、どうかしたの……?」
「……んーん、何でもないよ?」
「そう……?」
茅はそれに気付くと、一瞬だけ反対を向いて顔を拭い、立ち上がる。
そして再び平然とした顔に戻ると、僅かだけ微笑んで答えた。訝しげな返事をする直哉。
そんな茅の様子を見て、庸が心配そうな顔を向けるのと同時に、彼女はくるりと踵を返して歩き出した。
「そろそろ帰んないと、家族が待ってるから。また明日学校でね。バイバイ」
「茅ちゃん……」
呟く庸の言葉には耳を傾けずに歩き出すつもりだった。が。
「……待ってる家族なんて……いないんじゃない……?」
庸に続いた直哉の言葉に、茅は驚いて一瞬だけ振り返る。
「……」
「……」
数秒間、茅と直哉の目が合う。
……だが、何も言おうとしない直哉に対し、それ以上追求することはせず、再び茅は振り返ると歩き出した。
確かに、彼女は嘘を吐いていた。
今の学校に転校して来た時に、彼女は一人暮らしを始めていたのだった。それが彼女の家系の掟だったし、そうすることを彼女自身も望んだ。両親を始め、家族は掟を破ってでも止めようとしてくれたのだが、むしろ彼女の方が家族を説得し、この町へ来た。
別にそれを後悔したことは無かったし、これからも後悔することは無いと思っていた。が、最近は初めてそういう感情が湧き上がりそうになるのを必死で堪えていたことに気付く。
でも、もうどうしようもないし、どうすることもできない。彼女自身も、どうにかする気も無かった。
ただ、それは仕方の無いことなのだ。自分が犯した罪なのだから。その事を彼女は自覚していたし、彼女自身もそれを望んでいた。
だから、今日の出来事は……ただの気まぐれ。ほんのひと時の気の迷い。それだけに過ぎない。
また明日からも、私は今までと同じように、何も変わらず過ごしていくだけだ。ただそれだけのこと。
もうとっくに涙は乾き、表情には冷たさが戻ってくる。
鴉の濡れ羽色の黒髪は、再び夕暮れの冷たい風を受け、音も立てずにしなやかになびいていた。
「……」
公園から出た茅の横を、塾帰りの総一郎が通りかかる。
彼は僅かすら顔を動かすことも無く、すれ違いざま、黒猫のような足取りで歩いていく彼女を目線で追うだけだった。