時を知る令嬢
「鳩時計」と笑われてきた令嬢が、首飾りの消えた夜会で、たった一つの懐中時計を見つめたとき。
婚約破棄、ざまぁ、そしてハッピーエンド。一話完結です。
九時十二分。
ノーラ・ベルトラムは、時計を見なくても、今が何時何分なのかが分かる。
朝、目を開けた瞬間に。お茶を飲んでいるあいだに。誰かと話している途中でも。頭のどこかで、小さな振り子が、ずっと正確に揺れている。
子どものころ、父の書斎の柱時計が止まった時、ノーラは針を正しい時刻に戻してみせた。翌日、教会の鐘と比べてみると、一分も狂っていなかった。
「うちの娘は、生きた時計だな」
父はそう言って、笑いながら頭をなでてくれた。
けれど、婚約者のヴィクトル・フェリクスは、そうは言わなかった。
「ノーラ。人前で、時刻を口にするな。鳩時計じゃあるまいし」
だからノーラは、何時かと聞かれても、首をかしげてみせるようにしていた。分からないふりをするのは、思っていたよりも、ずっと疲れることだった。
*
その夜は、王妃さまの誕生日を祝う夜会だった。
大広間の真ん中には、王妃さまのための飾り棚が置かれていた。今夜の主役は、棚の上の、真珠の首飾りだった。代々の王妃が受け継いできたもので、夜会の最後に、陛下が王妃さまの首にかける習わしになっている。
ヴィクトルは、広間に入るなり、上着の内側から懐中時計を取り出して見せびらかした。
「どうだ。父上が、王都一の時計師に作らせたものだ。一日に一秒も狂わない」
金のふたに、伯爵家の紋が彫ってある。周りの令息たちが、うらやましそうにのぞきこんだ。
「これがあれば、鳩時計の婚約者などいらないな」
笑い声が上がった。ノーラは、黙って手もとの扇を閉じた。
*
それが起きたのは、九時の鐘が鳴ってしばらくしてからだった。
「首飾りが……ない!」
飾り棚の前で、侍女の悲鳴が上がった。
広間じゅうが、ざわめきに包まれた。真珠の首飾りが、棚の上から消えていた。
衛兵たちが、すぐに扉を閉めた。広間の奥から、第三王子のルーカス殿下が進み出てくる。王宮の警備を任されている方だった。
「誰も、広間から出るな。最後に首飾りを見た者は」
「は、はい。九時の鐘が鳴った時には、確かにございました」
侍女が、震える声で答えた。
「それから、九時十五分に見回りに来た時には、もう……」
その時、ヴィクトルが、すっと手を挙げた。
「殿下。九時から九時十五分のあいだなら、私は、ずっとバルコニーにおりました。ベルンハルト侯爵令息と、外の空気を吸いながら話しておりましたので」
ヴィクトルは、金の懐中時計を、殿下の前で開いて見せた。
「この時計で、確かめております。バルコニーに出たのが、九時ちょうど。戻ったのが、九時二十分です」
侯爵令息も、うなずいた。
「確かに、ヴィクトルはずっとバルコニーにいました。時計を見ながら、九時ちょうどだ、と言っていたのを覚えています」
殿下は、ヴィクトルの時計に目を落とした。たしかに、立派な時計だった。
ノーラも、その文字盤を見た。
見た瞬間、胸の奥の振り子が、かすかに引っかかった。
(……七分)
ヴィクトルの時計の針は、今、九時三十一分を指していた。
けれど、ノーラの中の振り子は、九時三十八分を告げていた。
*
「ところで、殿下」
ヴィクトルが、ちらりとノーラのほうを見た。
「この騒ぎのついでに、申し上げておきたいことがございます。私は今夜かぎりで、ノーラ・ベルトラムとの婚約を解消いたします。人前で時刻を言い当てるような、気味の悪い鳩時計を、伯爵家に迎えるわけにはまいりませんので」
ざわめきが、別の色に変わった。
ノーラは、ヴィクトルの顔を見た。それから、彼の手の中の、金の懐中時計を見た。
(言わないでいるのは、もう、やめよう)
「……承知いたしました、ヴィクトル様」
ノーラは、ゆっくりと殿下のほうへ歩いていった。
「殿下。いま、何時かご存じですか」
「……なに?」
「九時三十八分です」
広間が、一瞬静まった。
ヴィクトルが、鼻で笑った。
「何を言っている。私の時計では、九時三十一分だ」
「はい。あなたの時計は、七分遅れています」
ノーラは、まっすぐヴィクトルを見た。
「一日に一秒も狂わない時計が、今夜だけ、七分遅れています。……どなたかが、針を戻したのでなければ」
「でたらめを言うな!」
「でたらめかどうかは、すぐ分かります」
ノーラは、殿下のほうを向いた。
「殿下。王宮の大時計は、毎晩、時計番の方が教会の鐘と合わせていらっしゃるはずです。今、大時計が何時を指しているか、確かめていただけますか」
殿下は、衛兵の一人に目で合図をした。
衛兵が、広間の端の窓から、中庭の大時計を見上げた。
「……九時三十八分です、殿下」
ざわめきが、どっと広がった。
ヴィクトルの顔から、血の気が引いていった。
「九時ちょうどにバルコニーへ出た、とヴィクトル様はおっしゃいました。でも、その時計は七分遅れています。本当にバルコニーへ出たのは、九時七分です」
ノーラは、侯爵令息を見た。
「ベルンハルト様。ヴィクトル様が九時ちょうどだと言った時、あなたはご自分の時計をご覧になりましたか」
「い、いや……ヴィクトルの時計を、のぞいただけで……」
「首飾りが最後に見られたのは、九時の鐘の時。バルコニーへ出たのは、九時七分。……そのあいだの七分間、ヴィクトル様が、どこで何をなさっていたのか。誰も、見ていません」
*
殿下が、静かに言った。
「フェリクス。上着の中を、改めさせてもらう」
「な、何を……私は伯爵家の――」
「伯爵家の者でも、同じだ」
衛兵が、ヴィクトルの上着を調べた。懐中時計の入っていた内ポケットの、さらに奥。縫い目をほどいた隠しの中から、白い真珠の連なりが出てきた。
広間じゅうが、息をのんだ。
「……博打の借りが、あったのです」
ヴィクトルは、床にひざをついて、うめくように言った。
「父上に知られる前に、どうにかしなければと……。七分あれば、と……」
「七分あれば、首飾りを盗んで、時計を戻して、バルコニーで友人に時刻を見せられる、か」
殿下は、冷ややかに言った。
「よく考えたものだな。……その婚約者が、時計を見ずに時刻を言い当てる娘だということ以外は」
ヴィクトルは、衛兵に両腕をつかまれて、広間から連れ出されていった。最後まで、手の中の金の時計を、信じられないものを見るような目で見ていた。
首飾りは、陛下の手によって、予定どおり王妃さまの首にかけられた。九時五十分のことだった。
*
客がみな帰ったあと、ノーラは、中庭の大時計の下に呼ばれた。
ルーカス殿下が、時計を見上げて立っていた。
「ベルトラム嬢。今夜は、礼を言う」
「わたくしは、時刻を申し上げただけです」
「その『時刻を申し上げただけ』で、首飾りが戻った」
殿下は、ノーラのほうを振り返った。
「王宮の警備は、時刻との勝負だ。誰が、いつ、どこにいたか。その一分が分からなくて、取り逃がしたことが何度もある。……警備の詰め所で、力を貸してもらえないだろうか」
ノーラは、目をまばたかせた。
「わたくしは、剣も弓も使えません。分かるのは、時刻だけです」
「その時刻が、王宮の誰にも分からないんだ。……詰め所の柱時計は、毎日どこかで狂う。直すたびに、衛兵が三人がかりで教会まで走っている」
ノーラは、思わず笑ってしまった。
殿下は、少し照れたように、自分の上着のポケットから、古びた銀の懐中時計を取り出した。ふたに、小さなへこみがある。
「子どものころから使っている時計だ。……正直に言ってくれ。これは、何分狂っている」
ノーラは、文字盤をのぞきこんだ。
「三分、進んでいます」
「やはりか」
殿下は、困ったように笑った。
「わざと進めているんだ。遅刻しないように。……兄上たちには、子どもっぽいと言われる」
「いいえ」
ノーラは、首を横に振った。
「三分早く着こうとなさる方は、待たせる人のことを考えていらっしゃる方です。……わたくしは、好きです」
言ってしまってから、ノーラの頬が、熱くなった。
殿下は、しばらく黙っていた。それから、銀の時計のふたを、ぱちんと閉じた。
「……明日の朝、九時に、詰め所で待っている」
「はい。九時に」
「私は、たぶん、八時五十七分には着いている」
ノーラは、笑いながらうなずいた。
胸の奥の振り子は、いつもより、少しだけ速く揺れていた。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
今回の令嬢の力は「時刻」です。時計を見なくても、今が何時何分か分かってしまう。その一分の正確さで、自慢の懐中時計の七分のずれを見抜いてもらいました。
三分進めた時計を、ずっと使っている殿下も書きたかった人です。
シリーズ「ふしぎな力を持つ令嬢たち」の一作です。ほかの令嬢たちのお話も、よろしければどうぞ。




