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第四話:完成されたものだけが存在できる

 赤い線は、空間を“引き直す”ように進んでいた。


 光でも刃でもなかった。もっと事務的なものだった。原稿の誤字を訂正するために引かれる、あの無機質な赤。感情も熱もなく、ただ規則に従って対象を消していく線。


 それが街区を横断する。


 触れた屋根が消える。

 窓が消える。

 影が消える。


 音もなく、崩れもせず、ただ意味が取り消される。


 天神月詠あまがみ・るうなは、その消失を“破壊”とは認識できなかった。破壊にはエネルギーがある。衝突がある。だがこれは違う。存在に付箋を貼って剥がしただけのような消え方だった。


「走って」


 彩音レイ(あやね・れい)が月詠の手首をつかんだ。


 指先の温度がはっきり伝わる。さっき触れられたときよりも、彼女の質感は現実に近かった。絵の具ではなく、ちゃんと体温のある存在としてそこにいる。


 二人は譜面の道を駆けた。


 踏み出すたび音階が鳴る。

 速く動くほど、旋律が細かくなる。

 足音ではなく、走行音楽。


 背後で赤い線が地面をなぞった。五線譜が途中から消える。音符が削除され、旋律が途切れる。


 月詠は振り返った。


 線は真っ直ぐこちらへ向かっている。迷いがない。まるで最初から対象が決まっているみたいに。


「検閲って何」


「存在チェック」


「雑すぎる説明」


「急いでるの」


 彩音は走りながら、空中に指を走らせた。


 そこに、光る五線譜が現れる。


 何もなかった空間に、譜面だけが生成される。彼女はそこへ音符を書き込むように指を動かした。書いた位置から音が生まれる。


 和音。


 強い三和音。


 空気が震え、空間の硬さが変わる。見えない壁のようなものが前方に立ち上がった。透明なガラス板に似ているが、材質は音だと直感でわかる。


 赤い線がそこに触れる。


 止まった。


 正確には、速度が落ちた。

 抵抗を受けている。


「音楽系は物理に干渉できるの」


 彩音が言う。


「テンポ、密度、調性で、空間の性質を変える」


「音が物質になるってこと?」


「近い」


 彼女はさらに音を重ねた。和音が層になり、透明な壁の厚みが増す。見えないのに、そこに“重量”があると感じられる。


 赤線はじりじりと進む。


「長くは持たない」


「どうして」


「検閲は上位権限だから」


 説明としては最悪だが、状況としては十分だった。


 月詠は周囲を見た。街の一角が半分だけ色づいている。建物の外壁に、塗りかけの空が映り込んでいる。


 その壁に、誰かが筆を走らせていた。


 少女でも少年でもない、中性的な人物。長いコートの背中に、無数の絵筆を差している。動きに迷いがなかった。塗るたびに現実が確定する。


 壁が完成する。


 窓が生まれる。

 質量が宿る。


「絵画系」


 彩音が短く言った。


 その人物――


玻璃坂絵都はりさか・えとが、こちらを見た。


 目の焦点が鋭い。対象を“モチーフ”として捉える目だった。


「レイ、何を連れてるの」


「未割当」


 絵都の筆が止まる。


「そんなもの、残ってた?」


「今さっき来た」


「消えるよ」


「消えない」


 短い会話だった。


 だが内容は重かった。


 絵都は月詠をじっと見た。測定するような視線。鑑定ではなく、構図を取る目。


「確かに薄い。下地だけ」


「本人に聞こえるように言わないで」


「事実だから」


 赤い線が、音の壁を突破した。


 ひび割れる音はない。ただ、和音が不協和音に崩れた。


 次の瞬間、線が月詠の身体を横切った。


 何も起きなかった。


 痛みもない。衝撃もない。消失もない。


 線はそのまま通過して、背後の建物を消した。


 彩音が目を見開いた。


 絵都の眉がわずかに動く。


「……通らない?」


「効いてない」


 月詠は自分の腕を見た。輪郭はそのままある。色は相変わらず少し薄い。


 消されるはずだった。


 だが消えなかった。


 赤線は空中で一瞬止まり、まるで再計算するように微細に震え、それから別の方向へ進路を変えた。


「認識できてない」


 絵都が言った。


「存在として“完成判定”が出てない」


「未完だから?」


「未登録だから」


 言い換えただけに聞こえたが、意味は違うのだろう。


 遠くで鐘が鳴った。


 だが鐘楼には鐘がなかった。

 空中に楽譜が現れ、そこに音が書き込まれた瞬間、音が鳴った。


 月詠はその現象を見て、はっきり理解した。


 ここでは――


 表現が先で、現実が後だ。


「ようこそ」


 彩音が言った。


「作品世界へ」


 歓迎の声なのに、少しも祝福の響きがなかった。

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