第八話:地図に載らない場所
禁書庫、という言葉は温度を持っていた。
冷たい響きではなく、湿った重さだった。本棚の奥に溜まる空気の温度。閉じた紙の間に残る、時間の匂い。読まれなかった頁が持つ、静かな圧力。
天神月詠は、その単語を頭の中で反芻するたび、喉の奥がわずかに重くなるのを感じていた。まだ見たこともない場所なのに、肺がその空気を先に知っているような感覚があった。
部屋の外では、赤い光が扉の輪郭をなぞっている。
削除線は、迷わない。
ためらわない。
誤りを前提にしていない線の進み方だった。
扉の表面がところどころ透明になり、下書き線だけが露出する。存在が“ラフ段階”に戻されている。
玻璃坂絵都が筆で補強するたび、木目が一瞬だけ完成する。だが完成した部分から優先的に削られていく。完成は目立つ。目立つものから修正される。
「完成度が高いほど、検閲に引っかかる」
絵都が低く言った。
「皮肉な話」
彩音レイ(あやね・れい)が短い和音を鳴らす。空気が厚くなる。音の層が壁の代わりになる。だがその壁は揺れている。安定した素材ではない。楽音は常に減衰する。
「禁書庫って、どこにあるの」
月詠が問う。
自分の声が少し乾いていることに気づく。恐怖が遅れて身体に追いつき、唾液を減らしている。
語部綴がノートを開きかけて、閉じた。
「地図にはない」
「じゃあどうやって行くの」
「地図が“完成物”だから」
その答えは理屈としては通っているのに、理解は一拍遅れた。
完成された地図には、完成された場所しか載らない。未完は記号にならない。凡例がない。座標が振れない。
「禁書庫は“未確定領域”にある」
綴が続ける。
「物語的に言えば、余白」
余白、という言葉がまた出た。
月詠の胸の奥で、その単語がわずかに熱を持つ。反応しているのは感情ではなく、もっと手前の層――認識の芯に近い部分だった。
扉が軋んだ。
音ではない。
“軋みという意味”が伝わってくる。
赤い線が隙間から差し込む。光ではなく、修正意図の侵入。そこに触れた空気が、順番に“無効化”されていく。
「時間がない」
彩音が言った。
「移動する」
「どこへ」
「未確定層へ」
それは方向ではなく、状態の名称に聞こえた。
絵都が床に円を描く。絵の具は使わない。線だけを描く。輪郭だけの円。中身は塗らない。
塗られていない円は、妙に深く見えた。穴のように。空白の井戸のように。
「完成させないで」
彩音が言う。
「完成すると固定される」
円は下書きのまま、そこに“入口の意味”だけが与えられる。意味が先に来る。この世界ではそれが順序だ。
月詠は円を見つめた。
視線を落とすと、深度が増す。
覗き込むほど、奥行きが生まれる。
描いていないはずの空間が、そこにある。
(余白が、奥行きを持つ)
心臓が一拍強く打った。
怖さと同時に、奇妙な懐かしさがある。未完成の楽譜を見つめているときと同じ感覚。どこへでも行ける分岐の手触り。
綴が短く書いた。
『この円は、しばらく発見されない』
空気が静かに同意する。
だが同意は薄い。上位記述に破られる前提の、仮の同意。
扉が破れた。
音はない。
だが“破れたという事実”が空間に広がる。
赤い線が流れ込む。
校正記号が雪のように舞う。
黒外套の影が、輪郭を持たないまま入り口に立つ。存在がまだ本文に完全に記述されていないため、解像度が低い。
「未完体」
声が来る。
名前ではなく分類で呼ばれる。
ラベルで呼ばれる。
月詠の胃が遅れて縮んだ。
(私は、作品じゃない)
心の中で反発が生まれる。
だがその反発は言葉にならない。まだ文になっていない感情は、この世界では力を持たない。
彩音が月詠の手を掴む。
手の温度がある。確かな体温。現実の証拠。
「入って」
月詠は円の縁に足をかけた。
触れた瞬間、触覚が変わる。床でも水でもない。紙を何百枚も重ねた束に沈み込む感触。乾いているのに柔らかい。
身体がゆっくり沈む。
落下ではない。
編集で別ページに移動する感覚。
背後で、赤い線が走るのが見えた。
だが線は円の縁で止まった。
そこだけ、定義がない。
定義できない場所には、修正指示は入らない。
視界が反転する。
空と地面が入れ替わる。
光が下から来る。
影が上に伸びる。
月詠は、自分の身体の輪郭が一瞬だけ完全に“白”になるのを見た。下塗りの色すらない、真っ白なシルエット。
(これが――未完)
理解が先に来る。
恐怖は、まだ半歩後ろだ。
四人は、余白へ落ちた。
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