第七話:禁書庫の噂
走るという行為が、ここでは少し違う意味を持っていた。
足が地面を叩くたび、音が鳴る。音が鳴るというより、世界が“音として記録される”。旋律が積み重なり、そこに速度が宿る。速く走れば音符は細かくなり、遅くなれば休符が増える。
天神月詠は、走りながら自分の息の音を探していた。肺が動く感覚はあるのに、呼吸音が薄い。喉の奥が乾き、気管が紙の筒みたいに擦れる感触だけが残る。
雨は相変わらず降っている。けれど、濡れているという感覚よりも、音が身体の表面を叩いている感覚のほうが強い。冷たさが皮膚を通り抜け、耳の奥へ直接落ちてくる。
彩音レイ(あやね・れい)は前を走りながら、時折空中に指を走らせた。指先から五線譜が浮かび、そこへ短い音符が並ぶ。並んだ瞬間、空間の硬さが変わる。路地の角が滑らかになったり、段差が消えたりする。
逃走経路を“編曲”しているのだと、月詠は理解した。
音が地形を調整する。現実が、譜面に従って並び替えられる。
玻璃坂絵都は少し後ろにいて、筆を振る。振るだけで、塗りかけの壁が立ち上がる。壁は完全ではない。鉛筆の下書き線のままの部分が残り、そこが風に溶けるように揺れている。だがその不完全さが、赤い線の進行をわずかに鈍らせた。
(完成してない壁が、邪魔になる)
妙な話だった。
語部綴は走りながらノートを開き、短く書いた。書く音が、紙を裂く音に似ている。文字が落ちるたび、周囲の空気が一度だけ「そうなる」ことを受け入れる。
四人の走りは、三つの表現が編み込まれた綱だった。
音で曲げ、絵で塞ぎ、物語で固定する。
その綱の中心に、月詠がいた。
何もしていないのに、中心に置かれてしまう。
それが、ひどく居心地が悪かった。
背後から、ページをめくるような音がした。
耳で聞いたのではない。
背中で感じた。
世界が一枚、めくられる。
めくられた先の頁には、赤い線がある。
その線が、こちらを探している。
月詠の首筋に汗が浮かび、すぐ乾いた。濡れない。濡れても残らない。汗の跡すら、世界が保存を許さないみたいに消えていく。
(回収対象)
さっき黒外套が言った言葉が、遅れて胸に刺さった。回収――拾われる言葉。しまわれる言葉。分類される言葉。終わりではなく、保管。
死ぬより嫌かもしれない、とふと思った。
死は一度で済む。
回収は、終わらない。
「ここ!」
彩音が叫ぶ。叫びは音にならず、白い文字になって宙で揺れた。だがその文字はすぐに雨に滲み、意味がほどけた。
四人は、塗りかけのアーチの下へ滑り込む。
アーチの内側は、空間の温度が少しだけ違った。外より暖かい。匂いも違う。紙の匂いが薄く、代わりに古い石と埃の匂いがする。完成した建材の匂いだ。ここだけ“現実”の割合が多い。
アーチの奥には、階段があった。下へ降りる階段。譜面の地面が途切れ、石が現れている。段差の角が擦り減っている。誰かが何度もここを通った痕跡。
彩音が一段下り、振り向いた。
「しばらく潜る。上は追跡が強い」
「地下に?」
月詠が問うと、彩音は頷いた。
「地上は作品が多い。検閲も多い。下は“下書き層”に近い」
その言い方が、ひどく不穏だった。下書き層。世界の裏紙。
階段を降りるにつれて、音が変わった。雨音は遠ざかり、代わりに自分の足音――ではなく、石を踏む摩擦の感触だけが増える。耳ではなく足裏で音を聞いているみたいだった。
壁には落書きがあった。
文字ではない。記号でもない。
線。
細い線、太い線、消しかけの線。
誰かが何度も“修正”を繰り返した跡。世界の失敗作の集積。
月詠は指先で壁の線をなぞった。ざらりとした感触。石なのに紙のように乾いている。触れると、線がほんの少し濃くなる気がした。自分の触れた部分だけ、存在感が上がる。
(私が触れると、余白が反応する)
気づいてしまうと、皮膚の感覚が怖くなった。
自分の指先が、世界の編集機能に触れているような気がする。
階段を降り切った先に、広い廊下があった。天井が低い。空気が重い。湿った土の匂いが混じっている。だが湿り気は肌に残らない。湿った匂いだけがある。
綴が立ち止まり、耳を澄ませた。
「追ってきてる」
絵都が壁に筆を当て、細い線を引く。線が走った場所に、薄い扉が生まれる。扉は完成していない。木目が途中で途切れ、取っ手が鉛筆線のままだ。
彩音が短い旋律を鳴らす。扉の輪郭が一瞬だけ強くなる。存在が固まる。
「入って」
月詠は扉を押した。
手のひらに、紙の繊維が押し返してくる感触。木製のはずなのに、紙の感触が混じっている。境界が曖昧だ。世界が“素材”をまだ決めきれていない。
中は小さな部屋だった。
蝋燭のような光が、どこからともなく揺れている。火は見えない。光だけがある。光源が省略されている。
月詠はそこで、初めてちゃんと息を吐いた。吐いた息が白くならないことに少し安心し、同時にそれが安心材料になる自分の情けなさを感じた。
彩音が壁にもたれ、目を閉じる。
「……本庁に気づかれた」
「アーカイブ庁?」
月詠が言うと、彩音は目を開けずに頷いた。
「回収対象になると、現場検閲だけじゃ終わらない」
「回収されたらどうなるの」
月詠は自分の声が、思ったより細いことに気づいた。恐怖がようやく追いついてきている。遅れてくる恐怖は、いつも鈍く、粘る。
彩音は一瞬だけ黙った。
その沈黙が答えに近い。
「“保存”される」
綴が言った。
「保存は優しさの顔をしている」
その言葉が、胸に冷たい釘のように入った。
絵都が小さく舌打ちをした。
「だから私は本庁が嫌い。作品を“生かす”んじゃない。“止める”」
月詠は壁の線を見つめた。修正跡の線。消し跡の線。世界の過去の迷い。
(止められるくらいなら)
思考が一度そこまで進み、すぐ引き返した。感情が追いつく前に、想像だけが先を走る。自分の想像が怖い。
彩音がゆっくり言う。
「噂がある」
その声は、音にならず、今度はちゃんと部屋の空気に溶けた。ここは比較的“現実”に近い層なのだろう。
「回収から逃げる方法」
月詠の喉が鳴った。鳴った気がした。実際に鳴ったかどうかはわからない。ここでは結果だけが先に来る。
「……あるの?」
「あるかもしれない」
「どこに」
彩音は目を開け、月詠を見た。
「禁書庫」
言葉が部屋の中で落ち、床に吸い込まれる。禁書庫――それは場所の名前というより、世界の裏側の呼び名に聞こえた。
綴が補足する。
「未完の作品が集められる場所」
「未完は削除対象じゃないの?」
「削除されるものもある」
絵都が言う。
「でも、消しきれないものもある。しつこい下書き。消すほど濃くなる線」
月詠は自分の指先を見た。
紙の地の目を思わせるざらつき。
(消しきれない線)
それが、自分だ。
背後で、扉が震えた。
外の廊下に、赤い光が走る。扉の木目が一瞬だけ鮮明になり、その次の瞬間、木目が“削除”されかけて途切れた。
現場検閲が追いついている。
彩音が立ち上がった。
呼吸が一拍遅れて戻る。
「行くよ。禁書庫の場所は噂しかない。でも――」
彼女は月詠を見て言った。
「あなたなら、辿り着けるかもしれない」
「どうして私が」
月詠の声が震えた。震えは遅れてきた。理解の後に来る震えは、身体に正直だ。
彩音は短く答えた。
「あなたは“余白”だから」
その瞬間、月詠の背中に、また“読む者”の気配が触れた。
ページが、めくられる。
世界が、次の段落へ進む。
逃走は続く。
禁書庫という単語だけが、胸の中で重く残る。




