第六話:読む者の気配
“読まれている”――と感じた瞬間、世界は紙に戻った。
空気の密度が変わる。湿度が落ち、乾いた繊維の匂いが濃くなる。インクが乾く前のかすかな刺激臭。ページをめくるときに立つ、紙粉の細い粒。
天神月詠は、喉の奥がひりつくのを自覚した。寒さではない。乾いた世界が肺の中の水分を奪っていくような感覚だった。
空に走った赤い線は、一本ではなかった。
いくつもあった。
校正記号が浮かぶ。削除の×、挿入の∧、移動の矢印。見慣れたはずの記号が、巨大なサイズで空間を横切り、街の輪郭そのものを手直しし始める。
遠くの塔の窓が一つ消えた。
壁に描かれていた蔦が、数秒遅れて“最初からなかった”ことになる。
路地の奥の影が薄くなる。影が薄いのではない。存在の優先順位が下げられている。
継ぎ目が見えた。
世界の塗り重ねの境界。紙の上に薄い紙を貼り、その上から描いたときに残る段差のような、ほんのわずかな不連続。
月詠は自分の皮膚にも同じ不連続があるのを感じた。腕の内側、肘のあたり。触れるとざらりとした感触がある。人間の肌のざらつきとは違う。紙の地の目みたいなざらつきだった。
(私は――紙の側なんだ)
その認識は、怖さよりも先に“しっくり”来てしまった。
感情はいつも遅れる。
理解が先に立ち、恐怖は後から追いかけてくる。
追いついた恐怖は、だいたい理解よりも重い。
彩音レイ(あやね・れい)は、肩で息をしていた。雨に濡れていないのに、呼吸だけが湿って見える。彼女の周囲の空気は、音の残響を帯びて揺れていた。
玻璃坂絵都は、筆を握り直す。指の関節が白くなる。絵画系の人間が緊張するとき、視線が“対象”を捉える方向に固定されるのだと、月詠はなぜか分かった。
語部綴は、ノートを閉じた。閉じる動作が妙に儀式めいている。彼の周りだけ、時間の粒が揃っているように見えた。
「来る」
彩音が短く言った。
その言葉は説明ではなく、予告だった。
そして予告されたものは、ここでは“起きる”。
月詠は空を見上げた。
赤い線の“向こう側”に、影がある。
影なのに立体感がある。
存在が紙から立ち上がろうとしている。
最初に現れたのは、足元の文字だった。
譜面の道に、黒い活字が滲むように浮かび上がる。文字列は規則正しく並び、まるで本文の一段落のように整っていた。
読めないのではない。
読もうとすると、意味が先に流れ込んでくる。
――照合。
――検算。
――分類。
――是正。
活字が道を走り、四人の足元を通り過ぎる。足首を撫でるような冷たさがあった。水でも風でもなく、“文字の冷たさ”。理解されるときの冷たさに似ている。
月詠は背中に汗をかいた。汗はあるのに、肌が乾く。矛盾が皮膚の上で同居している。
空間が折れた。
紙を折るときの、あの一瞬の抵抗。
空気が、見えない線でぱきりと折れ曲がる。
折れ目の向こうから、人影が歩いてきた。歩いてくるのに、歩行の途中が欠けている。コマ送りの映像を飛ばしたように、位置だけが更新される。
黒い外套。
白い手袋。
顔ははっきり見えるのに、記憶に定着しない輪郭。
その人物は、四人の前で止まった。
視線が月詠に落ちる。
視線というより、判定のカーソルだった。
「照合不能」
声は低い。感情がない。だが無機質とも違う。紙の上の活字が読み上げられているような響きだった。
月詠の胸の奥が、遅れて縮む。
怖い。
やっと、怖い。
「未登録」
次の言葉は、月詠の存在を“欠番”として扱う響きだった。
彩音が一歩前に出る。空気が震え、彼女の周囲に薄い和音の膜が立つ。防壁というより、境界線。
「彼女は今来た。未割当だ」
「割当処理は本庁管轄」
黒外套が淡々と言う。
「ここは現場」
その一言で、世界の温度がさらに下がった。現場――処理の場所。情け容赦なく手続きが実行される場所。
玻璃坂絵都が筆を掲げた。筆先の絵の具が、夜光虫みたいに淡く光る。彼女が描けば、壁が生まれる。穴は塞がる。逃げ道ができる。
語部綴の指が、閉じたノートの背を撫でる。書けば、因果が確定する。だが上位記述に上書きされるかもしれない。紙に書いたものは、より強い紙に負ける。
月詠は、三人の動きを見ながら、自分だけが“何も持っていない”ことを痛感した。
音もない。
筆もない。
ノートもない。
なのに、消えない。
(なんで)
疑問が、喉の奥に引っかかる。
黒外套が手を上げる。
空に赤い線が集まり、一本の太い線になる。先端が鋭くなる。まるでペン先。まるで刃。
その線が、月詠に向かって落ちてきた。
反射的に目を閉じた――つもりだった。
だが閉じ切る前に、月詠は見てしまう。
赤い線が落ちる直前、世界の“余白”が開くのを。
紙の端の白。
書かれていない領域。
何も確定していない空間。
それが、月詠の周囲だけ、薄く広がった。
落ちてきた線が、そこで止まった。
正確には、線が“意味を失った”。
赤が薄まり、命令の力が抜け落ちる。
校正線が、ただの赤い線になる。
刃が、インクの染みになる。
黒外套が、初めてほんのわずかに動揺した気配を見せた。眉でも目でもない。空気の揺れだけが変わる。
「……未完領域」
その言葉は、禁句に触れたみたいに小さかった。
月詠の体内で、遅れて何かが落ち着く。落ち着きと同時に、別の感情が生まれる。自分の中の“空白”が、外側に染み出している感覚。
怖い。
でも――それだけではない。
未知の手触りがある。
自分が何かの中心に置かれてしまった、という嫌な確信。
彩音が月詠の腕を引いた。
「今のうちに離脱する。ここにいると、本庁が来る」
「本庁?」
「アーカイブ庁」
その単語を聞いた瞬間、月詠の頭に“書庫”のイメージが浮かんだ。無限に続く棚。背表紙の色。分類番号。静かな圧。知識の重さ。
黒外套の足元に、活字が増える。文字列が渦を巻き、地面にスタンプのような黒い印が押される。
印章。
承認。
指定。
月詠は、その印が自分へ向けて押されるのを感じた。
「危険指定」
黒外套が言った。
「未完体――照合不能につき、回収対象」
回収。
破壊ではない。
排除でもない。
回収。
言葉が、妙に生々しかった。拾われる。しまわれる。分類される。保管される。――自由を失う。
月詠の胸の奥で、遅れて怒りが芽を出した。怒りはいつも鈍い。けれど一度芽が出ると、妙にしつこい。
(私は、提出物じゃない)
その反発だけが、はっきりした。
彩音が走り出す。
絵都が壁を描く。
綴が一行だけ書く。書く音が、紙を裂く音に似ていた。
月詠も走った。
譜面の道が旋律を鳴らす。
雨が音符になる。
赤い線が追う。
背後の世界が、また“読まれて”いく気配がした。
読む者は、近づいている。




