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第九話:下書きの層

 落下しているのに、風を感じなかった。


 速度の感覚だけがあり、身体への圧力がない。重力が省略された移動。ページをめくるときに指先が滑る、あの短い空白時間を何倍にも引き延ばしたような感覚だった。


 天神月詠あまがみ・るうなは、自分の輪郭がときどき途切れるのを見た。腕の線が薄くなる。指先が鉛筆のラフ線に戻る。次の瞬間にはまた色が戻る。


 存在の解像度が、安定していない。


(まだ、本文じゃない)


 そんな理解が先に来る。

 感情はまだ追いついていない。


 着地の衝撃はなかった。

 ただ“到達した”という結果だけが与えられる。


 足元は白だった。


 真っ白ではない。

 消し跡の白。

 何度も書いて、何度も消した紙の白。繊維が毛羽立ち、ところどころ灰色に曇っている。


 空も白い。

 だが空の白と地面の白は違う質感を持っている。空は塗り残しの白。地面は削り残しの白。


 境界線が曖昧で、距離感が狂う。遠近の手がかりが少なすぎる。目が焦点を決めかねている。


 空気はぬるい。

 温度が決められていない空気。

 冷たくも熱くもない、中間で止められた感触。


 彩音レイ(あやね・れい)が隣に立っていた。輪郭がいつもより柔らかい。油彩の質感が、水彩に近づいている。


「ここが下書き層」


 声がわずかに反響する。

 反響というより、言葉が自分の周囲に薄く残る。


「世界の裏紙みたいな場所」


 玻璃坂絵都はりさか・えとが周囲を見渡す。

 彼女の視線はいつも対象を捉えるが、ここでは対象が少ない。捉えどころがない。


「描き直しの跡が集まってる」


 地面には線があった。


 無数の線。

 人物のラフスケッチ。

 建物の構図線。

 遠近法の補助線。

 何度も引き直された軌跡。


 月詠はしゃがみ込み、一本の線に触れた。冷たい。だが金属の冷たさではない。インクが乾いたあとの冷たさ。


 触れた部分の線が、少しだけ濃くなった。


 その変化に、自分だけが気づいた。


(反応してる)


 指先が、余白に触れている。

 世界の“確定前”の層に。


 語部綴かたりべ・つづるはノートを開き、閉じた。


「ここは書きにくい」


「どうして」


「因果が弱い。文章が定着しない」


 それは物語系にとって致命的なのだろう。

 言葉が世界を固定できない場所。


 遠くに、何かが動いた。


 人影に見える。

 だが輪郭が安定しない。歩くたびに服装が変わる。コートになり、制服になり、鎧になる。設定が定まっていないキャラクターのように揺れている。


 月詠は息を止めた。


「あれは?」


「試作」


 絵都が答える。


「キャラクターの下書き。採用されなかった案」


 影は近づき、途中で形を失い、別の方向に現れた。連続性がない。ページの外で動かされているみたいな移動だった。


 目が合った気がした。


 次の瞬間、顔のパーツが入れ替わる。目の位置がずれる。口が消える。声にならない声が、空気を震わせた。


 月詠の背中が粟立った。

 遅れて恐怖が到着する。


(未完成って、こういうこと)


 安定していない存在。

 確定していない形。

 途中で止められた意図。


 足元に、紙束が積まれているのが見えた。近づくと、それは建物の設計図だった。だがすべて途中で切れている。階段が宙に浮き、廊下が壁につながっていない。


 彩音が言う。


「禁書庫は、この層のさらに奥」


「もっと未完ってこと?」


「もっと“消しきれなかった”場所」


 言い方が引っかかった。


 未完ではなく、消しきれない。

 削除に失敗した何か。


 月詠の頭に、自分のことが浮かぶ。


 検閲線が通らなかった。

 意味を失った赤線。

 余白が開いた感覚。


 胸の奥が少し熱を持つ。


 白い地平の向こうに、黒い縦線が見えた。


 一本ではない。

 何本も並んでいる。


 遠くから見ると森のようだった。だが近づくにつれ、それが“背表紙”であることがわかる。巨大な本が、縦に並んでいる。


 本棚だ。


 天井のない本棚。

 終わりの見えない列。


 空へ向かって伸びている。

 だが上は霞んで読めない。


 空気の匂いが変わる。

 古紙の匂い。

 閉じた時間の匂い。


「……あれ?」


 月詠の声が漏れた。


 彩音が小さく頷く。


「入口の一つ」


「禁書庫?」


「外縁部」


 近づくほど、胸の鼓動がはっきりする。

 音が遅れて耳に届く。

 自分の心拍が、半拍遅れて世界に記録される感覚。


 本の背には、タイトルがない。

 著者名もない。

 番号もない。


 ただ、余白だけがある。


 月詠は無意識に、その中の一冊へ手を伸ばした。


 触れた瞬間――


 頭の中に、音が流れ込んだ。


 未完成の旋律。

 終止のない主題。

 自分が書きかけた曲と、よく似た動機。


 息が止まる。


「これ……」


「共鳴してる」


 綴が言った。


「未完同士は響く」


 月詠の指先が震える。

 怖さではない。

 懐かしさでもない。


 呼ばれている感覚。


 本の背表紙の余白が、わずかに光った。


 その光を見て、月詠は理解した。


 ここは保管庫じゃない。


 まだ終わっていない声が、眠っている場所だ。

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