第五話:書かれたことは、起きてしまう
鐘の音は、空中に書かれてから鳴った。
楽譜が現れ、そこに黒い音符がひとつ打たれ、その直後に音が生まれる。原因と結果が逆転しているのではなく、“記述”が原因なのだと、天神月詠は理解した。
音は発生したのではない。
記された。
「いまの、見えた?」
彩音レイ(あやね・れい)が言う。
「うん。書いてから鳴った」
「それが基本原理」
「基本がもうおかしい」
「ここでは普通」
玻璃坂絵都は壁への加筆を終え、筆を空中で軽く払った。余分な絵の具が粒子になって消える。描かれた部分だけが現実として残る。
「音楽系は“振動で干渉”する。絵画系は“像で確定”させる」
「じゃあ、さっき言ってた物語系は?」
月詠がそう尋ねた瞬間、背後で紙をめくる音がした。
本のページが擦れる、乾いた音。
振り向くと、そこに机があった。
さっきまで存在していなかった木製の机。上には分厚いノートが一冊置かれている。
椅子に、男が座っていた。
いつからいたのかわからない。途中の時間が省略されている感覚があった。登場シーンが書かれていない人物のように、連続性がない。
「説明は正確に」
男は言った。
「物語系は、“因果を確定”させる」
ペンを持っている。インクの染みた指先。ノートには細かい文字がびっしり並んでいる。だが、文字は読もうとすると滲んで判別できない。意味だけが伝わってくる。
「語部綴」
男は名乗った。
「職業は記述」
「職業なの、それ」
「ここではね」
彼はペン先を紙に置いた。
さらり、と一行書く。
その瞬間、遠くの塔の上で旗が翻った。
さっきまで垂れ下がっていた旗が、強い風を受けたように大きくはためく。だが周囲の空気は動いていない。木々も揺れていない。
「いま、“塔の旗は強風にあおられた”と書いた」
綴は淡々と言った。
「だから、そうなった」
月詠はしばらく黙った。
理解が追いつくまでに時間が必要だった。
「……ずるくない?」
「便利とは言われる」
「便利の範囲を越えてる」
「制約はある。書いたことは取り消せない」
それは重い制約だった。
絵都が鼻で笑う。
「だから物語系は嫌い。世界を一方通行にする」
「確定は秩序だ」
綴は視線も上げずに言う。
「未確定はノイズだ」
その言葉に、彩音がわずかに反応した。
月詠はそれを見逃さなかった。
「じゃあ、この世界は――」
「三系統で維持されている」
綴が続ける。
「振動、像、記述」
「音楽、絵画、物語」
「そう」
月詠はゆっくり周囲を見回した。
塗りかけの街。
音符の道。
書かれてから鳴る鐘。
世界が、表現で成立している。
「じゃあ私は?」
自然に出た問いだった。
三人の視線が集まる。
少しの沈黙。
「未割当」
絵都が言う。
「未分類」
彩音が言う。
「未確定」
綴が言う。
三つとも似ているが、微妙に違う言葉だった。
「どれにも属していない」
彩音が言い直した。
「普通は、転生した時点で系統が決まるの。適性で振り分けられる」
「私は振り分け失敗?」
「例外」
綴がさらりと言った。
「たまにある。だが普通は検閲で消える」
「でも消えなかった」
絵都が月詠を見る。
「それが異常」
月詠は自分の手を見た。色が少し薄い。完成前の下塗りみたいな質感。
「未完成だから?」
「未完成は普通、削除対象」
「なのに?」
「検閲が“認識できていない”」
その言い方は、存在そのものを否定しているようにも聞こえた。
綴がペンを走らせる。
『ここにいる四人は、しばらく安全である』
空気がわずかに変わった。
温度が安定する。
緊張の層が薄くなる。
「いまのは?」
「保険」
「そんなこともできるの」
「できる。ただし――」
綴はペン先を止めた。
「破られることもある。上位記述に」
その言葉が終わるより先に、空が赤く線を引いた。
さっきの検閲線より、太い。
濃い。
「上位来た」
彩音が低く言った。
空間に、修正記号が浮かぶ。
校閲マーク。
削除指示。
差し替え符号。
世界が“チェック”されている。
月詠の背筋に、初めてはっきりとした寒気が走った。
ここは作品世界だ。
そしていま――
誰かが読んでいる。




